ストーリー?!
原発事故の教訓から、福島県は再生可能エネルギーについて「2040年度に100%」とする導入目標を掲げ、 ”再エネ先駆けの地”を目指しています。昨年度は新たな太陽光発電施設が整備されたことなどから、前の年度から4.8ポイント上がり、59.7%となりました。再エネの種類別では、太陽光発電が全体の8割以上を占めています。未曽有の原発事故と向き合うことになった福島県は、ある“理想”を描いた。
脱原発と再生可能エネルギーの導入推進。旗振り役だった元知事は、”二度と同じような 事故は起こしてはいけない”と話す。
それは社会的なコンセンサスを形にしたものだった。 ターニングポイントとなった日から15年余り。鮮明になる原発回帰と、強まる再エネ への逆風。
私たちの針路に、かげりはないのか。福島テレビの情報カメラが、巨大な“はげ山”を映すようになったのは2024年春。山が削られ景観の悪化が深刻となり、初めてメガソーラーの建設が進んでいることに 気が付いた。
取材を進めると、県内各地でメガソーラーをめぐる“軋轢”が生まれていた。
全ては東日本大震災から始まった、福島の過去と現在、そしてやがて来る耐用年数問題、廃棄の問題、はたして福島は?我が国のエネルギー問題まで浮き彫りにした本作とは?
第1章 被災地の青いパネル
2011年3月11日に発生した東日本大震災と東京電力福島第1原発事故。大部分が原発から30キロ圏内の福島県浪江町の谷津田地区と酒井地区で起きた。ここは福島原発から30キロ圏内で震災以後事故の影響(放射能)の影響下で許可が無いと入れないという、「バリケードがあって、許可をもらってまで入る人はいない、」浪江町、2017年3月に一部地域の避難指示が解除されたが、2026年5月現在、町の約8割が「帰宅困難区域」に指定され、今現在も自由な立ち入りを厳しく制限されている地区だ。劇中、淡々と話す男性の言葉に込められていたのは、諦念(ていねん)だった。「みんなバラバラになっちゃっている、震災で。地元にいる人は何人もいないから。だから、かわいそう、仏様も。お墓に入ってる人も」そう、何度も言うが、かって住んでいた人たちは、今現在も住んでいた土地に帰ることができていない、お墓参りさえも出来ないでいる。先祖が残してくれた土地にすら帰る事すらままならず、今だ帰宅できていないのが現状だ。しかし、震災前の谷津田地区には350人が暮らし、水田が広がっていた。水はけがよく、稲の根が強く育つことなどから、味が良いと評判で町内で有数の米どころだった。しかし、原発事故後、次々と建てられたのが大規模太陽光発電所、
いわゆる 「メガソーラー」 だ、そもそもこの映画の主題でもある厄介極まりないメガソーラーとは、太陽光発電所であり、出力が1MW(メガワット)(1,000kW) 以上の施設は一般的にメガソーラーと称されている。なお、地区内の公共施設やニュータウンの住宅街区のそれぞれの住宅の屋根に太陽光パネルを設置するプロジェクトにおいて、合計出力が1,000kWを超えるものを地域全体として「メガソーラー」と称する例があるが、通常これはメガソーラーとはみなされない。しかし、例えば1つの工場において、隣接する建物の屋根の太陽光発電設備の出力合計が1,000kWを超えるとメガソーラーとみなされるため、基準は曖昧である。ちなみに2022年6月現在日本最大のメガソーラー施設は作東メガソーラー発電所である。作東は岡山県美作(みまさかと呼ぶそうな、)市(旧作東町エリア)旧ペニンシュラゴルフクラブ湯郷コースの跡地や、旧作東セントバレンタインリゾート計画跡地を利用して作られ、規模としては日本最大規模:出力約260MWの日本最大級のメガソーラー発電所だ、そして、福島は2023年のデータではソーラーパネル設置数100か所以上、総容量: 太陽光の設備容量は約3,192MWこのデータは3年前の為発電量と設置台数ももっと増えている。話を戻すが、谷津田地区は2025年9月現在(劇中時間)で約20万枚(おどけでねぇ数のパネル数、腐るほどあるな、)の太陽光パネルが設置され2020年10月時点で約40メガワット、県内でも最大クラスの規模となっている。震災前と同じ場所にある墓地を、囲むように太陽光パネルは広がった。そこにかってあった稲穂には一面中太陽光パネルが敷き詰められていた、孫など家族6人と一緒に訪れた男性は、北に約20キロ離れた南相馬市からの道中、震災前の光景を思い出していた。「太陽光パネルは高いところから見ると、田んぼに水張ったみたいに見える。高速道路から見ると、水を張ったみたいで、(おー!田んぼやってるのかな)と思ったけど、全然違う。太陽光パネルにしちゃって、本当に寂しいというか、やっぱり落ち着きがない、今までだったらね、稲穂が出ている、少し出たくらいで、みんな田んぼの周りで草刈りしているような光景だった、こうやってテカテカテカテカって、誰もいない、イノシシしかいないような状態なんで」、
今、先祖の祈りは、メガソーラーの中で捧げられている。 。放射能、あの恐怖は今だに覚えている、
、 2025年3月11日 。 原発事故の影響を受けた浪江町の沿岸部では、警察や消防などが黙禱を捧げ行方不明になった人の手掛かりを探していた。黙とうを合図するサイレンの音をかき消すかのように吹く浜風が体温を奪い、遠い春を実感させた。浪江町は、町民約2万1000人が全員県内外に避難した。その中で災害関連死に認定されたのは444人、直接死(行方不明者を含む)の181人を上回っている。2025年9月現在腸内で暮らす人は2392人、震災前の約11%だ。震災後戻りづらい、戻れない町になってしまった町に急速に広まったのがメガソーラーだった。谷津田地区の隣に位置する酒井地区は期間困難者区域だが、住民の帰還に先駆ける形でメガソーラーが建設された。低音を時に出しながら稼働する浪江酒井第一・第2太陽光発電所。約70ヘクタールの敷地に太陽光パネルが約18万枚敷き詰められ、谷津田地区のメガソーラー地続きでつながっている。2つのメガソーラーを合わせると発電能力は約76メガワットで、、一般家庭で約2万3000世帯分の年間使用料に相当する。ドローンで上空から俯瞰すると、陸地に突如” 青い海” が現れたように見える。2018年に谷津田地区に帰還した町議会議員の松田考司。メガソーラーの事業者に土地を貸した一人だ。原発事故で祖父の代から受け継いだ米作りを諦め今は自家消費用としてジャガイモなどの野菜を栽培している。”青いパネル”が立ち並ぶようになった借地を案内してもらった。「うちね、そこから3枚、あとこっち3枚、あとは結構離れて借りていたところもある。合わせて4ヘクタール「1ヘクタールが、1000平方メートルなので、4000平方メートル)くらいで、結構たいへんだった、一人で米を作るには」事業者との借地契約が終わるのは2040年9月。それまで米作りはできないが、松田に後悔はない。決断を後押ししたのは原発事故特有の環境だった。そう、風評被害もあった。「みんな戻ってくれば太陽光パネルなんてやらなくっていい、だが、現実にやっぱり放射能、あの恐怖感は未だに覚えている。原発事故直後の精神的なストレスは凄かった。何を作っても色々と噂で聞いた。例えば何を作っても途中で捨ててあったという心無い話を何回か聞いた。放射能は今まで現実にありえなかったからね。
今の俺たちの世代はみんな悪いけど喜んでると思うよ。 ソーラーパネルで! 。 それはやっぱり先祖には申し訳ないけど、ただ現実を考えればやっぱり仕方ないって、放射能事故で家族を持つ人は学校や職場など色々あって、戻ると言っても戻って来られない。子供や孫が避難先で馴染んで生活していると、戻ってくるのは無理、絶対に!故郷の農地を荒らしたくないけど、若い人たちがやるかと言ったら疑問だね、たぶんできないと思う。」反対した人は誰もいなかった
メガソーラーの建設計画が地区に持ち込まれたのは、2017年のことだった。商業運転を始めたのは2020年8月、その年に自宅を再建し、故郷の谷津田地区に戻ってきた渡辺 茂之は、計画当初の出来事を鮮明に覚えていた。
「あの時に町内会に何十人来たかは分からないけど、 反対した人は誰もいなかった。 。 みんな賛成だった。やっぱり米作りをやりたいとは思わなかったのではないか、みんな、だから、みんなメガソーラーに賛成したんじゃないかなと。みんなの気持ちは分からないけど。こういう話を持ってきてくれたと。うんと良いことだなと感謝している。」
農作業をしながら、50代の息子と2人で暮らす渡部。地区に戻らない人たちに思いを馳せた日もあったが、その気持ちは徐々に揺らいでいったという。あっという間に月日は過ぎ去り、リビングの窓から見える太陽光パネルは日常になった。住宅が取り壊され更地になった。自宅の隣には、新たな太陽光パネルが建設さされる計画もあるという。 終始明るく、顔に刻まれたシワをさらに深くして笑う渡辺の姿には、不思議と影がなかった。
今率直に思うことは夢みたいだな、夢みたいだな、なんか一瞬の出来事みたいな感じ。14年経ってみると。(太陽光パネルが)隣も、後ろもあるからな、俺の家の周り。だから、 メガソーラー 。 の家の中に家が建っているみたいだ。先駆けの地へ、 理想と現実
東日本大震災と未曽有の原発事故後、福島では、メガソーラーは”復興の象徴”の1つとなり、原発事故で避難指示が出た浪江町だけではなく、福島県内に次々と建設されていった。その結果、福島県は全国1位の規模を誇るメガソーラーの”先駆けの地”ともいえる状況になった。 その起点となった原発事故の教訓から掲げられた理想と、軋轢も顕在化するようになった現実をおいかけた。
