意識とは何か――「私がいる」という不思議
私たちは、自分が意識を持っていることを疑うことはほとんどない。
今、文章を読んでいる。
文字の意味を理解している。
何かを考えている。
そして、「自分はいま考えている」と気づく瞬間に疑問が浮かぶ。
では、そもそも意識とは何なのでしょうか?この問題について、自分なりにわかりやすく簡単に文章にしてみました。
この問いを考えるうえで、まず登場するのが17世紀の哲学者デカルトという人物です。このコラムでは説明が長文になるため、彼に関心がある方は詳しい思考方法や人物像についての多くの書籍やパソコン検索してみてもらえると理解が早いと思います。
デカルトは、世の中にあるものを徹底的に疑った。目に見えている世界も、自分の身体さえも、本当に存在しているのか疑ってみる。
しかし、どれだけ疑っても疑うことができないものがある。
それが、「自分が疑っている」という事実だった。
そこから生まれたのが、あまりにも有名な「我思う、ゆえに我あり」という考え方である。
たとえ目の前の世界がすべて幻だったとしても、幻を見ている「何か」は存在している。
たとえ誰かに騙されていたとしても、騙されていることを経験している「私」は存在している。
つまりデカルトにとって、意識することは、「自分の存在」を確実にするものだった。
しかし、ここで新たな疑問が生まれる。
では、その「意識」は一体どこから来るのだろう。
現代では、脳の活動について多くのことが分かっている。
何かを見ると脳の特定の領域が活動する。
音を聞けば、それに対応する神経活動が起こる。
記憶や感情にも、脳のさまざまな働きが関係している。
では、脳の活動をすべて説明できれば、意識も説明できるのだろうか。
ここで登場するのが、現代の哲学者デイヴィッド・チャーマーズという人物です。彼について興味、関心ある方はデカルトと同じく検索などで調べてみてください。
チャーマーズは、意識について「ハード・プロブレム」と呼ばれる問題を提起した。
たとえば、私たちが赤いリンゴを見るとする。
光が目に入り、神経を通り、脳が情報を処理する。
この「何が起きているのか」は、科学によって説明できる。
しかし、それだけでは一つの疑問が残る。
なぜ、その情報処理に「赤く見える」という体験が伴うのか。
脳の中で電気信号が動いていることと、「赤い」と感じることは同じなのだろうか。
痛みについて考えてみてもいい。
脳内で痛みに関係する神経活動が起こっていることは説明できる。
しかし、「痛い」という体験そのものはどうだろう。
痛みを感じる人にしか分からない、その独特の感覚がある。
この「自分だけが経験している感じ」こそ、意識の難しさなのかもしれない。
デカルトは、「考えている私」の存在を出発点にした。
チャーマーズは、そこからさらに一歩進んで、「では、その私が経験している世界は、なぜ存在するのか」と問い直した。
ここには、科学だけでは簡単に答えられない問題が残っている。
脳をどれだけ詳しく調べても、「この人はいま赤を見ている」とは説明できても、「赤を見るとはこういう感じである」という主観そのものを説明できるのかは、別の問題だからだ。
意識は不思議だと思う。
私たちにとって最も身近なものなのに、その正体を説明しようとすると、途端に遠い存在になる。
毎日、自分の意識を使って考えているのに、「意識とは何か」と聞かれると答えられない。
もしかすると、意識について考えることは、世界の謎を考えること以上に、「自分自身の謎」を考えることなのかもしれない。
私たちは日々世界を見ている。
しかし同時に、「世界を見ている自分」を感じてもいる。
その「感じている私」は、脳なのか。
それとも、脳から生まれる何かなのか。
あるいは、そもそも「私」という感覚自体が、意識によって作られたものなのか。
デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と問いを始めた場所から、数百年が経った。
それでも私たちは、まだ同じ場所に立っている。
「私は確かにここにいる。では、この『私』とは一体何なのか。」
意識について考えることは、その問いから始まるのかもしれません。
