映画に遠い、サブカル学徒の私がChatGPTやWikipediaなどを参考に自習するヤツ、今回のテーマは「書を捨てよ町へ出よう」

「日本のインディペンデント映画の歴史」については、簡単に自習したので、今回は実際に、「日本のインディペンデント映画の歴史」の作品を見て行こうと思います。そして、今回見る作品は、数ある、ATGの作品の中から、寺山修司が監督した「書を捨てよ町へ出よう」です。

最初に断りを入れておきますが、私は映画に遠く、まだ、映画について、楽しみながら、学んでいる身なので、感想などの文章が少し、いや、かなり、間抜けでも、目をつぶっていただけると幸いです。

という事で、とりあえず、ChatGPTにこの作品の見どころを聞いたので、まとめたいと思うのです。

1.「映画の中には何もない。町へ出よう」という挑発

映画は冒頭から、観客に向かって「映画の中には何もない。さあ、外の空気を吸いに出てゆきたまえ」と語りかけます。映画に没入させるのではなく、「現実に戻れ」と挑発する、当時としては非常にラディカルな演出です。

2.ジャンルが次々に変わる自由な構成

ドラマだけでなく、ミュージカル、ドキュメンタリー、演劇、詩の朗読、政治的パフォーマンスなどが混ざり合います。「ストーリーを追う」のではなく、映像や言葉の連想を楽しむ作品です。

3.映像表現の実験

色彩の急激な変化、カメラ目線、編集の飛躍、舞台のような美術など、1971年とは思えないほど大胆な映像表現が続きます。写真家・鋤田正義が撮影を担当していることもあり、一枚絵として印象に残るカットが多い作品です。

4.音楽のエネルギー

J.A.シーザーらによる音楽が作品全体を貫きます。歌は物語を説明するためではなく、登場人物の感情や社会への反抗を爆発させる役割を果たしています。

5.「若者はどう生きるべきか」という問い

タイトルの「書を捨てよ」は、本を読むなという意味ではなく、知識だけで満足せず、自分の身体で世界を経験せよというメッセージとして読むことが出来ます。寺山修司のエッセイにも通じる、既成概念への反抗が全体を貫いています。

そして、私がこの映画を見て思うのは、映画にしろ、何にしろ、そこで表現をしたところで、世界は変わらない的なことなんです、どんなに、地球の根源の、カオスのような映画を作ろうが、そして、そんな、カオスのような映画を体験しようが、そんな事では、世界は変わらないのでは、というような問いを感じるのです、そして、この映画からは、そんな問いから始めようというような気概を感じるのです。圧倒的過ぎる映画体験、圧倒的過ぎる問い、それらが絡み合って、この映画は出来ているのではないかと、個人的には思うのです。

そして、そんなことをChatGPTに聞かせると、ChatGPTは、こんなことを言いました。

『書を捨てよ町へ出よう』は、一見すると「町へ出ろ」「現実を変えろ」という映画に見えます。しかし実際に観ると、映画そのものが、自分自身の力に対しても疑いを向けています。

・映画を作ったところで何が変わるのか。

・芸術は本当に革命になり得るのか。

・観客は映画館を出たあと、結局いつもの生活へ戻るだけではないのか。

そんな自己懐疑が作品全体に流れています。

寺山修司は、「映画は世界を変える」と断言しているわけではなく、「変わらないかもしれない。それでも問い続けるしかない」という姿勢を見せているようにも読めます。

・世界は変わらないかもしれない。

・芸術も無力かもしれない。

・それでも、問いを立てることだけはやめない。

その態度そのものが、『書を捨てよ町へ出よう』のエネルギーなのかもしれません。

寺山修司の作品は、明快なメッセージを受け取るというよりも、見終わった後に何日も、何年も考え続けてしまうような「問い」を残す作品です。

そして、この映画を見終わった、私もまた、そんなエネルギーにやられてしまった、一人の人間になってしまったのかもしれません。

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パンクロックなどのサブカルチャーが好きなサブカル学徒です、novalueでは、私が、サブカルチャーを学んでいる姿を面白おかしく共有出来たら幸いです、よろしくお願いいたします。

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