桜の季節に

桜の季節に 
 
 
桜の花が咲く頃にいつも思い出す事があります。 
 
高校の入学の時、校庭に満開の桜が咲いていて、それはその時まで見てきた中で最も心動かされた光景でした。 
 
まだ病気が発病する以前のことです。 
 
父がいて母がいて自分がいる。当たり前の事なのに、何故か体が空に浮かんでいる感覚がして、自分は一人ぼっちなのだ、と感じ、ふわふわとした不思議な不安感覚に陥ったのを思い出します。 
 
何年か前に桜の花が咲き誇る上野公園で、多くの人達が宴会を開いている中を、とぼとぼと一人で歩いていた時にも 
 
散りゆく桜の花びらと宴会の人達の間に奇妙なアンバランスを感じていました。 
 
先人たちは花の散りゆく様に「もののあわれ」を感じたのでしょうが、自分にはそのような感覚はなく、今日一日をどうやって生き延びるかだけを考え、詩情感の入り込む隙間はありませんでした。 
 
それよりも桜の花が舞い散る姿には、美しさより「残酷さ」を感じていました。 
 
満開の桜の時には人々に愛でられるのでしょうが、風で舞い散った花びらはゴミとして誰にも見向きもされません。 
 
それは、桜の花の最盛期からやがて死をむかえて行く様を見ているようでした。 
 
自分の心の傾きが、そのように感じさせてしまうのでしょう。 
 
*「桜の樹の下には屍体が埋まっている」で始まる有名な梶井基次郎の文章には、 
 
あのように見事に咲きほこる桜の花が信じられない、それは彼の不安を益々生じさせます。 
 
あの桜の樹の下には動物や人間の屍体が埋まっていて、その養分を吸い上げているのだ、との思いと、河原でみた何万もの夥しいウスバカゲロウの屍が、彼の心を確信へと導いて行きます。 
 
その惨劇の中でこそ心の平衡を保ち続けることが出来るのだ、憂鬱こそ自分の心を安定させられるのだ、との思いです。それは矛盾を孕んだ言葉ですが、 
 
その矛盾こそが「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という確信へと変えていきます。 
 
著者の文章の最後は「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする」で終わっています。 
 
題名「桜の樹の下には」の短い文章ですが、自分の心に激しく突き刺さるものがあります。 
 
自分にもいつかは桜の花が舞い散るその樹のしたで、心に思う「残酷さ」ではなく、かつての自分が持っていた花への素朴な喜びと、哄笑を持って過ごせることが出来る日々が、訪れる事を願っています。 
 
  つたない文章ですが、最後まで読んでくださってありがとうございました 。
 

引用*青空文庫 梶井基次郎「桜の樹の下には」より  しっぽな

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しっぽな

しっぽな

身体はだいぶカラカラに乾いたたおじさんです。病との戦闘は数十年と永く、今は五分五分というよりは三対七で押され気味です。趣味は、散歩、卓球、自転車。映画観賞。散歩以外はほとんどご無沙汰で、体調次第です。このコラムも度々にしか更新できないと思いますが(読んで下さる方がいらっしゃればの話ですが)、ご容赦を。不眠が続いているので、ゆっくり眠りたいです。

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