海外文学と一人称

新潮文庫版「宝島」スティーヴンソンを読んだ。実は紙媒体で読むことが初めてだったゆえ、作品の世界に思う存分浸れたような気がする。※既読は光文社古典新訳文庫版と青空文庫版

本筋については何度か他の訳で感想を書いたため省くが、訳者後書きを読むと少年が主人公の一人称・回顧録形式の小説を訳するとき、地の文の一人称は何か?という問題に直面したらしいことに気づく。

スティーヴンソン「宝島」やエクトール・マロ「家なき子」を読んでいると思うわけだが、前述二作品の訳は地の文における主人公の一人称が「ぼく」か「わたし」かで分かれる。語り手となる主人公が回顧する時点で成人だということを考慮すれば「わたし」であることが合理的だが、感情移入したいとう意味では「ぼく」に軍配が上がる。

「家なき子」だと、河出書房新社版の抄訳では最後に主人公レミが成人した後のくだり(つまり、回顧ではなくなっている箇所)のみ地の文の一人称が「わたし」になっていて、「家なき子」に関してはこれが一番合理的だな…と思ったことがある。

個人的な好みとしては回顧されている時期に一人称を合わせてほしいという感覚はあるが、「宝島」の後書きにあるように、これは訳者の好みな気がする。 一人称の使い分けは日本独自の文化ということで、個人的には使い分けられるならば使い分けてほしいが。

また、古い邦訳になるほど主人公の一人称が(少年であっても)「わたし」になる確率は上がるような気がする。時代柄なんだろうな…。

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普段は別名義の個人サイトで二次創作やっているような、いにしえのオタクです。ここは一次創作と雑記置き場です。

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