食べて、恋して、祈って~石川啄木~

私には、好きな詩人がいる。それは、石川啄木だ。太く短い人生を生き、26歳という若さで亡くなった啄木は、結果的に生き急ぐ人生と生活苦に悩みながらも短歌や詩で自分の本音を読み、当時から天才と評価されていた。ここでは、私が啄木の何が好きかということより、啄木がどういう人生を送ったかを知ってほしい。

石川啄木は、1886年、岩手県盛岡市に4人兄弟(5人兄弟という説もある)の長男として生まれる(しかし幼くして亡くなった兄弟が多く、成人したのは啄木を含めて2人だけであった)。本名は一(はじめ)。啄木はペンネームで、中学校時代から、「詩人として生きたい」という強い願望があり、本名の一より、文学者としてのもう一人の自分を象徴する名前を求めた結果、啄木となった。啄木の「啄」は「ついばむ」という意味で、「石を啄(ついば)む」=石をつつく鋭い音をイメージして、鋭さ・硬さ・生命力を表したと言われている。音からも硬質の文学の響きがあり、啄木の目指す「鋭い詩」の象徴であった。

このペンネームからも文章力のセンスがあったことがうかがえる。

父は、寺の住職であり、優しい人ではあったが、よく言えば非常におおらかとでもいうか、はっきり言えば何事にもルーズで、特にお金の管理が苦手で、責任感が弱いタイプだった。そのため好人物だが、家族の生活は回せない人だった。本来、村の寺は地域の精神的支柱だが、父はお金の管理が苦手だったので、周りからだらしないと思われ、最終的には、村人からの信頼を失い、寺を追われる形になった。啄木は幼少期のころから、父のだらしなさによる借金苦、転居、生活の不安定さに悩まされており、この経験はのちの啄木の作品に大きく影響する。

啄木は、中学に進学した頃から、文学に没頭し、授業をさぼりがちになった。16歳で、学校を退学する。同級生の美少女が「与謝野晶子に似ている女性」で、その女性への片思いの影響もあったと言われている。(少し変わっていたかもしれない。)

中学校を退学後、地元の代用教員(非常勤教員)になった啄木。(当時16歳)啄木が生きた時代は、教員不足が深刻で、正式な師範学校卒でなくても、一定の学力があれば、代用教員として採用される制度があった。啄木は、学力自体は高く、文学的な素養も認められていた。地元でも、才能ある若者として認知されていたため、教員採用のハードルも下がったと考えられる。

しかし、詩人になりたい夢が強く、教職に身が入らず1年ほどで退職する。その後、文壇で成功する夢を抱いて17歳で上京するが、すぐに生計がたたなくなり、一端帰郷する。東京生活で作った借金もあり、家族からも責められて自信喪失する。

この頃の劣等感が、のちの短歌の原点になる。

その後、逃げるように北海道、函館へ行き、「ここで成功しなければ終わり」という気持ちで、創作活動に臨み、自費出版で詩集を刊行する。

しかし、函館大火災で、住居と詩の原稿を焼失する。その後は、北海道を転々とし、小樽新聞社に入社するが、元来の気性の激しさやプライドの高さで同僚と対立し、すぐ解雇される。その後、札幌の新聞社にも勤めるが長続きしなかった。この時期、恋愛問題や金銭トラブルで、人生全体が不安定になる。

そんな中で、啄木はアメリカ留学を強く希望するようになる。当時、アメリカは文学、文化、思想の最先端の国とされていた。啄木は、アメリカの新しい詩の表現や近代的な文学、西洋的な自由な感性に強く憧れる。盛岡の小さく保守的な社会に自分の居場所はないと感じ、アメリカを自分の才能を伸ばせる自由な世界として、理想化していた。若い啄木にとって、アメリカは人生を一から作り直せる場所でもあった。しかし、現実は、啄木は母と妹の生活費さえ払えず、生活は常に火の車であった。(父は失職し、啄木は長男であったから、母親や家族を養う責任があった)その上、啄木自身も若い頃から体が弱く、結核の兆候もあり留学は完全に夢でしかなかった。

前述と重なるところもあるが、啄木は21歳の時に、幼馴染みの節子と結婚する。(節子の実家は、雑貨商で、経済的には中くらいからやや下のレベルの貧しい家庭であった。)結婚したのは、函館大火災より以前で、代用教員として働いていて、比較的生活が安定していた頃で、節子を北海道に呼び寄せることにした。それぞれの親たちは、あまり結婚に賛成していなかった。そして親たちが心配したとおり、1907年の函館大火災で全てを失い、その後、小樽、札幌、釧路と北海道を転々としたあと、二人は上京する。この期間二人の生活は極貧で、共に苦労する。北海道時代の啄木の恋愛問題は、はっきりとしているのは、節子のみで極貧から結婚生活がうまくいかなくなった。釧路で、新聞社で働くようになった頃、はっきりとはしないが、別の女性に好意を抱いていたという説もあり、これも夫婦仲の悪化の一因と見られる。そんな中、節子は病気がちであったが、働いて啄木を支えた。啄木は、日記に「私を静かに支えてくれる、沈黙の妻という存在だった」と書き残している。

北海道生活は、啄木にとって、結婚、詩人としてのデビュー(将来への希望)、安定からの転落などが入り混じった日々であった。

22歳で(妻と娘と共に)上京した啄木は、最初はほぼ無職で家賃も払えず、借金まみれの生活を送っていた。極貧の中から這い上がるため、啄木にとって、安定した大きな収入が必要だった。啄木は、東京に母親も連れてきていたので、文学仲間のコネとネットワークを最大限に活かして、朝日新聞社に入社する。(当時の啄木には、与謝野鉄幹や与謝野晶子といった文学会の繋がりがった。)朝日新聞には、文学に理解のある人物も多く、「若い詩人を助けよう」という空気があったと言われている。職業としては、朝日新聞社契約社員で、仕事としては、雑誌編集補助、代筆・翻訳、校正係などだった。働いていたものの賃金は、当時の最低ラインだったため、贅沢は全くできず、常に節約を強いられる生活であった。しかし、妻節子の献身的な支えがあったおかげで、創作活動が続けられた。この時期に、のちに発表される「一握りの砂」に収められている極貧生活の心を詠んだ啄木の代表作がある。「はたらけど はたらけど なほ わがくらし らくにならざり じっと てを みる」。意味としては、一生懸命働いても、生活は少しも楽にならない。その虚しさや絶望を抱えて、自分の「働く手」を見つめている、である。

給料は少ないものの北海道ですぐに辞めてしまっていた新聞社での経験も武器になったようで、さらに啄木は、若くして、国語力、漢文への理解、校正力(誤字を見ぬく力)が高く、新聞社の校正係として即戦力になると判断してもらえたため、普通なら就職できない大会社で働けることになった。

こうして、収入が安定すると、貧困生活の中で、精神的に寄り添う女性に惹かれることもあった。東京では、文学サークルや編集関係の人々との交流が増え、その中にいる若い文学少女や女性作家に淡い恋心を抱くことが多々あった。相手の名前など確実なものは残っていないが、恐らく啄木は、死ぬまで何人もの憧れの女性に淡い恋心を何度も抱いていたのだと思う。一部の伝記やドラマでは、遊郭に通っていたとか、芸者遊びに夢中になっていたと描かれることがあるが、啄木は、貧しく、遊ぶ余裕はなく、イメージで描かれたと思われる。朝日新聞社で働くようになってからは、しっかり家庭にお金を入れ、家賃も払っていた。それは、既婚者としての責任ある生活が、ちゃんと基盤にあったからである。心の中だけで、詩を書く上で糧となる理想の女性や純粋な愛を求めていた。

啄木は、常に生活苦、家族の病気や(妻節子、母親、妹と家族全員が病気がちで、啄木の家では、常に家庭内に病気、看病、貧困の空気があった)将来の不安に追われていた。そのため啄木は、誰かの幸福を願うより、自分の明日を考え、祈る人であった。自分の弱さや孤独をそのまま言葉にする、非常に正直で人間的な詩を詠む人物であった。しかし、啄木は、生前に成功することはなかった。生活苦が深刻すぎて、創作に集中できなかったからとも言われている。啄木は、家族の生活費、それを賄うための借金の返済、病気の家族の看病に追われる毎日であった。実家が貧乏であったため、親と(唯一生き残った)妹までも養う必要があった。このような状況では、長期的な創作や大きな文学作品の執筆はほぼ不可能であった。

それに加え、啄木が生きた時代背景や文学界の事情、高すぎる本人のプライドが複雑に絡み合っていて、詩のスタイルが、当時の正統派の好みと合わなかった。啄木の詩や短歌は、生活の苦しさや愚痴、労働の辛さなど、非常に生々しい「生」の感情が多く、当時の文学界では、夢や希望のある格調高い詩や美しく整った詩が本流とされており、啄木のような、日常生活の見たくないことや聞きたくないことを詩や短歌にしても、非日常が良しとされていた時代なので、評価されにくかった。

今では、生活の暗い部分を読んでいた啄木の詩や短歌は、「啄木のリアリズム」として評価されているが、当時は認められなかった。啄木は、感受性が非常に強く、物事を深刻に考える癖があった。落ち込みやすく、人間関係に疲れやすい、仕事が続かない、理想が高いが行動力が続かない(プライドだけは高い)といった性格が詩や短歌の創作を難しくしていた。人間関係を構築するのも苦手であったため、文学界での立場も築きにくく、文壇の派閥にうまく入れなかったこともあり、強力な後ろ盾も作れなかった。そして、啄木が生前に成功しなかった最大の理由は才能の開花が早すぎ、亡くなるのが早すぎたからではないだろうか。生前に出版された詩集は、ほぼ「一握の砂」だけであった。(自費出版や雑誌投稿もしていた)長生きをしていれば、大きな評価を得る作品をもっと残せた可能性が高いが、時間が足りなかったと言えよう。文学界では、死後に再評価され、「近代短歌の革新者」として歴史的地位を確立したという稀にみるパターンの作家である。

上京後、朝日新聞社で、校正係をしていたが、その後社会部記者として勤務。社会部での経験は、その後の生活苦や社会の矛盾を詠んだ短歌や詩に影響を与える。1910年、「一握の砂」を刊行。

生活は相変わらず極貧で、体調が悪化し続け、結核が深刻化。1912年、26歳で死去した。死からわずかな期間に、遺稿集「悲しき玩具」が出版されるほどの多くの作品を残す。

貧困と家族の病気の看病の負担などで、創作活動がうまくいかなかった時期もあるが、母思いで、妹をかわいがり、妻にも感謝していた啄木。彼の性格や生き方が、時代や環境にもっと適していたら、きっと、もっと素晴らしい詩人、歌人になれたであろう。

改めて、啄木のことをまとめると、啄木は、生き急いでいたわけではなかったのかもしれない。早くから才能に目覚めたので、26年という短い人生も濃厚である。

日常を詠んだ詩や短歌も、今読むと生きる力になる。

啄木にとって、「食べること」は現実の苦しさそのものであった。貧しさから逃れることができなかった人生である。

そして、貧しさの中で常に淡い恋心を抱く人生でもあった。一方で、妻を深く愛し感謝し続け、家族への責任感もあったので、極貧の中母や妹も養っていた。

そして、啄木の人生は、常に祈る人生でもあった。政治や労働問題に強い関心を寄せ、社会の矛盾を見つめ、家族のこと、詩や短歌のこと、未来のことを想っていた。祈りにも似た真摯な想いが啄木の人生の支えとなっていた。

啄木の人生を振り返り、少しでも彼の人生に救いや希望があったならばと感じる。

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はる組

こんにちは。 懸賞応募と海外留学などのエッセイを読むのが趣味です。 発達障害で困ることも沢山ありますが、どうよろしくお願いします。

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