
厚いビロードの天幕が上がって、客席の明かりが漏れてくる。
――開幕だ。
そんな声が聞こえた気がしました。
上記の写真は、2月15日5時55分に撮った朝焼けの風景です。
この日の私は3時半頃に目が覚めてしまい、二度寝もできなかったので、年末に購入して以来手付かずだったワーク系の手帳のワークを解いて時間を潰していました。
ワーク系手帳とは、マンスリーやバーチカルといったいわゆる一般的な手帳に、コーピング(ストレスを感じた際に対処するための行動)や、ジャーナリング(書く瞑想)などのメンタルケアを目的とした質問のページがついている手帳のことで、1年を通しそれに答えていく中で、自分と向き合い、自分の扱い方を知っていくツールだと私は認識しています。
余談ですが、今年の私は『セットアップダイアリー』というワーク系手帳を購入しまして、【本当の私からのメッセージ】という項目では、予想外に【本当の私】から、いやむしろ魂からの訴えのようなものを頂きまして、なかなか楽しく号泣したりしました。
2時間ほど集中してワークに取り組み、5時半を過ぎた頃、母に「朝焼けがすごい」と呼ばれたので、スマホを持って駆け付けた次第です。
なかなか満足のいく綺麗な写真が撮れたので、私は「電線がちょい邪魔なんよな」などと、ちょっと斜に構えながらラインで弟に共有したところ、
「朝と夜が電線跨いでるみたいで良いやん」
と詩的でまっすぐな返信をもらい、電撃が走るような衝撃とひらめきを受けたことを今でも昨日のことのように覚えています。
ところで私は思考がよくバッタのように飛ぶのですが、この時も弟の返信から年末年始の観ていたyoutubeの占い動画に思考を飛躍させていました。
動画の内容は今年2026年丙午の運勢を自分で占うというもので、やり方は簡単。『丙』というを漢字を見て、直感で思い浮かんだことが、今年1年を通してこんな状況・感情になりやすいことを表しているよ、というものです。
私は『丙』という字を見て『垂れ下がった幕(紅白幕、出番待ちの舞台袖)入り口』だと直感的に思いました。
弟の一言で改めて写真を見直したとき、
「そうか、この朝焼けの写真は開幕を控えた舞台袖の情景なんだ」といたく納得したのです。
そして同時に、占いの結果を象徴するような絵が撮れたことを純粋に喜んでいました。
さて実のところ、写真について報告したいことの9割はこれでおしまいです。
しかし他人様に提出する記事が、こんな雨上がりの水溜まりのような浅い内容で終わって良いはずがありません。
ですので私は、なぜ6月現在(執筆時点)になって、こうしてわざわざ記事に起こしたいと思ったのかを考えることにしました。
1つ出てきた案が、この半年の振り返りをしたいのかな、ということでした。
新年の目標というものは、約9割の人が立てたことすら忘れてしまうらしいです。忘れてしまうから叶わない。つまり思い出すだけで目標達成に一歩近づくというわけです。
というわけですので手帳の1ページ目を振り返りますと、衝撃的な事実が発覚しました。
なんとそこには、元旦に占いで見たやつや、なんか無料講座で聞いた受け売りが並べてあるばかりで、自分自身で考えた目標は立てられていなかったのです。
振り返る目標がなかったので、私は仕方なくこの半年の出来事を振り返ることにしました。
この半年、私なりに色々頑張ってきた気がします。
引きこもりが穴ぐらを出て就労支援の事業所の門を叩きました。お仕事の一環として、初めてコンテストにイラストを描いて応募しました。こちら(novalue)の投稿用アカウントを作成しました。
怒涛の半年だったと思います。けれどあまりに怒涛すぎて自分の人生をコントロール出来ている感がないといいますか、何とも流されているようで「あれ? 私やりたいこと、ちゃんと出来てる?」という焦りがあったのも、また事実です。
目に見える成果が、半年かけて投稿用アカウントの発行のみ、というあまりに蝸牛の歩みに、私の中のせっかちさんが驚いていたのかもしれません。
アカウント発行など創作活動において入り口も入り口。いわば控室を出てステージの舞台袖にようやく着いた、くらいの感覚でしょうか。まだまともな作品を発表できていない、それどころか作れてもいない、これじゃあ私の価値を示せない――と、まるで『不思議の国のアリス』に出てくる白うさぎが「急がないと、早くしないと!」と跳ね回っているような焦燥感が根底にあったのかもしれません。
うさぎといえば、『うさぎとかめ症候群』というものをご存じですか?
ご存じないのも無理はありません。私が勝手に病名っぽく名付けたものですので、そんな症例は存在しません。
私には終わりや完成が見えてくると、なぜだか途端にやる気がなくなるという悪癖があります。ゴールが見えると何故だかやりたくなくなるのです。
すぐそこにゴールは見えているのですが、手前で止めてしまうので永遠に終わることはなく、締切が指折り数えられるようになった頃、焦った私が「え、終わってないやん。なんでやらんの? やらなあかんやん。なぁ、やれよ」とドスを利かせ、自分を叱責し苦しくなる、この心理状態を、私はイソップ童話『うさぎとかめ』の寓話に基づき『うさぎとかめ症候群』と名付けさせて頂きました。
イソップ童話『うさぎとかめ』とは、なんか知らんがウサギとカメでかけっこをすることになり、足の遅いカメを舐め腐ったウサギがゴール手前でお昼寝ぶちかまし、最終的に実直に歩みを進めてきたカメにウサギが負けるという寓話です。
創作活動においてこの悪癖は致命的です。締め切り前はおろか、制作中ですら毎秒苦しいのですから。
せっかくですので、水溜まり記事回避(ネタ作り)のために、私はこの『うさぎとかめ症候群』について自分の感情を深掘りしてみることにしました。
ノートを開き、ペンを持ちます。
「なんで終わりが見えると、急に手が止まるの?」私が聞くと、
『なんでだろう? 終わりたくないから?』と深層心理にわたしが答えます。
「なんで終わりたくないの?」
『だって……終わりたくないから』
答えに要領を得ません。私は質問の仕方を変えます。
「そも、終わったらだめなん?」
『……締切前に終わったら能力高いみたいじゃん』
「えっ能力高いとあかんの?」
『だって私能力高くないもん。ミスが多くて、やり直しや訂正ばっかで』
「やり直しや訂正ばっかだとあかんの? なんで?」
『手間かかるやろ。迷惑もかけるし。相手にその都度チェックさせて』
言って、深層心理のわたしがポツリと付け足します。
『だって、使えんなあ、とか、頭悪いなあとか、不器用仕事できないとか、思われたくないやん。失望されたくない』
私は無垢を装って、わたしに疑問を投げかけます。
「やり直しや訂正ばっかだと失望されるの?」
『うーん?』聞かれて、わたしが悩みます。
「ミスが多いと失望されるの?」
『そりゃ……提出したやつがミスだらけだったら、「えぇ……」と思うかもしらんけど、それが締切前で余裕があったら「事前に見つかって直せてよかったやん」ってなるかもしらん』
「せやろ。能力高くないなら、なおさらリテイク重ねていった方がええんじゃないの」
『せやな……』
ふと、私もわたしも、おそらく同時に思いついた説が1つありました。
――私は、自分が他者に、あるいは自分自身に怒られる(責められる)ように、現実をセッティングしていたのではないだろうか?
ゴーレム効果、というものをご存じでしょうか。
こちらは本当に実在する心理学用語です。
AIのまとめによると『ゴーレム効果とは、他者からの低い期待が本人のパフォーマンスを低下させる心理現象』のことだそうです。
例えば、私(もちのすけ)の上司が、彼の仕事仲間あるいは家族に、
「もちのすけくん(私)って悪い子じゃないのはわかるんだけど、ミス多くてね」とか「はぁ……やっぱあいつはダメだな、使えない」「仕事できないなぁ」などと愚痴を吐いたとします。
そうすると上司の有能な脳内では『もちのすけくん』って『ミスが多くてダメで使えなくて仕事できない』子だという証拠を集め始めます。脳は自分の立てた仮説や信念を立証するために偏った証拠ばかりを集めてしまうのです。これを確証バイアスと言います。
脳の偏った証拠集めは、実際にもちのすけくんに接するときの態度にも影響を与え始めます。声のかけ方、情報やチャンスを無意識に渡さなくなるなど、さまざまです。人の悪意というものは銀並に熱伝導率が高いようで、敏感にそれらを察知した当人は委縮し自身を失い、結果としてパフォーマンスを落としてしまいます。
つまり上司の描いた通りの『ミスが多くてダメで使えなくて仕事ができないもちのすけくん』が完成するというわけです。まるで恐ろしい呪いのようです。
ゴーレム効果とは、本人の耳に届かないところで展開していても発動する遠隔の術式のようなもので、当時私が本当にそう評価されていたかどうかは確かめようがないことですが、あの時、委縮し過ぎて消えるのではないかと思うほど毎日社内で小さくなっていた私が、ゴーレム効果による呪いのせいだったのだとするならば、今になってようやくあの日の私を幾ばくか慰めてあげることができそうです。
私は初就職先が接客業だったのですが、いつまで経っても接客が下手で、なおかつレジ締めを覚えることが出来なかったのです。
トラウマとは、もっと凄惨な大事件だからこそ出来るものだと思っていたのですが、意外と日常の些細な擦り傷でも出来るものなのかもしれないと認識を改めました。擦り傷だって丁寧に洗って消毒して絆創膏を貼っておかないと、傷口が残ったり、膿んだりしますものね。
あの時私は「なんでこれくらい出来ないのだろう」と思っていましたし、「出来ない私が悪いのだ」と思っていました。
ずっと私は、私に無能の呪いをかけ続けていたのかもしれません。職場を辞めて何年も経った今でも。
話は変わるのですが呪いといえば、これは妖怪好きの持論なのですが、呪いとは「呪いをかけられている」と認識できた時点で解呪が半分成功していると考えています。
妖怪話の中でも有名な『化け物問答』も、旅の坊さんなんかが謎の化け物にいちゃもんをつけられ「おれの名前を当ててみろ。当てれなければお前を食うぞ」とか脅され策を巡らして化け物の名前を当て、撃退する話ですし、現実の心理学だって認知行動療法といって、まずは自分の現状を知ることこそが治療の第一歩だと言っています。
気づいただけで半分解けているとはいえ、気づいただけではまだ半分残っていますから、ここからの解呪にはなんらかの具体的な行動が必要です。化け物問答だって、化け物の名前を知ってから、化け物に真名を告げるというアクションをしていますし、認知行動療法だって、揚げ物を食べると体調を崩すと気づいたら揚げ物を避ける行動を取る必要があるのです。
とはいえ無能の呪い解呪のためにできる具体的な行動など、そんなこと簡単に思いつけたら今こんなに困っていませんから、ここは1つ今年の下半期の目標を立てて、この記事を締めさせて頂きたいと思います。
朝焼け写真の自慢から始まった本記事。
上半期の振り返りまでして記事を引き延ばして、私はここで一体何を語りたかったのだろうと考えていたとき、窓辺にでっかいバッタが1匹盛大に飛んでいきました。
そしてふと思ったのです。私は覚悟を決めたかったのかもしれない、と。
朝焼けを見て、開幕の舞台袖の情景のようだと、はしゃいだ2月。
投稿アカウントが発行され、いよいよ自己発信の入り口に立った6月。
本当に舞台袖に立ったような気持ちです。
何の舞台か、てらいもなく言うとするならば、自分の人生というやつでしょう。
思えば引きこもりのニートになったのも、自分の人生をどこか他人事のように眺めていたせいだったからかもしれません。何にも挑まなければ、何も得られない代わりに何も失うことがありません。
私は怖かったのです。努力を厭う自分を知ることも、自分の選択に責任を持つことも、創作に伴う羞恥を受け入れることも。でも、覚悟を宣言させてください。
私は小説家になります。
小説家として物語を書きます。
大変! 恐怖と恥ずかしさと緊張でゲボ吐きそうです。キーボードを打つ手が震えます。
でも小説家なんて家で小説書いてりゃ小説家なんですから、私はもうすでに小説家だったと言っても過言ではありません。
過言です。でも今度こそ過言じゃなくしたいのです。早く死にたいと願っていたとき、希死念慮が一周して、どうせ死ぬなら小説を書いてから死のうと思ったことを今思い出しました。
でも一人で壁打ちのように書くのは、私は上手くできませんでした。
だけどここで、1人でも私を見てくれる人がいると思うと、不思議と書き進めることができました。
だから私が舞台の上で小説家を演じ続けられるように、私を見張っていてください。後悔させないくらい面白い話を書きます。
あらまあ、手が震えて五時入力が止まりません。覚悟を決めるだけでこんなにかかってしまいました。窓の外、空が白んできたようです。

6月某日5時55分。
厚いビロードの天幕がゆっくりと持ち上がり、客席の明かりが徐々に足元から漏れてきます。眩しさにわたしが目を眇めていると、あなたがわたしの手を取って言います。
「開幕だ」
