駅前の点字ブロックは、雨の日になると少しだけ頼りなく見える。
見える、という言い方はたぶん正しくない。少なくとも彼女の前では。けれど私は、彼女と出会ってから、自分がどれだけ「見る」という感覚に寄りかかって生きていたのか何度も思い知らされた。
最初に会ったのは、大学の図書館だった。閉館十分前、返却台の近くで、ひとりの女性が立ち止まっていた。黒髪を肩のあたりで切りそろえて、白い杖を持っている。静かな立ち方をする人だった。困っているようにも見えないのに、少しだけ所在なさげで、私はなぜか気になった。
彼女はカウンターの方向を探るみたいに顔を向け、それから小さく首を傾げた。私は迷って、結局、声をかけた。
「何か、手伝いましょうか」
彼女は少しだけ驚いたように顔を上げた。目はきれいだった。焦点が合わないとか、そういう印象より先に、妙に静かな目だと思った。
「ありがとうございます。返却台って、まっすぐですか」
「少し右です。案内しましょうか」
「お願いします」
「彼女はそう言って、少し笑った。
その笑い方が、妙に印象に残った。遠慮があるのに、卑屈ではない。助けを求めることに慣れている人の、でも、それを当然とは思っていない人の笑い方だった。
彼女の名前は、水瀬紗英といった。
同じ大学の二年で、私は文学部、彼女は教育学部だった。後で知ったことだけれど、先天性に全盲ではなく、中学の頃に病気で視力を失ったらしい。そのことを、彼女はかなり後になってから、まるで天気の話みたいに淡々と教えてくれた。
最初のうちは、図書館や学食で偶然会うだけだった。正確には、偶然ではなかったのかもしれない。私は彼女を見かけると気づいてしまったし、彼女もたぶん私の足音を覚えていた。
「今日、スニーカーですね」
ある日そう言われて、私はぎょっとした。
「わかるんですか」
「音でなんとなく。革靴の日と違います」
「すごいですね」
「あなたがわかりやすいんです」
その言い方が少しだけ可笑しくて、私は笑った。紗英も笑った。彼女と話していると、自分が無意識に構えていたものが少しずつほどけていくのがわかった。目が見えない人にどう接すればいいのか、最初は慎重になりすぎていた。失礼がないように、押しつけにならないように。必要以上に考えていた。
でも紗英は、そういうぎこちなさをあまり長引かせない人だった。
「今、変な気を使いましたよね」
「わかりますか」
「なんとなく」
「すみません」
「謝らなくていいです。慣れてます」
そう言ってから、少しだけ間を置いて、彼女は付け足した。
「でも、慣れてるのと、平気なのは別ですけど」
私は何も言えなかった。
その言葉は、静かで、でも妙に深く刺さった。慣れているからといって傷つかないわけじゃない。助けを借りることに慣れていても、いつも気楽でいられるわけじゃない。当たり前のことなのに、私はその当たり前を、ちゃんと考えたことがなかった。
それから私たちは、少しずつ一緒にいる時間を増やした。
授業の終わりに学食へ行き、駅まで一緒に歩き、時々はカフェにも入った。紗英は甘いものが好きで、チーズケーキを食べるときだけ少し機嫌がよくなる。コーヒーは苦手で、いつも紅茶だった。映画の話はできなかったけれど、本の話はできた。正確には、私が読んだ本を彼女に話すことが多かった。紗英は音声読み上げや点字の本も読むけれど、手に入りにくいものも多いらしい。だから私は、気に入った小説の場面をよく彼女に話した。
「それ、どんな夕焼けなんですか」
と、ある日彼女が聞いた。
私は少し考えた。
「赤い、というより、薄いオレンジが広がってて端のほうだけ紫っぽくて」
「難しそうですね」
「難しいです」
「見えてる人でも、ちゃんと説明するの難しいんだ」
「たぶん、見えてるからこそ雑に済ませているのかも」
紗英は小さく笑った。
「じゃあ、もっとちゃんと見てください」
その言葉に、私は妙にどきりとした。
もっとちゃんと見てください。
ただ景色の話をしているだけなのに、見透かされた気がした。私は普段、たしかに何もちゃんと見ていないのかもしれなかった。人の表情も、空気の揺れも、自分の感情も。見えてるつもりで、ほとんど流しているだけで。
恋だと気づいたのは、その少しあとだった。
紗英が風邪で大学を休んだ日、私は落ち着かなかった。連絡先は交換していたけれど、用もないのにメッセージを送るほどの関係ではないと思っていた。思っていたのに、結局、夕方になってから「大丈夫ですか」と送ってしまった。
返事はすぐに来た。
「大丈夫です。熱は下がりました」
その短い文を見ただけで、ひどく安心した自分に気づいて、私はしばらくスマートフォンを伏せたまま動けなかった。
これはもう、友達に向ける心配じゃない。
そう認めた途端、世界が少しだけ不自由になった。会える日はうれしいのに、前より言葉を選ぶようになった。触れそうな距離にいると意識してしまう。紗英が笑うたびに、安心するより先に切なくなる。
でも、告白する気にはなれなかった。
彼女が目の見えない人だから、というのは理由の一部でしかない。むしろ本当は、私自身が臆病だった。もし断られたら、今の関係すら失うかもしれない。もし受け入れられても、私は彼女にとって「親切な人」以上になれるのか。支えるつもりで、逆に彼女を息苦しくさせるんじゃないか。
自意識の形をした不安ばかりが、勝手に増えていった。
そんなある日、紗英と一緒に駅まで歩いていると、信号待ちの間に、彼女がふいに言った。
「最近、少し距離ありますよね」
心臓がはねた。
「そうですか」
「そうです」
紗英は白い杖の先を軽く地面に触れさせながら、まっすぐ前を向いていた。
「何か考えてるときの歩き方してる」
「歩き方でわかるんですか」
「あなたはわかりやすいんです」
前にも聞いたその言葉に、今度は笑えなかった。
信号が青になって、人の流れが動き出す。私たちも渡り始める。紗英の歩幅に合わせながら、私はどうにか平静を装って言った。
「少し、考え事をしてただけです」
「私のこと?」
あまりにもまっすぐで、私は息を詰めた。
「……はい」
紗英は何も言わなかった。横断歩道を渡りきるまでの数十秒が、ひどく長く感じた。駅前の雑踏はうるさいのに、その沈黙だけ妙に鮮明だった。
やがて彼女は、静かな声で言った。
「それ、聞いてもいい考え事ですか」
私は立ち止まりそうになるのをこらえた。
ここでごまかしたら、たぶんずっと言えない気がした。
「好きです」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「前から、たぶん、思ってたよりずっと」
言ってしまったあと、急に指先が冷たくなった。紗英はすぐには答えなかった。白い杖を持つ手が、ほんの少しだけ強く握られているのが見えた。
「困らせたなら、ごめん」
私がそう言うと、彼女は小さく息を吐いた。
「困ってはいます」
胸が沈む。
けれど次の言葉は、予想と少し違った。
「うれしいから」
私は彼女を見た。紗英は少しだけ笑っていた。いつもの、遠慮があるのに卑屈ではない笑い方だった。でも今は、それより少しだけ柔らかかった。
「私も、たぶん好きです」
たぶん、という曖昧ささえ愛しかった。
付き合い始めてからからも、何かが劇的に変わったわけではなかった。相変わらず学食に行き、駅まで歩き、本の話をした。ただ、手をつなぐ理由ができた。最初に私から触れたとき、紗英の手は少し冷えていて、でもすぐに馴染んだ。
「今、どんな顔してますか」
帰り道、つないだ手のまま彼女が聞いた。
「変な顔です」
「雑ですね」
「たぶん、すごくうれしそうな顔」
紗英は笑った。
「じゃあ、私もたぶん似た感じです」
その時間が、私はたまらなく好きだった。
けれど恋人になれば、綺麗なことばかりではいられない。
ある日、駅の階段で、私が無意識に彼女の腕を強く引いたことがあった。人が多くて危ないと思ったからだ。紗英は一瞬バランスを崩しかけて、駅を出た後、珍しくきつい声で言った。
「今の、やめてください」
私はすぐに謝った。
「ごめん、危ないと思って」
「危ないのはわかります。でも、急に引っ張られるほうが怖いです」
その通りだった。私は彼女を守るつもりで、彼女の身体の主導権を奪ったのだ。善意は時々、驚くほど乱暴になる。
「本当にごめん」
紗英は少し黙ってから、静かに言った。
「あなたが悪い人じゃないのは知ってます」
その言い方が、かえって苦しかった。
「でも、見えないからって、全部任せられるわけじゃないです」
私は頷いた。頷くしかなかった。
その夜、長いメッセージを打っては消した。謝罪だけでは足りない気がした。でも、何をどう言えば自分の独りよがりをきちんと認めたことになるのかわからなかった。
結局送ったのは、短い文だった。
「助けたい気持ちが、勝手になっていました。次からは、先に言います」
しばらくして、返事が来た。
「それならうれしいです」
その一文に、私は救われた。
恋をすると、相手を知った気になりやすい。好きだからわかる、近いから察せる、そう思いたくなる。でも本当は逆で、近づくほど、自分のわからなさを思い知らされる。紗英といると、そのことを何度も学ばされた。
冬の初め、私は彼女をイルミネーションに誘った。
誘ってから、少し後悔した。目の見えない彼女にイルミネーションなんて、あまりにも鈍い選択だったかもしれない。けれど紗英は、「行ってみたいです」と言った。
当日、街はひどく混んでいた。木々に巻きついた灯りが瞬いて、通りは明るく、空気は冷たかった。私は人混みに気を付けながら、紗英の歩幅に合わせて進んだ。
「今、どんな感じですか」
彼女が聞く。
私は少し考えた。
「白と青の灯りが多くて、すごくきれいです。冷たい感じなのに、遠くから見るとあったかそうで」
「矛盾してますね」
「してます。でも、そういう感じです」
紗英は楽しそうに笑った。
「あなたの説明、前より少しうまくなりました」
「鍛えられてるので」
「もっとちゃんと見てるからじゃないですか」
私は足を止めた。
紗英も止まる。人の流れが横を過ぎていく。彼女の横顔は、灯りの下でほんの少しだけ白く見えた。
「そうかもしれません」
私が言うと、紗英はつないだままの手を少しだけ握り返した。
「なら、よかった」
その瞬間、私はたぶん、初めてちゃんと幸福だった。
派手な奇跡があったわけじゃない。彼女の目が見えるようになったわけでもないし、私が急に完璧な恋人になれたわけでもない。これからも失敗するだろうし、わかったつもりで間違えることもあると思う。
それでも、わからないまま近づこうとすることを、彼女は許してくれた。私もまた、彼女の見ている世界を完全には知れないまま、それでも知りたいと思い続けている。
帰り道、駅前の点字ブロックの上で、紗英が言った。
「ねえ」
「何」
「今、空ってどんな色ですか」
私は見上げた。冬の夜空は深くて、街の光で少しだけ薄まっていた。
「黒に近い紺です」
「きれいですか」
「はい」
「じゃあ、よかった」
紗英はそう言って笑った。
見えないものを、きれいだと信じられる強さを、私はまだ持っていない。
だからたぶん、これから先も、彼女に教わることは多いのだと思う。
