黒崎先輩、その言い方アウトです-三枝外伝-

三枝真緒が最初に覚えたのは、たぶん、人の言葉そのものではなく、その裏にある温度だった。

同じ「大丈夫」でも、放っておいてほしいときの言い方と、誰かに気づいてほしいときの言い方は違う。母親が電話口で使う明るい声と、受話器を置いたあと台所でひとりになるときの沈黙は、まるで別の生き物だった。父親が「今度な」と言うとき、その今度がほとんど来ないことも、真緒は小さいころから知っていた。

だから、三枝真緒は人の話を聞くのがうまかった。

いや、正確には、聞いてしまうのがうまかった。

聞くつもりがなくても、廊下の角を曲がる前に会話の切れ端を拾ってしまう。教室の隅で交わされる小さな悪口や、保健室帰りの子が友達にだけに漏らす弱音や、職員室前で母親に電話をかける教師の妙にやさしい声。そういうものが、勝手に耳にひっかかった。

小学生の頃、真緒はそれを「特技」だと思っていた。

「真緒って、なんでも知ってるよね」

クラスの女子にそう言われたのが、少しうれしかった。誰と誰が仲が悪いとか、担任が来週結婚するとか、隣のクラスの男子が授業中に泣いた理由とか、みんながぼんやり気づいていることを、真緒は少しだけ早く、少しだけ正確に知っていた。

それを言うと、みんなが寄ってきた。

「ねえ、他に何か知らない?」

「それ本当?」

「誰から聞いたの?」

その輪の中心にいる時間は、悪くはなかった。真緒は話しながら、相手の目が光るのを見るのが好きだった。驚き、好奇心、優越感。人は何かを知ったとき、少しだけ残酷に輝く。その光を見ていると、自分が世界の裏側を一枚めくったような気分になれた。

でも、その楽しさは長く続かなかった。

五年生の夏、真緒はひとつの噂を広めた。

同じクラスの女子、結衣の母親が家を出ていったらしい、という話だった。発端は、職員室前で聞いた担任と別の教師の会話だった。真緒は全部を聞いたわけではない。ただ、「最近お母さんがいらっしゃらないみたいで」「本人も不安定で」という断片だけを拾った。それだけで十分だった。真緒の中では、もう輪郭ができていた。

昼休み、親しい子にだけ話したつもりだった。

でも、そういう話は水に落としたインクみたいに広がる。放課後にはほとんどクラス中が知っていて、翌日、結衣は保健室に運ばれた。過呼吸だったらしい。

その日の帰り、昇降口で結衣に呼び止められた。

泣いたあとの顔だった。目が赤くて、でも声は妙に静かだった。

「三枝さんが言ったの?」

真緒は一瞬だけ黙った。否定しようと思えばできた。実際、周りにはもっとよく喋る子もいたし、真緒だけのせいではないと言えなくもなかった。

でも結衣の顔を見たら、噓をつく気が失せた。

「……少しだけ」

結衣はしばらく真緒を見ていた。その目に怒りより先に、はっきりした怯えがあったのを、真緒は今でも覚えている。

「どうして」

その問いに、真緒は答えられなかった。

面白かったから。
みんなが食いついたから。
知っている側にいたかったから

そんな本当のことを言えるほど、まだ自分の醜さに慣れていなかった。

結衣は唇を嚙んで、それから小さくいった。

「知られたくないことって、あるよ」

その一言が、真緒の中に妙に長く残った。

家に帰ると、母親は仕事で遅く、食卓にはラップのかかった煮物が置かれていた。父親は単身赴任中で、月に一度帰ってくるかどうかだった。静かな台所で一人分のご飯を温めながら、真緒は初めて、自分が拾ってきた言葉の重さを考えた。

言葉は軽いのに、落ちる場所によっては人を沈める。

その当たり前のことを、その日ようやく知った。

それからしばらく、真緒は噂話をしなくなった。

クラスメイトは最初こそ「あれ、最近おとなしいね」と言ったが、すぐに興味をなくした。誰かの秘密は、次の秘密が出てくれば簡単に更新される。真緒が黙っていても、世界は別に困らなかった。

ただ、耳は相変わらず勝手に拾ってしまう。

それが嫌だった。聞きたくないのに聞こえる。知りたくないのに知ってしまう。知ってしまったものを、どこへ置けばいいのかわからない。

中学に入るころには、真緒はノートを持ち歩くようになっていた。

最初はただのメモ帳だった。誰にも言えないことを、口の代わりに書いて捨てるためのもの。たとえば、雨の日の昇降口で泣いていた先輩のこと。体育教師が誰もいないグラウンドで一人、しゃがみこんでいたこと。授業中はうるさい男子が、放課後の教室で机に伏せたまま動かなかったこと。

真緒はそれらを、できるだけ事実だけで書いた。

六月十二日、放課後、二年の男子生徒一名。教室後方窓際。十分以上動かず。泣いていたかは不明。

そうやって書くと、不思議と少しだけ楽になった。噂にすると形が歪むのに、記録にすると、自分の中で静かになる。誰かに渡すためではなく、自分が勝手に受け取ってしまったものを、いったん紙の上に置いておくための作業だった。

真緒はその頃から、言葉の扱い方を少しずつ覚え始めた。

同じ出来事でも、書き方ひとつで意味が変わる。
「泣いていた」と「目元が赤かった」は違う。
「仲が悪い」と「会話がなかった」も違う。

曖昧なものを曖昧なまま置いておくのは、思ったより難しい。人はすぐに意味をつけたくなる。真緒もそうだった。だからこそ、なるべく決めつけないように書くことを意識した。そうしないと、また誰かを勝手に傷つける気がした。

中学二年の冬、国語教師が授業で言った。

「文章には、その人の品性が出ます」

教室のあちこちでちいさな笑いが起きた。いかにも説教くさい言葉だったからだ。でも真緒は、その一文だけをノートの端に書き留めた。

文章には、その人の品性が出ます

その日から、真緒は少しだけ書くことに執着した。

別に作家になりたいわけじゃない。立派な文章を書きたいわけでもない。ただ、自分が拾ってしまう世界の断片を、なるべく壊さずに残したかった。誰かの声を面白半分で切り売りするのではなく、そこにあった温度ごと留める方法があるなら知りたかった。

高校に入ると、真緒は最初、意外なほど目立たない生徒だった。

人当たりは悪くない。話せば普通。けれど、必要以上に自分のことは話さない。クラスの輪の外にいるわけではないが、中心にもいない。以前の真緒を知る人が見れば、拍子抜けしたかもしれない。

ただ、観察する癖だけは変わらなかった。

入学式の日、真緒はすでに何人かの顔を覚えていた。やたらと姿勢のいい新入生代表。笑っているのに目が笑っていない担任。緊張で爪の横をずっといじっている隣の席の女子。そういうものが、視界に入ると勝手に残った。

高校には新聞部があった。

存在を知ったのは、廊下に張られた小さな部員募集の紙だった。白黒印刷の簡素な紙に、昨年度の活動実績が並んでいる。文化祭特集、部活動インタビュー、校内アンケート。地味だった。驚くほど地味で、だからこそ真緒は足を止めた。

そこには、噂ではなく記事があった。

誰かの秘密を暴くためではなく、誰かの言葉を形にするための文章。もちろん、現実の新聞部がそんなに高尚なものかはわからない。でも少なくとも、「知っていることを面白く流す」場所ではなさそうだった。

真緒は放課後、部室を見に行った。

校舎の端、古い特別棟の二階。ドアに色褪せた「新聞部」の札。ノックをすると、中から「どうぞ」と気の抜けた声がした。

部室には二人いた。

一人は三年の部長で、丸眼鏡をかけた痩せた男子。机に突っ伏したまま原稿用紙をめくっている。もう一人は二年の女子で、パソコンに向かったままこちらを見もしない。

「見学ですか」

丸眼鏡の部長が言った。

「はい」

「入部希望?」

「まだ決めてません」

「賢明ですね」

第一声がそれか、と思った。

部屋は狭く、少し埃っぽく、インクと古紙の匂いがした。壁には過去の新聞が貼られている。文化祭の写真、校長インタビュー、部活の大会結果。派手さはない。でも、教室の雑音とは違う静けさがあった。

「新聞部って、何するんですか」

真緒が聞くと、部長は少し考えてから言った。

「取材して、書いて、載せます」

「そのままですね」

「だいたいの活動はそうです」

二年の女子がそこで初めて口を開いた。

「あと、締切に追われて死にます」

「夢がない」

「夢で原稿は上がらないから」

真緒は少し笑った。部長は椅子に座り直し、真緒を見た。

「書くの好き?」

その質問に、真緒はすぐには答えられなかった。好き、というほどきれいなものではない気がしたからだ。書かないと落ち着かないだけ。拾ってしまったものを、どこかに置きたいだけ。

結局、真緒はこう答えた。

「……ちゃんと書けるようになりたいです」

部長は少しだけ目を細めた。

「それなら向いてるかもしれない」

「そうですか」

「書くのが好きな人より、ちゃんと書きたい人のほうが、たぶん長く残る」

その言葉は、妙に真緒の中に沈んだ。

入部届は、その場では出さなかった。いったん持ち帰って、机の上に置いた。紙切れ一枚なのに、妙に重かった。これを出せば、自分はまた「知る側」に戻るのかもしれないと思った。うまくやれるのか、自信はなかった。

その夜、母親は珍しく早く帰ってきた。夕飯のとき、なんとなく真緒は言った。

「部活、どうしようか迷ってる」

母親は味噌汁をよそいながら、「へえ」とだけ言った。

「何部?」

「新聞部」

少し意外そうな顔をしたあと、母親は笑った。

「真緒っぽい」

「どういう意味」

「人のこと、よく見てるじゃない」

真緒は箸を止めた。

責められた気がしたわけではない。でも、その言葉はまっすぐすぎて少し困った。

「見てるだけだよ」

「それって、案外むずかしいのよ」

母親はそう言って、湯気の向こうで少しだけ疲れた顔をした。仕事でいろいろあるのだろう、と真緒は思った。でも聞かなかった。聞けば、また何かを拾ってしまう気がしたから。

翌日、真緒は入部届を出した。

新聞部の部室で、部長は紙を受け取ると、驚くほどあっさり言った。

「ようこそ」

歓迎の拍子抜けする軽さに、真緒は少し笑った。

「これで終わりですか」

「入部は始まりだけど、手続きは終わりです」

「適当ですね」

「新聞部はだいたいそんな感じです」

二年の女子が横から言う。

「でも一つだけ忠告」

「何ですか」

「知っていること全部書けばいいわけじゃない」

真緒は一瞬、息を止めた。

女子は画面から目を離さないまま続けた。

「書けることと、書くべきことは違うから」

部長が「珍しくいいこと言う」と呟き、女子は「うるさい」と返した。

真緒は小さく頷いた。

その言葉は、たぶん真緒がここに来た理由のそのものだった。

入部して最初の仕事は、部活動紹介の記事の補助だった。運動部を回って、活動時間と実績を聞き、短い紹介文にまとめる。地味で、正直、少し退屈な作業だった。でも真緒は意外なほど真面目にやった。

吹奏楽部の部長が、実績を語るときだけ声を張ること。
バスケ部の一年生が、先輩の前でだけ不自然に背筋を伸ばすこと。
美術部の部室が、絵の具より先にカップ麺の匂いがすること。

記事には載らない細部が、やっぱり真緒には面白かった。でも、全部は書かない。書かないまま、自分のノートには残す。その線引きを覚えることが、新聞部で最初に学んだことだった。

やがて真緒は、取材の面白さを知るようになる。

ただ盗み聞きするのではなく、相手に向き合って質問し、相手が差し出した言葉を受け取ること。そこには噂とは違う責任があった。聞くことは、暴くことじゃない。話してもらうことは、奪うことじゃない。そういう当たり前を、一つずつ体で覚えていった。

もちろん、真緒の中から野次馬根性が消えたわけではない。

面白そうな匂いを嗅ぎつければ、今でも足は勝手に向く。危ない会話が聞こえれば、耳は反応する。人の秘密に惹かれる性分も、たぶん治らない。ただ、以前と違うのは、その先で一拍置けるようになったことだった。

これは本当に書くべきことか。
この人の言葉を、どの形で出すべきか。
面白い、だけで済ましていいのか。

そう考える癖がついた。

だから後に、旧校舎裏で「取引中?」などと目を輝かせる三枝真緒がいても、その根っこにはちゃんと、この遠回りがある。

面白がることと、雑に扱うことは違う。
暴くことと、見届けることも違う。

本人がどこまで自覚しているかは怪しいが、少なくとも、あの日入部届を出した少女はもう、ただ噂をばらまいて注目されたいだけの子供ではなかった。

拾った声を、今度は少しでもましな形にしたい。

その不器用な欲望が、たぶん三枝真緒を新聞部に入れたのだ。

そしてその欲望は、きっとこれからも彼女を面倒な場所へ連れていく。

危ない会話のする旧校舎裏とか、
やたら誤解を招く先輩たちの周辺とか、
本人たちだけは真面目な、どうしようもなくおかしな現場へ。

三枝真緒は、そういう場所が好きだ。

今度こそ、ちゃんと書くために。

  • 4
  • 0
  • 0

みき

気になったことを自分の意見も交えつつ記事にしていきます。 (内容は種類にこだわらずやっていきます)

作者のページを見る

寄付について

「novalue」は、‟一人ひとりが自分らしく働ける社会”の実現を目指す、
就労継続支援B型事業所manabyCREATORSが運営するWebメディアです。

当メディアの運営は、活動に賛同してくださる寄付者様の協賛によって成り立っており、
広告記事の掲載先をお探しの企業様や寄付者様を随時、募集しております。

寄付についてのご案内