共生クラスの犬かぶり

このクラスには、匂いの層がある。

朝いちばんの教室は、まだ昨日の空気を少し引きずっている。ワックスの薄い甘さ、黒板の粉っぽさ、窓際の植木の湿った土、購買のパンを隠し持っている奴のバターの匂い。それから、人間の匂い。獣人の匂い。

この学校では、それは珍しいことじゃない。

人と獣人が同じ制服を着て、同じ教室で授業を受け、同じ進路指導で頭を抱える。建前としては「共生教育の先進校」。実態としては、みんなそれなりに気を遣い、それなりに面倒くさがりながら、なんとなく一緒にやっている。

そして私は、その「なんとなく」を壊さないように、毎朝きっちり自分を作る。

「おはようございます」

教室の戸を開けると同時に、私は少し高めの声を出した。語尾は柔らかく、笑顔は控えめに、牙は見せすぎない。しっぽは振りすぎると媚びて見えるし、振らなさすぎると感じが悪いので、三回だけ。これが大事だ。

「おはよ、真白ちゃん」

「今日も早いね」

「えへへ、朝の空気って好きで」

嘘だ。朝の空気は情報量が多すぎて疲れる。でも、人間はこういう答えが好きだ。少なくとも、うちのクラスの人間たちは好きらしい。

主人公の名は白峰真白。犬の獣人。見た目の印象は、柔らかい茶色の耳、ゆるく巻いた髪、丸い目。クラスではだいたい「ふわふわしてて優しい子」という扱いを受けている。ありがたい。非常にありがたい。そう思わせるために、私は毎日かなりの努力を払っているのだから。

問題は、その努力が、人間の前でしか続かないことだった。

「真白、おまえ昨日の課題やった?」

後ろの席から声をかけてきたのは、同じ犬系獣人の灰田だった。耳が立っていて、いつも眠そうな目をしている。こいつは獣人の前だと、私の本性を知っている数少ない存在の一人である。

私は振り返らず、小さく笑って答えた。

「まだだよ。あとで見せてくれる?」

人間の前仕様の声で言う。

灰田は一瞬黙ったあと、机を軽く蹴ってきた。

「てめえ、昨日『課題とか知らねえし』つって寝てたろ」

終わった、と思った。

私は反射的に背後を振り返り、灰田を睨んだ。しまった、睨みが素だ。

「ちょ、声でか……」

「真白ちゃん?」

前の席の人間の女子、小鳥遊さんが不思議そうに振り向く。私は一秒で表情を作り替えた。

「え、あ、なんでもないよ。灰田くんが、ちょっと変なこと言うから」

「変なこと?」

「昨日、寝言でラーメン食べてたって」

「雑な捏造してんじゃねえぞ」

「ふふっ、ほらまた」

小鳥遊さんはくすっと笑って前を向いた。助かった。灰田は露骨に舌打ちした。私は机の下でそっと中指を立てた。灰田も立て返してきた。平和な朝だった。

私が人間の前でぶりっ子をしているのには、ちゃんと理由がある。

別に、生まれつき可愛く見られたい性格だったわけじゃない。むしろ逆だ。小さい頃から、私は気が強かった。吠えるし、嚙みつくし、気に入らないことがあると顔に出る。獣人の中ではそれでも普通だった。犬同士なんて、序列確認とじゃれ合いの境目が曖昧なところがある。

でも、小学校の頃、一度だけ人間の男子を泣かせたことがある。

ただ睨んで、「うっさいな」と言っただけだった。獣人の感覚では、軽く威嚇した程度。けれど相手は本気で怖がって、教師と保護者を巻き込む騒ぎになった。

そのとき、大人たちはみんな似たようなことを言った。

「獣人さんは、もう少しやさしくしようね」
「人間は威圧に敏感だから」
「誤解されないように振る舞うことも大事よ」

誤解じゃねえだろ、とは思った。実際うるさかったし。

でも同時に、学んだ。人間社会で面倒を避けるには、可愛く、柔らかく、無害そうに見せるのがいちばん早い。

それ以来、私は演じている。

人間の前では、声を高く。
言葉は丸く。
怒る前に笑う。
牙は見せない。
しっぽで空気を読む。

その結果、学校生活は概ね平和だ。たまに獣人の友達から「おまえ人間の前だと別犬だな」と言われるが、別にいい。平和のためだ。

ただ、一つだけ誤算があった。

人間は、思ったより近くに来る。

「白峰さんって、ほんと優しいよね」

放課後の図書委員当番で、そう言ったのはクラスメイトの人間男子、瀬名だった。黒髪で、整った顔をしていて、いつも静かに笑うタイプ。苦手だ。こういう、観察力がありそうで距離感が自然なやつは苦手だ。

「そうかな?」

「うん。誰にでも感じいいし、困っているとすぐ助けるし」

それは演技の結果です、とは言えない。

私は本棚に返却本を差し込みながら、曖昧に笑った。

「そんなことないよ」

「あるよ。白峰さんって、怒ることあるの?」

その瞬間、私は危うく本を折るところだった。

ある。めちゃくちゃある。今朝も灰田を窓から捨てようかと思った。

でも私は首を傾げて見せる。

「どうだろう。あんまりないかも」

瀬名は少しだけ笑った。

「そっか」

その笑い方に、妙な引っかかりがあった。信じているような、試しているような。私は鼻先に意識を集中させた。紙の匂い、木の棚の匂い、瀬名の制服の洗剤の匂い。その奥に、わずかに緊張の匂いがある。

こいつ、何か勘づいてる?

犬の獣人は、わりとそういうのがわかる。

「瀬名くんは?」

「俺?」

「怒ること、あるの?」

聞き返すと、瀬名は少し考えた。

「あるけど、出さないようにしてる」

「なんで?」

「面倒だから」

私は思わず瀬名を見た。

その答えは、少しだけ好きだった。

「……わかるかも」

ぽろっと素で返してしまい、私はすぐに咳払いした。瀬名は目を細める。

「今の、ちょっと本音っぽかった」

「え?」

「いや、なんでもない」

絶対なんでもある顔だった。

その日から、瀬名は妙に私を見てくるようになった。

休み時間、廊下ですれ違うとき。
体育でチームが同じになったとき。
獣人用の低めの水飲み場で私がうっかり素早く水を飲んでしまったとき。

別に敵意は感じない。でも、観察されている感じがする。非常によろしくない。

そして最悪なことに、事故は起きた。

昼休み、購買帰りの渡り廊下だった。

前方で、獣人の一年が人間の男子二人に囲まれていた。いじめというほど露骨ではない。けれど、からかい半分に耳を触ろうとしているのが見えた。犬系の耳は、知らない相手に勝手に触られると普通に腹が立つ。

一年の獣人は困ったように笑っていた。あの笑い方はだめだ。本気で嫌なのに、場を荒らしたくなくて引いている顔だ。

私は足を止めた。

止めた、というか、止まれなかった。

「おい」

気づいたら声が出ていた。

低い声。完全に素。

男子二人が振り向く。私も、あ、と思ったが遅い。

「何してんの」

渡り廊下の空気が、一瞬で変わる。

一年の獣人が目を見開く。人間の男子たちは、私の顔と耳を見て固まった。私はもう止まらなかった。たぶん、止まれなかった。

「嫌がってんの見えねえの?」
「遊んでただけだし」
「遊びで勝手に触んな。ぶっ飛ばされてえのか」

言ってから終わったと思った。語尾も声も目つきも、全部いつもの私だ。

しかも最悪なことに、その場を少し離れたところに瀬名がいた。

本を抱えたままこっちを見ている。

世界が終わった音がした。

男子二人は気まずそうに去っていった。一年の獣人は「ありがとうございます」と小さく頭を下げて逃げるように行った。残ったのは、私と瀬名だけだった。

風が吹いて、耳の先が揺れた。

私はゆっくり振り返る。

瀬名は黙っていた。驚いているのは確かだった。でも、引いている顔ではない。むしろ、妙に納得したような顔をしている。

「……白峰さん」

私は観念した。

「言わないで」

「何を」

「その顔で『イメージ違う』とか言うやつ」

瀬名は少しだけ瞬いたあと、意外にも笑った。

「言わないよ」

「じゃあ何」

「そっちのほうが自然なんだなって思っただけ」

私は返す言葉を失った。

怒られると思っていた。怖がられるか、距離を置かれるか、面白がられるか。どれかだと思っていた。でも、瀬名の声には、そのどれもなかった。

ただ、静かに受け止める感じだけがあった。

「……バラすなよ」

私が低く言うと、瀬名は肩をすくめた。

「バラしたら、ぶっ飛ばされる?」

「場合による」

「怖いな」

言いながら、全然怖がっていない。

私は眉をひそめた。

「何で平気なんだよ」

そこで瀬名は少しだけ考えてから、ゆっくり言った。

「たぶん、白峰さんが誰かをいじめてるところじゃなくて、止めるところを見たから」

その一言は、思ったより深く刺さった。

私は何も言えなかった。言えないまま、しっぽだけが落ち着かなく揺れる。瀬名はそれを見て、少し笑う。

「そのしっぽ、今すごい正直」

「見るな」

「ごめん」

ごめんと言いながら、少し楽しそうだった。

それから奇妙な共犯関係が始まった。

瀬名は私の素を知っている。でも誰にも言わない。代わりに、ときどき二人きりのときだけ、妙にからかってくる。

「白峰さん、その喋り方疲れない?」
「別に」
「今のは素?」
「半分」
「器用だね」
「生きる知恵だよ」

図書館、委員会、帰り道。人目の少ない場所でだけ、私は少しずつ取り繕うのをやめた。全部ではない。全部出すのはまだ怖い。でも、ずっと演技をしていた喉が少し楽になる瞬間があった。

一方で、獣人側の友達は面白がった。

「ついに人間にバレたのか」
「終わったじゃん、真白の清楚キャラ」
「いや瀬名ってやつ、口堅そうだな」

灰田だけはにやにやしながら言った。

「そのうち人間の前でもボロ出すぞ、おまえ」

「出さねえよ」

「昨日も小鳥遊の前で俺のこと『こいつ』って言ってたぞ」

「……まじ?」

「まじ」

冷や汗が出た。

共生というのは、たぶん、仲良くすることだけじゃない。

違う種類の生き物が、それぞれの怖さや面倒くささを抱えたまま、同じ教室にいることだ。人間には人間の繊細さがある。獣人には獣人の本能がある。そのあいだで、どこまで見せて、どこまで隠すかを探り続ける。

私はずっと、隠すほうに全振りしてきた。

でも瀬名にバレてから、少しだけ考えが変わった。

全部見せる必要はない。
でも全部隠し続けるのも、たぶんしんどい。

ある日の放課後、教室に二人きりになったとき、瀬名がふいに言った。

「白峰さんってさ」

「何」

「人間の前で可愛くしてるの、嫌じゃないの」

私は窓の外を見た。グラウンドの向こうで、運動部の声が響いている。夕方の匂いがする。

「嫌っていうか」

少し考えてから、私は答えた。

「楽なんだよ。最初から無害って思われてたほうが、いろいろ起きないし」

「そっか」

「でも、たまにムカつく」

「だろうね」

「『怒らなそう』とか言われると、勝手なこと言ってんなって思う」

瀬名は笑った。

「今のはかなり怒ってる」

「うるさい」

私がそう返すと、瀬名は少しだけ真面目な顔になった。

「でも、白峰さんが選んでやってるなら、それでいいと思う」

「え」

「無理やり変わる必要もないし。隠すのも、見せるのも、自分で決めればいい」

その言い方は、妙にずるかった。

肯定されたかったわけじゃない。たぶん。でも、そうやって決めていいのだと他人に言われると、少しだけ救われる。

私は照れ隠しに机を軽く蹴った。

「……おまえ、たまにはいいこと言うな」

「おまえ、って言った」

「あ」

瀬名は吹き出した。

私は顔をしかめた。終わった、と思ったのに、不思議と前みたいな絶望はなかった。瀬名は笑いながら言う。

「大丈夫。今の教室、俺しかいないから」

「聞かれてたら噛むぞ」

「犬っぽい脅し方だな」

「犬だよ」

そう返すと、瀬名は少しだけ目を細めた。

「うん。知ってる」

その言い方が、なぜか心地よかった。

私は今日も、人間の前では少し高い声で笑う。
獣人の前では、たまに口が悪くなる。
その境界線は相変わらず危ういし、しょっちゅうしっぽが本音を漏らす。

それでも前よりは、少しだけ息がしやすい。

全部バレないように生きるのではなく、
バレても壊れない相手を少しずつ増やしていく。

共生って、たぶんそういうことだ。

たとえば明日の朝も、私は教室のドアを開けて、きっとこう言う。

「おはようございます」

そのあと灰田に小声で、
「朝からだりぃな」
と吐き捨てるかもしれないけれど。

人間には、まだ内緒だ。

今のところは。

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みき

気になったことを自分の意見も交えつつ記事にしていきます。 (内容は種類にこだわらずやっていきます)

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