第十話 停まらない列
戦争が始まって十日目、国境地帯の道は完全に一つの生き物になっていた。
南から北へ逃げる避難民。
北から南へ送られる兵と物資。
そのあいだを縫う伝令、荷車、野戦医療班、徴募された補助兵、行方を探す家族、焼け跡へ戻ろうとする者、戻るなと止める者。
道は止まらない。
止まれば詰まり、詰まれば死ぬ。
だから誰も全体を見ないまま、自分の列だけを前へ押す。
ルスカ自治州北方避難所では、夜明け前から移送の準備が始まっていた。
前線がじわじわ北へ押し上がりつつあるという報せを受け、避難民の一部をさらに内陸へ移すことになったのだ。
学校だった建物の廊下には名簿が貼られ、家族単位で荷車の番号が振られている。
泣く子ども、眠ったまま背負われる幼児、荷物の少なさに怒る老人、名簿から漏れたと騒ぐ女。
混乱は大きいのに、運営側は妙に手際がいい。こういう混乱に慣れ始めている。
ミナは壁際に立ち、次々に名前が呼ばれるのを聞いていた。
母の腕はまだ完全には治っていない。重い荷物は持てない。
それでも移送は待ってくれない。
「ミナ・ハルヴァ、同伴一名、第三列」
呼ばれて、母が小さく息をつく。
第三列。
何番でも同じなのに、番号がつくと少しだけ安心する。
列に入れてもらえた、というだけの安心だ。
講堂の隅では、数日前に徴募へ頷いた少年が軍用の外套を受け取っていた。
まだ兵ではない、補助任務だ、と将校は言っていた。
だが服を着替えた瞬間、人は役割に吸い寄せられる。
少年の母は泣いていた。将校はやさしい顔で、必ず後方任務だと繰り返している。
ミナはその光景から目を逸らした。
見たくないのに、見てしまう。
見てしまうから、忘れられない。
そこへリアが巡回班として来た。
移送前の体調確認だ。熱のある者、歩けない者、妊婦、乳児、高齢者を振り分ける。
「腕、見せて」
リアが母に言う。
包帯をほどき、火傷の具合を確かめる。まだ赤いが、悪化はしていない。
「このまま移動はできる。でも無理はしないで」
「無理しないと置いていかれる」
母の返答に、リアは少しだけ口を結んだ。
正しい。正しいが、聞きたくない種類の正しさだった。
ミナはリアの袖を軽く引いた。
「また撃たれるかな」
リアはすぐには答えなかった。
道は危ない。
そう言えば怯えさせる。
大丈夫と言えば噓になる。
「列の中にいて。離れないで」
結局それしか言えない。
ミナは頷いた。
頷くしかない顔だった。
同じ朝、帝国軍前線では南方街道への圧力をさらに強める命令が出ていた。
エーリヒ・ヴァルナー少尉の部隊は、街道東側の低丘陵へ再配置され、連合側輸送列を監視していた。
司令部の意図は明白だ。
道を止める。
補給も避難も同じ道を使っている以上、どちらかだけを止めることはできない。
できないと知ったうえで、止める。
「本日中に北上列を分断せよ」
命令書は短かった。
「連合側の再編を許すな」
「避難民は」
「命令書に書いてありますか」
伝令将校はそう返した。
エーリヒは紙から目を上げ、相手の顔を見た。若い男だった。まだ現場の臭いが染みついていない顔だ。
彼にとっては、避難民は書類にない項目なのだろう。
「……了解」
そう答えるしかない。
命令を受けた瞬間から、迷いは私的なものになる。
私的なものは、軍では機能しない。
ブルーノが地図を広げた。
「第三分岐で列が細くなります。そこなら少数でも止めやすい」
「止めやすい、か」
「現実的です」
現実的。
最近、エーリヒはその言葉も嫌いになっていた。
現実という語は、たいてい誰かの具体的な苦痛を飲み込んだあとで使われる。
双眼鏡の先に、道が見える。
まだ遠い。
だが昼までには列が来るだろう。
帝都グランヘルでは、その日の紙面に新しい連載欄が始まった。
「前線へ送る声」
市民から募った短文を掲載し、兵士への励ましとする企画だ。
セシル・ノイマンは編集責任者として、その選別に立ち会っていた。
「これなどどうでしょう」
若い編集員が一枚を差し出す。
「『弟も前線におります。帝国のためではなく、家に帰るために戦っているのだと思います。どうか皆さんも帰ってきてください』」
セシルはその文を読んで、少しだけ手を止めた。
「これは載せない方がいい」
「なぜです?」
「帝国のためではなく、の部分が弱い」
編集員はすぐに頷いた。
「では削りますか」
「……そうだね」
削る。
たった一語で、文の体温が変わる。
家に帰るため、という個人的な願いは、帝国のため、という公的な願いにすぐに回収される。
別の葉書には、幼い字でこうあった。
「おにいちゃん はやく かえってきて」
セシルはそれを見て、街道で見つかったかもしれない無数の紙切れを想像した。
届くものと届かないもの。
印刷されるものと、泥に濡れて終わるもの。
その差は、内容の真実さではなく、使いやすさだ。
「これも載せますか」
編集員が尋ねる。
「……載せよう」
そう答えながら、セシルは自分がまた戦争を支える選別をしていることを理解していた。
理解していても、手は止まらない。
避難民の列は昼前に動き始めた。
ミナと母は第三列の後方、荷車二台の間を歩いていた。
道はぬかるみ、車輪がたびたび取られる。押す者、引く者、怒鳴る者、黙って耐える者。
列は長く、前も後ろも見通せない。
その中にいると、自分がどこへ向かっているのかより、とにかく今転ばないことの方が大事になる。
リアは巡回班として列の脇を歩いていた。
具合の悪い者が出れば止め、歩けない者がいれば荷車へ回し、子どもがはぐれれば名を呼ぶ。
医療というより、崩壊を少し遅らせる仕事だ。
「水は少しずつ」
「年寄りを前へ」
「そこで止まらないで」
声を張り上げるたび、喉が痛む。
列が長いほど、個別の不幸は見えずらくなる。
だからこそ、すぐ目の前の一人ずつに声をかけ続けるしかない。
ミナは時々、後ろを振り返った。
母はそれをやめさせなかった。
もう癖になっているのだろう。見えなくなった場所を、何度も確認する癖。
道の脇を、補助任務の若者たちが逆方向へ歩いていく。
講堂で徴募されていた少年も、その中にいた。外套がまだ身体に馴染んでいない。
母親は列の端から手を振っていた。泣いてはいない。泣けば止めたくなるから、泣かないのだろう。
ミナはその光景を見て、胸の奥が妙に冷えた。
別れる時に優しい顔をしているほど、もう戻らない気がする。
正午を少し回った頃、帝国軍観測点から北上列が視認された。
「確認。荷車多数、徒歩住民多数、護衛兵あり」
報告が上がる。
エーリヒは双眼鏡を覗いた。
道は予想以上に混雑していた。民間人の割合が高い。だが州兵も混じっている。補給物資らしき荷もある。
「司令部は」
「妨害継続です」
砲兵士官が短く言う。
エーリヒは唇を噛んだ。
ここで撃てば、列は止まる。
止まれば混乱し、護衛兵の移動も乱れる。
軍事的には正しい。
軍事的には。
「少尉、時間がありません」
ブルーノの声は低い。急かしているが、責めてはいない。
もう何度も見た顔だ。
迷いが結果を変えないと知っている者の顔。
エーリヒは双眼鏡を下ろした。
その一瞬、道の中ほどに、小柄な少女が見えた気がした。
荷車の間。隣に腕を吊った女。
ベルナ村のあの日のような、煤をかぶった目を思い出す。
「……前列を外せ」
「少尉」
「聞こえた通りだ。護衛兵の後方を狙え。道そのものを崩す」
それでも撃つ。
結局は撃つ。
区別をつけたふりをして、自分を少しだけ軽くしようとしているだけだと、エーリヒ自身が一番よく知っていた。
投射機が唸る。
一発目は道の脇へ着弾し、泥と石を吹き上げた。
列が悲鳴とともに揺れる。
二発目で荷車が横倒しになり、馬が暴れた。
三発目は道の少し先を抉り、前後の列が完全に詰まる。
「前進部隊、牽制射撃」
命令が飛ぶ。
銃声が重なる。
護衛の州兵が応射し、列は一気に崩れた。
ミナは最初、何が起きたのかわからなかった。
地面が跳ね、空気が裂け、泥が顔に当たる。
次の瞬間には、誰かが叫び、馬が暴れ、荷車が傾いていた。
母の手がミナの肩を押す。
「伏せて」
その声で、ようやく身体が動いた。
道端へ転がり込む。
耳鳴りがひどい。音が遠く、近く、全部一緒に聞こえる。
隣で子どもが泣いている。
その母親が荷車の下敷きになりかけている。
前では州兵が撃ち返している。
誰がどこにいるのか、列が長すぎてわからない。
「ミナ」
母の声。
振り向くと、母は立とうとしてよろめいた。腕の傷だけではない。脚にも泥と血がついている。破片か、転倒か、判別できない。
ミナは這うように近づき、母の服を掴んだ。
その時、別の荷車が横転し、積まれていた箱が崩れ落ちる。
誰かの悲鳴が短く切れた。
「こっちへ」
叫んだのはリアだった。
巡回班の腕章が泥で汚れている。彼女は道端の窪みに数人を集めていた。負傷者、子ども、動けない老人。
医療班というより、ただ少しでも低い場所へ人を押し込んでいるだけだ。
「早く」
ミナは母を引こうとする。
母は痛みに顔を歪めながら、何とか動いた。
その途中で、講堂で徴募されていた少年が視界を横切った。補助任務の外套のまま、倒れた荷車を持ち上げようとしている。
次の瞬間、彼の身体が後ろへ弾かれた。
ミナは見た。
見てしまった。
少年の母が列の後方から叫ぶ声も、同時に聞こえた気がした。
エーリヒは双眼鏡の中で、その混乱を見ていた。
道端の窪みに人を集める女。
足を引きずる避難民。
荷車の下敷き。
補助兵らしき若者が倒れる。
全部が小さく、はっきり見えない。
はっきり見えないからこそ、逆に現実味があった。細部が見えない時、人は全体を「列」としてしか扱えない。
「少尉、連合側の応射が強まっています」
ブルーノが言う。
「陣地を移すべきです」
「……ああ」
エーリヒは答えたが、足がすぐには動かなかった。
自分の命令で起きたことを、最後まで見届けたいわけではない。
ただ、目を逸らす資格もない気がした。
「少尉」
今度は強い声で呼ばれ、ようやく彼は双眼鏡を下ろした。
現場はもう次の段階へ進んでいる。
撤収、再配置、弾数確認、損害報告。
列の中で誰が死んだかより、こちらの次の位置の方が優先される。
彼は後退しながら、ふとサロの言葉を思い出した。
お前たちは来た側だ。
その一言が、今さら骨の奥へ沈む。
砲撃が一段落したあと、道は地獄のような静けさに変わった。
リアは窪地で応急処置をしていた。
布が足りない。水が足りない。人手が足りない。
足りないものを数える余裕もない。
「脈は」
「弱い」
「こっちは脚を縛って」
「子どもを先に」
先に。
またその言葉。
誰を先にするかで、誰かが後になる。
ミナの母は脚に破片が刺さっていた。致命傷ではないが、歩行は難しい。
リアは歯を食いしばりながら布を巻く。
「痛むよ」
「いい」
母は短く答えた。
痛みを説明する時間が惜しいのだろう。
少し離れた場所で、あの補助任務の少年が横たわっていた。
胸のあたりが赤く広がっている。
母親がそばに膝をつき、名前を呼び続けていた。
将校はいない。
やさしい顔で連れていった者は、こういう時たいてい近くにいない。
ミナはその光景を見つめたまま、動けなかった。
声も出ない。
泣けもしない。
ただ、講堂で外套を受け取っていた時の少年の顔と、今の顔が、同じものとして頭に入ってこない。
「見なくていい」
リアがそう言ったが、ミナは首を振った。
「見た」
短い返答だった。
それで十分だった。
その頃、帝都では「前線へ送る声」の初回掲載が刷り上がっていた。
セシルは校了紙を受け取り、紙面の中央に載った幼い字を見た。
「おにいちゃん はやく かえってきて」
その下には、帝国兵の救助美談と、辺境安定化作戦の進展記事が並んでいる。
整いすぎた紙面だった。
帰ってきて、という願いの隣で、帰れなくなる道が作られている。
そこへ速報が入る。
南北街道において連合側輸送列へ打撃。敵再編を阻止。
詳細確認中。
セシルは紙を受け取ったまま、しばらく動かなかった。
詳細確認中。
その詳細の中には、きっと子どもも、母親も、補助兵もいる。
だが帝都へ届く頃には、また別の形になる。
「見出しはどうしますか」
秘書官が尋ねる。
セシルは口を開きかけ、閉じた。
何を言っても、紙面は組まれる。
それでも彼は、珍しく少し黙った。
「……『連合輸送列に打撃』で」
結局、そう答える。
もっと悪い見出しはいくらでもある。
そう自分に言い訳しながら、彼はもうその言い訳が崩れかけていることも知っていた。
夕方、街道の生存者たちは再び列を組み直し始めた。
止まったままでは夜になる。
夜になればさらに危ない。
だから歩く。
負傷者を荷車に乗せ、死者を道端へ寄せ、泣く子どもの手を引き、また北へ向かう。
停まらない列だった。
ミナは母の乗る荷車の横を歩いた。
脚を引きずるような歩き方になっている。
リアは別の負傷者に付き添うため、少し離れた場所へ移っていった。
夕暮れの道は長い。
前にも後ろにも、人がいる。
誰がどこから来て、何を失ったのか、もう一人ずつは見えない。
それでも進む。
ミナはふと、祖父の懐中時計を握った。
止まっていた。
いつから止まっていたのかはわからない。
でも、その針の止まり方が、今日の道に少し似ている気がした。
止まっているのに、列だけは進む。
