第十一話 届く手紙、届かない声
街道砲撃の翌日、最初に届いたのは謝罪ではなく慰問文だった。
ハイネ帝国は、前線将兵の果敢な行動によって敵輸送列へ打撃を与えたと発表し、同時に帝都の市民から寄せられた励ましの言葉を前線へ送った。
テリル連合国は、避難民列への非道な攻撃を糾弾し、犠牲者を悼む追悼集会を各州で開くと宣言した。
どちらの側でも、まず届くのは整えられた言葉だった。
実際の手紙や、叫びや、泣き声は、そのあとで遅れてくる。
あるいは、どこにも届かない。
帝都グランヘルでは、「前線へ送る声」の反響が想像以上に大きかった。
広報院の一階には、市民からの葉書や封書が山のように積まれている。
兵士を励ます文、家族の安否を気遣う文、帝国への忠誠を誓う文、敵への怒りを綴る文。
似たような内容が多いのに、一通ずつ筆跡と紙の癖だけは違う。
人は個別の手で、集団の言葉を書く。
セシル・ノイマンはその仕分けに立ち会っていた。
「これは前線慰問用、これは紙面掲載候補、これは軍務省経由、これは不適切」
若い職員が手際よく分けていく。
不適切の山には、政権批判、損害への疑問、息子の消息不明を訴えるもの、配給不足への不満。そして「本当に勝っているのか」という短い問いが混じっていた。
「これは掲載しません」
職員が一通を差し出す。
セシルは読んだ。
震える字でこう書かれている。
「息子から三通目の返事が来ません。慰問よりも、どこにいるのか教えてください」
短い。
飾りもない。
だからこそ重い。
「軍務省へ回して」
「定型回答になりますが」
「それでも」
職員は頷き、封書を別の束へ置いた。
セシルはその手紙を見ながら思う。
この母親に必要なのは励ましではない。情報だ。
だが国家は、情報より先に慰問を送る。
慰問は安い。情報は責任を伴う。
別の葉書には、幼い字でまた同じような願いがあった。
「おとうさん まだ かえらないの」
その問いに答える部署は、たぶんここにはない。
あるとしても、答えはたぶん遅い。
前線では、慰問文の束が本当に届いていた。
エーリヒ・ヴァルナー少尉の部隊にも、帝都からの絵葉書と慰問文が配られた。
笑顔の看護婦、花束を持つ子ども、夕陽の帝国旗。
戦場の泥に触れたことのない色合いだ。
兵たちは受け取って、笑う者もいれば、無言でポケットへ入れる者もいた。
十八歳のフリッツは、子どもの字で書かれた「かえってきて」の葉書を見て、しばらく黙っていた。
「お前宛じゃないぞ」
隣の兵がからかうと、フリッツは苦笑した。
「わかってます」
その笑い方が少し固い。
戦争が始まって十日ほどで、人の笑い方は変わる。
エーリヒも一枚渡された。
見知らぬ婦人からのものだった。
「帝国の秩序を守る勇敢な士官殿へ。あなたがたの献身を、帝都の市民は誇りに思っています」
整った筆跡。
丁寧な言葉。
たぶん善意だ。
だからこそ、彼はひどく疲れた。
誇りに思う。
昨日、自分の命令で砲撃された列を思い出しながら、その言葉を読む。
あの道の上にいた子どもや母親や補助兵のことを、帝都のこの婦人は知らない。
知らないまま誇っている。
知らないこと自体が、誇れる条件なのかもしれなかった。
天幕の隅では、捕虜のサロが帝国兵のやり取りを黙って見ていた。
エーリヒが近づくと、彼は葉書を顎で示した。
「慰めか」
「そうだ」
「役に立つのか」
「人による」
サロは鼻で笑った。
「こっちでも似たようなもんだ。祈ってる、誇りだ、守ってる。腹は膨れないし、死んだやつも戻らない」
エーリヒは返事をしなかった。
敵の皮肉なのに、あまりに正確だった。
避難所では、届かない手紙のほうが多かった。
北方避難所へは、行方不明者照会の紙が次々に張り出されている。
誰それを見た者はいないか。
この列にいたはずの娘はどこか。
南方街道で負傷し運ばれた少年の消息を知りたい。
ベルナ村から離れ離れになった母を探している。
ミナは廊下の掲示板の前に立ち、それらの紙を読んでいた。
知らない名前ばかりだ。
でも、知らないからといって遠くは感じない。
名前の並び方が、もうすぐ自分たちのものにもなりそうだった。
母は脚の傷のせいで横になっている時間が増えた。
大きい声は出さないが、痛みで顔色が変わる。
リアは巡回の合間に避難所へ寄り、処置を続けていた。
「熱はない」
「歩ける?」
「少しなら」
短いやり取りのあと、母はふいに言った。
「娘に手紙を書かせたいんです」
リアが顔を上げる。
「誰に」
「まだどこにいるかわからない親戚に。州都の西にいるはずの姉です」
「届くかは……」
そこまで言って、リアは言葉を切った。
届くかわからない。
その一言は正しいが、今この人に必要なのは正しさではないかもしれない。
「書くのはいいと思う」
そう言い直すと、母は少しだけ安心した顔をした。
ミナは紙を受け取り、鉛筆を持った。
何を書けばいいのかわからない。
生きています。
避難しています。
祖父が死にました。
村が燃えました。
母が怪我をしました。
私はまだいます。
どれも本当で、どれも手紙の一行目に向いていない気がした。
「書けない?」
リアが聞く。
ミナは頷いた。
「何から書けばいいかわからない」
リアは少し考え、静かに言った。
「今、言えることからでいい」
ミナは紙に、ぎこちなく最初の一文を書いた。
わたしたちはまだ生きています。
それだけで、もう十分に重かった。
連合側では、街道砲撃の犠牲者追悼式が開かれていた。
学校の講堂、州庁舎前、礼拝堂の庭。
場所は違っても、並べられるものは似ている。
粗末な花、名前札、蝋燭、黒い布、演説台。
死者を悼む場は、すぐに生者を動かす場へ変わる。
避難所からも代表が数人出ることになり、ミナの母は断ったが、補助任務で死んだあの少年の母親は出席した。
講堂で徴募された少年だ。
まだ正式な兵ですらなかった。
だからこそ、連合側の広報には使いやすい死だった。
リアはその式の救護待機として同行した。
壇上には州議会議員、軍の代表、聖職者が並ぶ。
少年の母は前列に座らされ、名を呼ばれると立たされた。
拍手が起きる。
彼女は泣いていたが、その泣き方には戸惑いが混じっていた。
悲しんでいるのか、見られていることに耐えているのか、自分でもわからない顔だった。
「ご子息の犠牲は無駄ではありません」
議員が言う。
その瞬間、リアはひどい怒りを覚えた。
無駄かどうかを決める権利が、なぜ今この場の人間にあるのか。
だが怒りは顔に出さなかった。
救護班が怒っても、式は止まらない。
拍手の後、徴募担当の将校がまた若者たちに声をかけ始める。
死者を悼む場と、次の動員が同じ場所にある。
あまりに露骨で、あまりに自然だった。
帝都では、その追悼式の写真は別の見出しで紹介される準備が進んでいた。
セシルは連合側公開写真の分析文を書かされていた。
「悲劇を煽動へ転化する連合の宣伝手法」
「遺族の悲嘆を政治動員へ接続する危険な演出」
書いてある内容は間違っていない。
だが、自分たちも同じことをしていると知っている手で書く文章は、どこか腐る。
腐っても紙面には載る。
読者には見えない。
秘書官が別件の封書を持ってきた。
「前線からの検閲済み私信です。紙面引用候補に」
セシルは一通を開いた。
若い兵士の手紙だった。
「母さん。寒いですが元気です。こちらは優勢で、じきに帰れると思います」
その文に、彼は一瞬だけ目を止めた。
どこかで見たような書き方だ。
ありふれている。
ありふれているから、余計に痛い。
続きにはこうあった。
「本当は少し怖いです。でも心配させたくないので、これは書かないつもりでした」
そこに薄く赤線が引かれ、検閲で削除対象になっていた。
セシルはしばらく黙った。
届く手紙と、届かない本音。
検閲とは、秘密を守るだけではない。人間の揺れを削って、役に立つ感情だけを通す作業でもある。
「このままでは引用に使えませんね」
秘書官が言う。
「そうだね」
セシルは封書を閉じた。
怖いです。
たったそれだけの言葉が、戦時には不適切になる。
前線の夜、フリッツが本当に手紙を書いていた。
エーリヒは見回りの帰りに、木箱に腰かけた彼を見つける。
前と同じ場所だ。
だが顔つきは違う。
街道砲撃のあとで、彼も何かを見たのだろう。
「また家族へか」
声をかけると、フリッツは立ち上がりかけたが、エーリヒが手で制した。
「続けろ」
紙面には、こう書かれていた。
寒いですが元気です。
食べ物もあります。
帝国のために頑張っています。
その下に、大きな空白。
「続かないか」
フリッツは苦く笑った。
「何を書いても嘘になる気がして」
「嘘じゃない部分だけ書け」
「寒いのは本当です」
エーリヒは少しだけ笑いそうになったが、笑えなかった。
「怖いとも書けないし、昨日見たことも書けないし……母は僕が立派にやっていると思っているから」
フリッツは鉛筆を握りしめた。
「少尉は、家に何て書きますか」
エーリヒは答えに詰まった。
家族とは疎遠ではない。だが親しいとも言い難い。父は軍人で、息子が前線にいることを当然と思っている。母は心配しているだろうが、それを言葉にする人ではない。
何を書いても、結局は役割のやり取りになる気がした。
「……書かないかもしれない」
そう答えると、フリッツは少しだけ驚いた顔をした。
「ずるいですね」
「そうかもな」
その会話のあと、二人はしばらく黙っていた。
届く手紙を書くことも、書かないことも、それぞれ別の種類の逃げだった。
避難所の夜、ミナは書きかけの手紙を見つめていた。
私たちはまだ生きています。
そこから先が続かない。
母は眠っている。痛み止めが効いて、浅い呼吸をしていた。
周囲では、誰かが咳き込み、誰かが寝言を言い、遠くで赤ん坊が泣いている。
避難所の夜は、静かではなく、ただ、暗い。
ミナは続きを書こうとして、ふと止まった。
もし届いたら。
もし届かなかったら。
どちらでも、書いたことは本当になる。
本当になるのが怖かった。
そこへリアの巡回が最後に立ち寄った。
「まだ起きてたの」
ミナは紙を見せた。
「続かない」
リアは紙を読み、少しだけ考えた。
「続かなくてもいいよ」
「でも、手紙って最後まで書くものじゃないの」
「全部言えるなら、そうかもね」
リアは椅子に座り、静かに言った。
「でも今は、途中までしか言えないことの方が多い」
ミナはその言葉をしばらく考えた。
それから、紙の下に小さく書き足した。
また書けたら書きます。
その一文は、約束というより、祈りに近かった。
