これから話をするロックの名盤は、現在、30代、40代周辺の音楽好きにとっては、日本を代表する生粋のギターロックバンドである、アジアンカンフージェネレーションのメンバーである、後藤正文のソロアルバムの一枚目である。
私は佐野元春をリアルタイムで追いかけられたわけではないので、このような表現が正しいのかは、分からないのだが、アジカンというバンドや、後藤正文という表現者には、佐野元春の影を見るのである、もし、佐野元春があと、20年近く、遅く生まれていたら、このような活動をしていたのではないのかと思ってしまってしょうがないのである。佐野元春よろしくな、グッドミュージックを鳴らす、ミュージシャンであるという事は、言葉と音楽の狭間を、どんなリスナーにも捕まらないスピードでするりするりと軽々と通り抜けるような音楽活動をしているように、こんなちんけないちリスナーには思えて仕方ないのだ、つまり、しっかりと届ける気概を持ちながら、ちゃんと、ミュージシャンとして秘密を抱えているような、全てを明かさないような音楽活動をしているように思えるのです。つまり、それは誰とでも手を結ぶような、オープンなハートの持ち主でありながら、どこか、孤高で気高い姿もしているように見えるのです。
この曲のアルバムのバックの演奏のスタイルは、どの曲も、わりかし一貫していて、どの曲も、ギターでコードを搔きむしるようなギターロックなり、フォークロックなどではなく、アジカンでもカバーしていた、ベックのルザーのダンストラックの仕組みを少し、後藤正文仕様にしたような、ダンストラックが、ほぼほぼ、このアルバムを網羅しているのです。
そして、ゴッチがどういう意図で、そのような、アジカンというモンスターバンドとは、別にソロ活動として、このような横ノリが似合う、ソロアルバムを作ったかは分からないですが、これはこれで、ダンスミュージックを通した鎮魂歌なのではないかと思ったりもするのです、つまり、アジカンというバンドが、こんな社会の中で生きるという闘いのためのファイトソングなら、このアルバムはちょっとした、ブレイクや、ちょっとした、気心知れた仲間とのパーティーが似合う、そのままで申し訳ないですが、パーティーソングなのだなと思うのです、そんでもって、きっと、こんな社会の中で生きていく中で、応援歌もパーティーソングも切実に必要とされているのだと思うのです。だから、こんなにも、アジカンの楽曲も、ソロでの楽曲も、ロックンロールとしてキラキラしているのだと思うわけです。
