私が好きな東北の偉人(前編)

米軍から「イエローファイター」、

味方から「デストロイヤー」と

恐れられた「紫電改のタカ」、          

「最後にして『最狂』と『最強』

   の撃墜王」  帝国海軍パイロット

宮城県・菅野直(かんの なおし)

ライナス

   皆さんこんにちは。ライナスです。今回は、私が好きな東北の偉人を紹介したいと思います。そこで、漫画「紫電改のタカ」のモデルとなり、様々な破天荒なエピソードを持った、宮城県出身の海軍パイロット、菅野直(かんの なおし)を紹介したいと思います。どうぞ最後までご覧ください。

幼少期から無鉄砲のガキ大将!

その一方で勉強家で「神童」と呼ばれ

家族を敬愛し石川啄木に傾倒する

純朴な文学青年の一面も⁉

   菅野直は1921年(大正10)10月13日に当時日本の統治下であった朝鮮の竜口(現北朝鮮平壌近郊)で生まれました。その後両親の出身地であった宮城県伊具郡枝野村(現角田市)で育ちました。どのような幼少時代だったかと言えば、例えば、7、8歳の頃に近所の猛犬と喧嘩になって最後にナイフで突き殺したり、兄がいじめられると敵討ちに向かったり…。極めつけは台風で通学路にある川が氾濫し、橋が決壊して多くの学生が登校できなくなっていたので、荒れ狂う川を自ら泳いで渡り、学校に知らせ、そのことをもう一度自ら泳いでもどって生徒達に心配しないよう伝えたという、後年の軍人時代を彷彿とさせるエピソードが随所に散見されており、既に「ブルドック」「デストロイヤー」と恐れられた片鱗を見せております。そのような無鉄砲ぶりなので家の中でもさぞかし…。と思いきや、両親や長兄、姉妹を敬愛し、姉とは中学1年(旧制中学)まで添い寝する家族愛溢れるエピソードを持っております。では勉強はからっきし…。と思いきや全くそうではなく、毎日夜遅くまで学習を怠らない勤勉ぶり。そのため学業成績は常にトップで、「神童」の異名までついたほど。そのため近所の人々は「あのガキ大将がいつどこで勉強しているのか」と訝しがったほどであったと伝えられております。

    角田中学校には1番の成績で合格し、ここでも「ヤンチャな『神童』」ぶりをいかんなく発揮していました。下級生からは「とにかくやることが奇抜で、我々の想像もつかないことをやった。ケンカをすれば絶対負けなかったし、修身とか素行の点はあまりよくなかったかも知れないが、人気は絶大だった」と冗談交じりに語られています。それを象徴するように、尊敬する教師に対して、別の教師が悪口を言っていたので、袋叩きにしたという武勇伝を残しています。当時は今とは比較にならないほど教師の権威が絶対だった時代。にも拘らず、学業成績では優等生であったことも影響したのか、わずか数日の停学処分で済まされるという穏便な処置で済まされています。

かと思いきや、同級生からは「どちらかというと菅野は軟派(文学男子)であった」と語られています。この頃から石川啄木の作品に傾倒して短歌の制作に励み、同級生と文学サークルを結成するほどの「文学青年」ぶりを発揮しています。(なお、短歌の腕前は、当時の河北新報の文芸欄に菅野が自ら投稿し、入選するほどの腕前でした。)そのため、このまま大学に進むつもりで大学予科の受験勉強に励んでいましたが、自身の家庭事情を考慮したのか、兄の大学受験を薦め、「僕は軍人になる」と言い、軍人の道に進むことを決めたのでした。ここから、菅野の破天荒に満ち溢れた軍人への道がスタートすることになります(歴史にifは禁物ですが、この時に菅野が軍人の道に進まず、大学に進学していたならどのような人生を歩んでいたのだろうかと考えると、非常に興味があります。ただ、菅野の性格上、大学に通っていたとしても軍人の道に進んだのではないか、と筆者は考えています。)。

戦闘機パイロットとして練習生時代から天賦の才能を発揮!その一方で練習機を破壊しまくって「デストロイヤー」の

異名がつくハメに

   菅野は軍人になるため、陸軍士官学校海軍兵学校の受験をしましたが、陸士は「身長が足りない」という理由で不合格になりました[注1](※なお、決して『慎重さ』が足りないという意味ではありません⦅筆者注⦆。)。一方で海兵には合格。1938年(昭和13年)12月に第70期生徒として入校します。(因みに同期には関行男[注2]⦅せき つらお⦆がいます。)1941年(昭和16年)に兵学校を卒業、少尉候補生として戦艦「榛名」、「扶桑」に乗組しました。その後、1942年6月1日に少尉に任官され、同日第38期飛行学生を拝命しました。1943年(昭和18年)2月、飛行学生を卒業し、戦闘機専修として大分海軍航空隊に付属され、延長教育を受けました。

そしてここから菅野の本領が徐々に発揮され始めます。菅野の教官であった岩下邦雄の回想によると、模擬空戦において訓練生たちの後ろを岩下は簡単に取ったのですが、しかし菅野はぶつかるほどぐいぐい接近し、岩下が危険と判断して動きを緩めた隙に、反対に岩下の後ろを取った、と言われています。岩下は「菅野とは兵学校でも同じ分隊で、あんまり目立たない男でしたが、大分の空戦訓練で追躡(ついじょう。現在のドッグファイト訓練の事)をやっているときは、ぶつかるかと思うくらいグイグイ接近してくる。そのやり方がいかにも乱暴に見えて、その時の印象が強かったせいか、わたしには、何だかひどく乱暴な男のように思えましたね」と語っています。

   この時の菅野はまだ飛行初心者。にもかかわらず、生来の負けん気のせいなのか、天賦の才があったのか、教科書を片手に持ちながら上官の背後を見事に取るという離れ技を見せています。それだけではなく、同期が垂直旋回を訓練中の頃に菅野は、教科書を読んで勝手に宙返りを覚えた、と言われております。また、その他にも上官の指示を無視して急上昇、急降下、急旋回、急加速、急減速などを教科書を見ながら独学でマスターしていました。上官や教官が「危険な操縦はやめろ」と諫めるものの、それでも「菅野本人は『実践に役立たぬ訓練は時間の無駄である』とケロリとした表情をしていた」(同期談)というのですから、並の神経の持ち主ではありません。

   また、飛行訓練だけでなく、戦闘射撃の腕も初心者ながら抜群の成績を残し、指導教官曰く、「標的にギリギリまで接近して、全弾命中させた。並の胆力ではない。」と言わしめたほどでした。

   そこまで周囲を感嘆せしめた菅野ですが、同時に暴走行動や失敗も増加の一途。「危険なために着陸禁止になっていた滑走路に着陸し、機体が転覆して大破する事故を起こしたが、咄嗟の判断で転覆する瞬間に頭部を守って脱出し、大怪我もなく無事だった」(教官談)というエピソードを皮切りに、無茶で無謀な飛行や操縦を繰り返しては練習機を壊しまくるという行為を連発。余りにも壊しまくるので、いつしか誰が言うこともなく菅野には「破壊王」という異名がつき、それでも菅野の破壊が収まることはなかったので、「菅野デストロイヤーと言うありがたくない渾名がつけられてしまう事になりました。

また、菅野の破天荒な性格もほかの航空学生の間で知られる事に。海兵同期の香取穎男によれば、「学生のうちに四、五機は壊している」「九六艦戦を二、三機。ほかに零戦も壊した。いずれも着陸のときで、命取りになる離陸時の事故でないのがいかにも菅野らしい」との事。宇佐空の岩井滉三は「菅野デストロイヤーの名が私のところまで伝わってきたことからして、大分では九六練戦を何機も壊したのではないでしょうか」と言われていました。それでも同期曰く、「ケロリとしていたどころか、練習前よりもいい表情をしていたほどだった」というのですから、やはり並の神経の持ち主ではありません。そんなこんなで飛行学生を何とか卒業した菅野は写真の裏にこう書き残しています。

「stant(スタント)ハ終ワッタ  アーヘバッタ

  目ガクラム」

   一歩間違えば命を亡くすかもしれなかったにも拘らず、これまでの愚行を「スタント」と切って捨てている菅野の思考は、やはり常人のそれを軽く凌駕していた、と言うほかありません。

[注1]陸軍の検査では尿検査で引っかかったとも言われていますが、筆者としては恐らく、人口に膾炙(じんこうにかいしゃ)した話だったのではないかと思っています。

[注2](関行男海軍中佐の本名は⦅せき ゆきお⦆ですが、御本人が幼少時から楠木正行⦅くすのき まさつら⦆を敬愛していたこと、自分の周囲の人々に⦅つらお⦆と呼ばせていたこと、手紙や書状などで⦅つらお⦆の表記をしていたこと、最初の特攻隊参加者及び実行者ということへの筆者の尊崇の念を表明したいとの思いがあり、ここでは⦅つらお⦆の名前で表記させていただきました。読者の皆様方にはどうかご配慮をお願いいただきます。)

海軍航空隊に入隊して

パラオ、テニアンを転戦!

その過程で大型重爆攻撃機に対して

クレイジーな攻撃方法を考案して

上官とすったもんだするハメに!

1943年(昭和18年)9月15日に菅野は厚木空付に配属になり、1944年(昭和19年)2月に第343海軍航空隊(「隼」部隊)分隊長を拝命しました。菅野は24機を率いて木更津からテニアンへ空輸任務を行いますが、途中ではぐれて不時着した機体がありました。テニアン到着後に報告などを済ませた菅野は単機で捜索に向かいました。整備分隊士の小林秀江中尉が他に誰か連れて行くことを勧めましたが、「列機が気にかかって見張りに集中できないから」、と答えたそうです。小林は「菅野さんに初めて会ったのは鹿児島基地だったが、もう勝手知ったという感じで大きな顔をしていた」「ロクでもない指揮官も少なくなかったが、菅野さんはまれにみる立派な指揮官だなと思った」そうです。この頃から、「『仲間』や『部下』を決して見捨てない」という菅野の信念が醸成されていったのだろうと思います。

   その後部隊はパラオで米国の大型重爆攻撃機を迎撃する日々を送り、その中で菅野は対大型爆撃機の攻撃戦法を考案しました。最初は直上方から大型重爆攻撃機を攻撃する戦法で、前方高度差を1000メートル以上取り、背転し真っ逆さまに垂直で敵編隊に突っ込み死角となる真上から攻めます。しかし敵との衝突を避けるために敵機の尾部を通っていると、そこに銃座が準備されたため、攻撃されるようになりました。前上方背面垂直攻撃

そこで菅野が編み出した新しい戦法が「前上方背面垂直攻撃」です。

前上方背面垂直攻撃

    これは機体を攻撃した後、銃座の死角を突き、銃座から攻撃されない主翼前方をすり抜ける方法です。

    確かに敵銃座から射撃されない位置ではありますが、彼我機体の衝突の危険が高いだけでなく、主翼プロペラと衝突する危険性が高い、パイロットにとっては極めて高い反射神経と死への恐怖に打ち勝つ強靭な精神力が求められる常識破りの攻撃方法でした。当然のように教官や上官に反対されますが、しかし菅野は「B公B-24B-29の事)を撃ち落とすにはこの方法しかない」と意見を曲げることも譲ることもなく、この極めて危険な攻撃方法を猛練習で身に着け、実践で採用して、やがて「撃墜王」と呼ばれ、米軍から「イエローファイター」と恐れられる事となるのです。

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ライナス

ライナスと申します。読書や日本の歴史、アイルランドやスコットランドの音楽が好きなので、皆様に紹介して共有できればと思っています。

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