米軍から「イエローファイター」、
味方から「デストロイヤー」と
恐れられた「紫電改のタカ」、
「最後にして『最狂』と『最強』
の撃墜王」 帝国海軍パイロット
宮城県・菅野直(かんの なおし)
ライナス

「イエローファイター・菅野」の
ホロリとした純情エピソード!
こうして「毎日が劇場」のような日常を過ごしていた菅野ですが、そんな菅野も素顔は一人の男性。女性と恋愛し、結婚したいという思いは人並みにあったようです。343空隊員と親しい今井琴子夫人によれば、菅野は「俺にカアちゃん(嫁)を見つけてくれよ」「ゆっくり落ち着ける家庭がほしいな」と言っていたことがあったそうです。幸い(?)ルックスが良く、カラッとした性格からか菅野は女性に人気で、相手はいくらでも見つかりましたが、菅野は自分がいつ死ぬか分からないので、残す妻を作るわけにもいかないという気持ちもあり葛藤しているようであったと言われています。
(訓練の順番を待つ菅野直⦅左⦆と菅井努⦅共に少尉時代の写真⦆)
撃墜されて地元民に囲まれるも、
機転を利かし切り抜ける!
3月19日、343空の内地での初陣である九州沖航空戦(松山上空戦)で、菅野は敵機1機を撃墜するのですが、直後に自身も撃墜される悲劇に見舞われます。その際、顔にやけどを負い落下傘で降下し、電線に引っ掛かり助かるのですが、敵と間違われて殺気立った地元民に囲まれてしまいます。菅野はそこで身に着けていた千人針入りの日の丸の布を見せて、住民の誤解を解いた、と言うエピソードが残っています。
次々と死んでいく仲間たち…。
日本の空の防衛の苦労は菅野の双肩に
重くのしかかっていくことになる!
このように奮闘していた菅野でしたが、対米戦闘に日本が連敗を重ねるのと同時に、戦局は悪化していきます。それは菅野の部隊でも例外ではありませんでした。 4月15日、菅野の部下であった杉田庄一が戦死します。杉田は戦歴の上では菅野よりも先輩でありましたが、杉田は菅野の将器に対して深い敬意を払っており、菅野の悪口を言うものがいれば怒って殴りかかっていたほどでした。杉田が戦死した時、菅野は誰が見ても分かるほど落ち込んでいたそうです。その憔悴ぶりに慌てたのか、源田司令は菅野に杉田に劣らない僚機を迎えると約束しましたが、戦局の悪化とともに多くの陸海軍のエースパイロットを喪っていた軍には菅野レベルの技量を持ったパイロットを見つけ、配属するのは難航しました。
勿論それを菅野も十分承知していたので、司令に気を遣い「もういいですよ」と言ったそうですが、司令は「これでは菅野も近く死んでしまう」と感じ、「空の『宮本武蔵』」の異名を持った武藤金義が編入されることになりました[注6]。武藤は司令に「私が来たからには菅野隊長は死なせません」と約束して守ったが、その尽力も空しく、7月24日武藤と鴛淵も戦死してしまいました。
超大型爆撃機 B-29の迎撃任務にあたっては菅野の考案した対大型爆撃機の必殺戦法、「前上方背面垂直攻撃」で部下と共に多数を撃墜、米軍から
「クレイジーなイエローファイター」
と恐れられることとなりました。しかし、その極めて高い危険性や訓練の難しさから、林大尉、鴛淵大尉からは賛意を得られず、菅野自身も「他にやり方があるなら言ってみろ!」と林大尉らと暫し口論になったそうです。そしてこのやりとりがあった翌日の4月21日に林は戦死しました。その報に接した菅野は「俺が林にあんなことを言わなければ…。」と後悔したと言われています。
こうして多くの仲間が死んでいく中、日本本土の防空は菅野1人の双肩に重くのしかかっていくことになり、短気ではあれども明るく朗らかであった菅野は沈痛な表情を抱えることが多くなっていった、と言われています。
[注6] 武藤の編入に際しては、第三四三海軍航空隊(以下「343空」とする)から「エース・パイロット」として名高い坂井三郎少尉と野口毅次郎少尉の二人を出すことになりました。武藤が当時所属していた横須賀海軍航空隊では反対論が根強かったものの、源田司令のとりなしで編入が決まったと言われています。
・武藤金義のYouTube動画 【12機相手に勝利し200機相手に菅野を守った伝説のエース】武藤金義【ずんだもん ゆっくり解説】
「イエローファイター」の最期。
機体の機銃塔内の爆発によって
菅野、空へ旅立つ。
こうして心身ともに疲弊しきっていた菅野にも、容赦なく最期の日が訪れる事になってしまいました。
1945年(昭和20年)8月1日九州に向けて北上中のB-24爆撃機編隊迎撃のため、隊長・菅野以下紫電改20数機は大村基地を出撃しました。屋久島近くに達すると島の西方にB-24の一団を発見し敵上方よりいつものように急降下に入り、攻撃体勢に入りました。菅野はこの日、整備中であった愛機の「343-A-15」号機ではなく「343-A-01」号機で出撃しました。不幸なことに、このことが、菅野の人生の分かれ目となりました。
この戦闘中に菅野から戦闘第301飛行隊所属で彼の二番機・堀光雄飛曹長の無線に「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」と入電が入りました。これを聞いた堀が翼を傾け右下方を覗くと、自機のはるか下方を水平に飛ぶ菅野の機体を発見し、即座に近づいたところ、左翼日の丸の右脇に大きな破孔を発見したのです。菅野機の事態の危うさに気づいた堀はすぐさま戦闘を中止、二番機としての任務に則り菅野機の護衛に回りましたが、菅野はそれを良しとせず、敵の攻撃に向かうように再三堀に指示をしました。堀がそれでも護衛から離れないので菅野は怒りの形相で拳を突き付けて見せたので、堀はやむなく戦闘空域に戻りました。堀はその瞬間にそれまで怒りの形相であった菅野の表情が和らいだのを見たと述懐しています。恐らく、菅野は覚悟したのでしょう。
これが、確認された菅野の最期の表情でした。
菅野から「空戦ヤメアツマレ」と入電があったため、堀は菅野がいると思われる空域へ向かいます。その途中で再び菅野から
「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番」と入電がありました。
しかし、堀や同僚たちがいくら周辺の海域を捜索しても、菅野機は海や空のどこにも見つかりませんでした。皆が燃料の続く限り海域の捜索、彼らだけでなく海軍基地、陸軍飛行場も菅野の行方を探りましたが菅野の機体が見つかることはありませんでした。
この入電こそが、菅野の最期の肉声となりました。享年23歳の生涯でした。
この日の戦闘で菅野機を含む3機が未帰還となりました。
なお、同日のアメリカ軍の戦闘記録によると当のB-24の一団は敵機撃墜0と報告しています。しかし近隣空域にてP-51の一団が「四式戦「疾風」(はやて)と空戦し4機撃墜」の報告をしている一方で、陸軍には同空域での「疾風」の戦闘記録がないため、機体と戦果の誤認からこれは343空のこの戦闘とも考えられています。志賀淑雄の8月10日付見認証書には菅野の戦死を「1015 高度6千メートル優位より6機のP51の奇襲を受け壮烈なる戦死を遂げたり」と記載されています。しかし、最後に菅野を見た堀光雄はP-51を目撃していないため、菅野の最期は敵の攻撃を受けての被撃墜なのか自爆なのかは、戦後も現在も不明のままです。
菅野は行方不明のまま終戦を迎えましたが、9月20日、源田司令は菅野と海軍の名誉のために空戦での戦死として扱ってほしいと二階級特進を具申し、その結果、8月1日の戦死と、本来であれば異例の認定を受けて特進が正式に認定され中佐に昇進しました。
なお、菅野がこれまで撃墜した総撃墜数は、南方戦線において個人撃墜30機、343空において個人撃墜18機・協同撃墜24機を記録し、計72機撃墜を全軍布告されました。この撃墜数は海軍ではトップクラスで、このことをもって菅野は「最後の撃墜王」と呼ばれています。
称念寺
宮城県角田市
「新撰組」(剣部隊の愛称) 隊長 菅野 直海軍大尉 墓碑
戒名は「隆忠院功誉義剛大居士」です。
もしも、終戦まで菅野が生存していたら…。
こうして菅野は若干23歳の若さで大空に散ってしまいましたが、米軍、ことに重爆撃部隊の面々は諜報部隊から菅野の死を確認したという一報を受け、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の大喜びであったと言われています。
「やっとあのイエローファイターがいなくなった!これで恐れるものは何もない!」
と、部隊全体が大喜びしていたと言われています。
実際、そこからB-24やB-29は日本本土を我が物顔のように飛行し、日本各地を爆撃していきました。それに対して日本の防空隊は慢性的な燃料不足と熟練したパイロットの不足、整備士も兵隊として徴収してしまったことから機体の整備不良が深刻化するという負の連鎖に陥り、満足な練習も行えない始末でした。加えて、軍の関連施設は米軍の格好の標的となっていたため、飛行場も米軍の爆撃によって満足に使えない、といった末期的症状を露呈していました。
このような防空隊の状況は米軍の諜報部隊から無線で爆撃部隊に逐一報告され、やがて米軍の爆撃部隊は護衛もつけず、丸腰同然で日本本土を空爆するようになっていきました。その状況にもはや日本軍は有効な対策を打つことが出来ず、遂には8月6日に広島にウラン型原爆「リトル・ボーイ」、同月9日に長崎にプルトニウム型原爆「ファット・マン」を投下されるという最悪の事態を招くこととなるのです。
歴史に「if」は禁物ですが、もし、菅野がこの時に生存していたのなら、誰の制止も振り切ってたとえ単機でも出撃したことでしょう。たとえ相手がB-29でも、丸腰であれば菅野にとってはただの格好の標的。
上空で広島に原爆を落とした「エノラ・ゲイ」号は容赦なく撃墜されたことでしょう。(実はこの時不幸なことに343空はどちらの原爆投下の時も整備休暇をしていたのでした。)もし、撃墜が成功していたら、原爆で犠牲者が出ることも無かったでしょうし、現在まで続く原爆の後遺症に悩まされる方々もいなかったかもしれません。
そのようなことを考えると、菅野の死は343空だけの悲しみにとどまらず、海軍全体、ひいては日本国、日本国民全体にとって、大いなる悲しみであった、と言わざるを得ません。
海軍に入隊しても、文学への熱い情熱は決して忘れていなかった!
ここまで菅野のエピソードをご紹介してきましたが、菅野が海軍に入隊する前までは純朴な文学青年であったことは前述したとおりです。
では海軍時代の菅野はどうだったのでしょうか?その内容を知ることができる菅野の遺品として、存命中に愛用していた財布が東京の靖国神社の遊就館に展示されています。菅野の遺言で軍務時代に書き残したものはほぼ焼却されましたが、中学3年3学期から海兵合格まで(1937年1月1日–1938年11月9日)の日記が残っています。例えば1938年(昭和13年)9月14日の日記では、「ナポレオンが僕の興味を沸き立たせないのは、彼はもののあわれを知らない唯物論者であるからだ」など早熟な感性からの視点がうかがえ、菅野の豪胆な性格とは裏腹の内面の感情が垣間見える貴重な資料となっています。
菅野の中学時代の友人は、戦後、菅野の活躍を聞くと、「彼らしいと思う反面、その通りだがもっと別の、早熟な文学少年としての本来の志は文学にあったように思う」と、「彼が中学時代に熱く語った石川啄木に重なる」と語っています。また、別の友人は「海軍で再会した菅野は酒に強く態度が荒く、中学時代とのギャップに驚いた」といいます。その一方で、菅野が中学の級友へ出した手紙には「君のように大学で研究に没頭できる生活が羨ましい、戦争が終わったら俺もそういう静かな生活を送りたい」と書いており、菅野は文学への熱を生涯変わらずに持ち続けていたと思われます。
破天荒すぎるエピソードのおかげで
漫画、YouTube動画で最近人気が
沸騰中⁉
菅野直の名前は戦後、GHQの対日占領政策によって徹底的に記録から抹消されてきましたが、戦後国会議員になった源田実元司令や生き残った同僚たちが菅野のエピソードを語り継ぎ、1965年に刊行された漫画「紫電改のタカ」への登場で、国民全体に菅野の名前が知られることになりました。また、菅野のことを記録した著書も刊行されています。
また最近では、菅野の破天荒すぎるエピソードが故にキャラクターとして適任と思われているのか、「ドリフターズ」と言う漫画で重要なキャラクターとして登場しています。また、YouTube動画でも菅野の事をキャラクターにした動画が公開されています。気になった方は、参考までにリンクを貼っておきますので、ご覧いただきたいと思います。
・参考リンク
・アニメ「DORIFTERS」公式サイト https://www.nbcuni.co.jp/rondorobe/anime/drifters/character/naoshi.html
・菅野直のYouTube動画
“平均寿命3か月”の最前線を戦った大東亜戦争の撃墜王「菅野直」の人生
【人気動画ガチ編集】菅野・デストロイヤー・直【ずんだもん ゆっくり解説】
【人気動画ガチ編集】菅野・デストロイヤー・直(後編)【ずんだもん ゆっくり解説】
まとめ
今回は日本帝国海軍のエースパイロットであった菅野直を紹介しました。菅野に関しては余りにも非常識で破天荒なエピソードが満載で、このような分量となりました。これからも、東北の偉人たちを紹介していきたいと思っていますので、是非ともこれからもご覧いただけたら幸いです。
それではまた次回お会いしましょう!ライナスでした!