どうも!!!!!!!!ギオンちゃんです!!!!!!!!前回の続きになります。それではどうぞ!!!!!!
すべてに疲弊しきってしまい保護室で自ら命を絶ってしまった私は、運よく看護師の方にすぐに発見し救急搬送され一面を取り留めました。本州にいた両親がその日の朝に沖縄にきて10分間だけ面談をしましました。ですが自分の愚かさや不甲斐ないで一言も話すことが出来なかったを覚えています。精神的に危険な状態であると診断された私は、そこから約三カ月間、もっと厳重な特別な観察室に入ることになりました。真っ白い部屋にトイレだけあり、天井には監視カメラ24時間作動しており、医者からの判断で持ち物は全部取り上げられコンタクトレンズですらつけることができませんでした。その地獄のような三ヶ月を過ごした私は、沖縄の施設では、手の施しようがないと判断され元々通院していた本州にある大きな病院に転院する事になり、そこで今後どうしていくか担当医やケースワーカーと考えていきたいという私の主張を受け入れて貰い、そこから約1ヶ月半閉鎖病棟に入院する事になりました。そして担当医やケースワーカーと話し合い熟考した結果、実家に帰るとまた音楽をやるしかなく、そうなるとまたオーバードーズに手を伸ばしてしまうのが怖いという私の意見を受け入れて下さり実家には帰ることはせず、私の一人暮らしを伝面的にサポートしていただくことになりました。そして家や手続き等が全部済み、晴れて退院となりました。久しぶりに外に出た時、桜が満開だったのを覚えています。
そこから、一人暮らし生活が始まり最初は不安なことで頭が一杯でした。しかし、訪問看護のスタッフさんや定期的に診断してくださる担当医の先生、家族の継続的なサポート、依存症の自助グループに通っていることもあり段々と一人暮らし生活に慣れていき、そうしてる気がついたら自分も意識してない内にオーバードーズや自傷行為はぴったりと止まったいました。

オーバードーズ、自傷行為、飲酒、ギャンブルなどやめて1年と8ヶ月になります。なぜ私がこんなにもオーバードーズの渦に飲み込まれてしまったか、そしてなぜ辞めることを続けることができたのかを話して、この長い自己紹介を終わりたいと思います。まずなぜやめることが出来なかったのか、これは、様々な要因があると思いますが、私自身がどこかで親が助けてくれる。もしくはまた入院すればいいという他責思考が働いていたからだと思います。自分が好き勝手やっても誰かが面倒をみてくれるそんな考えが依存症を加速させていたんだと思います。もちろん他にも依存症の因子になっていた部分は沢山あるのですが、この他責な考え方は依存症のピースにバチッとハマっていたと思ます。そしてなぜそんな中やめることが出来たのかを考えた時、一番に思いつくのは沖縄での自ら命を絶ってしまったあの事故が大きなきっかけだったと思います。あの事があり親や兄弟、自分も含め沢山の人を悲しい思いをさせてしまいました。それ以降自分の命は自分だけのものじゃないなという感覚が芽生えました。そして、一人暮らしを選択したのもとっても大きなポイントだったなと思います。今まで依存症の中で培われていた、他責思考が、何をしても自分の責任になるという環境へ変わったのは、自分を冷静かつ強くさせるための大きなポイントだったと思います。
長くなりましたが、私の依存症の始まりから今に至るまでざっくりと書かせていただきました。私は依存症になったことを後悔もしていますし、同時に良かったなとも捉えています。依存症は脳の病気です。誰もがなり得る可能性があります。私自身たくさん失ったものもありますが、依存症になっていなかったら気付かなかったことも沢山あります。しかし依存症という病気に完治というものはありません。一生やめ続けるということしていかなければなりません。この先。またオーバードーズや自傷行為をしてしまうことがあるかもしれません。そうなったとき冷静に、自分で責任を持った選択をし誰かにきちんと助けを求められるようにできたらいいなと切に願っています。この病気を通して失ったもの得たものはとっても沢山あります。それをいつまでも忘れずに社会復帰を目指していきたいです。