私が好きな歌手(第一編)

世の中の不条理に抗い続けた

反骨の女性シンガー

アイルランド Sinéad O’Connor

      (シネイド・オコナー)

ライナス

 皆さんこんにちは。ライナスです。今回は私が好きなアイルランドの反骨の女性歌手、Sinéad O’Connor(シネイド・オコナー)を紹介していこうと思います。どうぞ最後までご覧ください。

幼少期の母からの虐待と

厚生施設での過酷な環境で

植え付けられたトラウマから

芽生えた世の中の不条理への反発と

「反・キリスト教」のマインド

    シネイド・オコナーは本名をSinéad Marie Bernadette O’Connor(シネイド・マリー・バーナデット・オコナー)と言い、1966年12月8日アイルランドの首都ダブリン郡グレナギャリーに5人兄弟姉妹の3番目の子として生まれました。出生当時はごく普通の平穏な家庭だったようですが、彼女が8歳の頃に両親が離婚したのを機に彼女の生活は暗転します。

 彼女は母親に引き取られたのですが、そこで彼女を待っていたのは母親の毎日のような凄絶な虐待でした。彼女はそのことを後にインタビューの中でこう語っています。長くなりますが、原文のまま紹介し、彼女の人となりを少しでも少しでも理解していただけたら幸いです(なお、文中の中に過激な表現や差別的な表現が含まれていますが、生前の彼女の意向を尊重し、原文のまま掲載いたします。)。

幼少時代のSinéad O’Connor。髪があり、笑顔に溢れ、

歌手時代からは想像できない穏やかな雰囲気である。

●あなたが受けた虐待はどのようなものだったのですか?

ありとあらゆる虐待を経験したわ。私の母はとても不幸な人で、たくさん暴力を振るった。彼女はどうやって生きればいいか分からなかった。もちろん、彼女自身の生い立ちのせいでそうなったのよ。私はそこら中にある色んなもので叩かれた。ご飯も食べさせてもらえなかった。食事も着る服もないまま、何日も自分の部屋に閉じ込められたわ。夜は庭で寝るしかなかった。夏の間はずっと家の庭で寝ていたわ。

●何歳くらいの頃の話?

「12歳の頃ね。でも、それ以前から私たち兄妹は庭で寝させられて、食事も与えられなかった。精神的にも虐待を受けたわ。おまえはダメだ、おまえはクズだ、お父さんと別れることになったのはおまえのせいだ、といつも言われてた。おまえは不潔だ、おまえは汚い、おまえは頭がおかしい、とかね。私は大抵クズ扱いだった。私が女の子で、いつもヘマばかりしていたからよ」

●あなたが一番年上だったんですか?

「いえ、一番上は兄。私は毎日ぶたれたし、他の兄妹も同じようにぶたれた。すごく酷く。年がら年中ずっと怯えてたわ。母が階段を上がってくる足音がしただけで私たちは震え上がった。私たちはなおざりにされ、ぶたれ、精神面・情緒面で虐待を受けた」

●いつまで続いたんですか?

「私が母の家を出た13歳の時。言っておきたいんだけど、私はこの問題を家族と話し合い、皆で克服したのよ。私は自分の父と母をとても愛してる。私が今してるのは、“あんちくしょう”とか“可哀想な私”とか、そういう話じゃない。家族のためにもそこははっきりさせておきたいわ。同じ問題を抱える他の人たちのためにもね。私はいつも盗みをすることを促されてた。というのも、お金とか何か物を持って家に帰るとぶたれずに済んだからよ。それで私と妹は盗みを犯した。夜中の2時前に寝ることはなかったし、宿題も全然やらなかった。だから私は卒業証書なんか1枚も持ってない。私たちはいつも病んでたし、本当に無茶苦茶だった。おかげで家を出る頃には自分のことも自分の行いも分からないような有り様だった。盗みのせいでしょっちゅう警察の世話になってたし。だから父親と暮らし始めた時はいきなり解放されて、どうすればいいか分からなかった。で、私は学校をサボり、また盗みを始めた。でもって、素行不良で女子感化院に送られたわ。そこで再教育されるわけね。だけど、私は再教育なんかされなかったし、他の子たちもそうだった。先生はいい人たちだったけど、誰も私には構ってくれなかったし、社会に出られるよう面倒も見てくれなかった。私は自分の性格のせいで叱られたり、拒絶されてばかりいた。私がそうなったのは両親のせいだし、私の両親がそうなったのは社会のせいなのよ。子供を親から引き離せば済むという問題じゃない。親にもまた助けが必要なの。親から子供を引き離すとか、隔離するとかで済むことじゃない。子供たちが本当に救われるためには、法が変わらないといけないのよ。近所に叫び声が聞こえていたせいで、私の家には度々お巡りさんがやって来たんだけど、“大丈夫ですか?”と訊かれても私たちはビクビクするだけだった。大丈夫じゃありません、とは言えなかったし、言ったところでどうにもならないからよ。警官が何度来ようと、大丈夫じゃないと言えばぶたれまくるから、私たちは“はい、大丈夫です”と答えた。で、彼らは帰っていく。警察には何もできないのよ。子供を持つ女性にはもっと国の援助があるべきだわ。子供を持つと女性は自分を見失ってしまう。女は毎日24時間家にいるべきだ、なんて言われるのは良くないことよ。女にだって自分らしく自分自身の人生を送る権利がある。政府にはその手助けをして欲しい。私は子供の時、自分が醜い人間で、自分の身体を恥ずべきだといつも言われた。もしそう思わないなら、おまえは淫売だ、クズだ、とね。互いに愛し合い、理解し合う人間同士にとってセックスが自然な行為だということも、私は一切教わることがなかった。誰かとセックスをしたっていい、それが当たり前なんだということを、私はメディアを通して知った。ロックンロールもそのことを教えてくれたわね」

(中略)

●児童虐待はどこまで意識的なものだと思いますか?

「全く意識的ではないわよ。彼らは皆、自分の子供を持ったアダルト・チルドレンなのよ。ちっとも意識的なんかじゃない」

●この件についてお母さんと話したことは?

「ないわ。話し合えるようになる前に母は亡くなってしまったから。でも、私がどう思ってるか母は分かってくれてるはず。父とはこの件についてたくさん話したわ。ちっとも意識的ではなかったのよ」

●お父さんは虐待についてご存じだったんですか?

「ええ、知ってたわ。父は本当に最善を尽くしてくれたし、自分に出来る限りのことをしてくれた。ちっとも意識的ではなかったのよ」

●お父さんが家へやって来て私を連れていってくれたら、と切望したことはありませんでしたか?

「父は現にそうしてくれた。でも、私たちは母親なしでも生きられなかったのよ」

●いっそ戻りたいと思いました?

「ええ。つまりね、子供を母親から父親、父親から母親のもとに移すのではなく、親自体を救わないとダメなのよ。助けが必要なのは親の方なの。虐待は意図的に行われるものじゃない。そこが悲しいところね。彼らは犠牲者なのよ。悲しいことに」

●今、お母さんと話せたらと思います? ここにいてくれたらと思います?

「いいえ。母にとっても私にとってもこの方がいいのよ。母がこの世にいない今、私は生前よりも母と良い関係を持ててる。亡くなる前、母と話したことを覚えてるわ。“なんで私たちをぶったの?”と訊くと、母は“おまえたちには何もしちゃいないよ”と言った。母は自分が何もしていないと思い込んでた。彼女にはあまりに怖ろしすぎて問題と向き合うことができなかったのよ。私たちをぶった時、母はとても悲しんでいたということが私には今はっきり分かる。暴力を振るった後で、母がいつもひどく取り乱していたという話を父からも聞いてるし。父も言ってたけど、母は不幸になる定めだったのだと思う。幸せになれる可能性はあったし、人生の中で色んなチャンスもあったでしょう。私の場合と同じようにね。でも、母は幸せになれなかった。自分の感情を表現できず、愛情を注ぐことができなかった。子供の頃、母は何かと虐待を受けた。母には愛情を表現する術がなかった。どうすればいいか分からなかったのよ。私は母を愛してる。私はずっと母を愛してきた。母が本心からそんなことをしているわけではないと私はいつも分かってた。ぶたれた時でもね。私は母を憎んだことはない。恨んだこともない。自分自身のせいで苦しみ、母には自分のしていることが分からなかったということを私はいつも理解してたわ」

                 (1991年、雑誌のインタビューにて)

 後に彼女は母への想いを「Thank You For Hearing Me」(ありがとうの唄)という歌で不器用ながらも発表しています。

Sinead O’Connor – Thank You For Hearing Me performance (1994)(HQ)

 彼女は耐えかねて13歳の頃に父親と継母に引き取られましたが、世間や社会への不信感と虐待による心の荒廃のせいか、彼女は窃盗などの非行を繰り返し、ローマ・カトリックの厳格な更生施設、マグダレン修道院に送られてしまいます。

 しかし、そこで彼女を待ち受けていたのは、母の虐待が可愛く思えるほどの修道院の恐るべき実態でした。更生施設とは名ばかりで、マグダレン修道院は過酷な重労働、囚人同様かそれ以下の非道な扱い、聖職者による暴力や性的虐待など、人権を無視した行為がまかり通る、この世の悪夢とも言うべき場所だったのです(後にこの修道院の衝撃の実態は、『マグダレンの祈り』というタイトルで、映画化されています。)。

映画「マグダレンの祈り」予告編

 にもかかわらず、修道院という宗教的な閉鎖空間のせいで、それらが世間の明るみに出ることはありませんでした。彼女にとって虐待行為とそれを隠し続けるローマ・カトリック、そしてキリスト教そのものの体質は、何よりも許せないものとなっていきました。

修道院の中で出会った

音楽によって心が救われ、

歌手活動の道を歩み始める

 勿論、このマグダレン修道院では、彼女もその例外に漏れることなく、重労働や暴力、性的虐待の格好の標的となってしまいます。この果てしない絶望と苦悩の中で、彼女は音楽に救いを求めます。

 修道院の友人から聴いたボブ・ディランデヴィッド・ボウイボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズスージー・アンド・ザ・バンシーズプリテンダーズ …。彼らの楽曲に彼女は感化され、次第に「反骨」の精神を形成していったのです。

 そして16歳の時、施設でボランティアとして働いていたIn Tua Nua(イン・トゥア・ヌア)というバンドのドラマー・Paul Byrneが、たまたま彼女がバーブラ・ストライザンドの「Evergreen」という曲を歌っているのを見て感銘を受け、丁度、女性ヴォーカリストを探していたバンドのオーディションを受けさせます。そこで歌われた曲です。

Stream Take My Hand by intuanua | Listen online for free on SoundCloud

 残念ながら彼女自身が、まだ歌手活動は時期尚早だと思ったのか、バンドデビューの話は流れてしまいますが、修道院を出て新しい学校に進み、そこで教師から音楽の道を進められ、学校を中退し、歌手活動の道を本格的に歩み始めることになるのです。

ストリートミュージシャンから

メジャーデビュー!

デビューアルバムは

彼女らしさ全開!

 こうして彼女は本格的に音楽活動の道を目指し、ダブリンの路上やパブでストリートミュージシャンとして活動しながら、ダブリンの音楽大学で声楽やピアノなどの楽器の演奏方法を学んでいきました。しかし、その最中に彼女の母親が交通事故で亡くなるという悲劇に見舞われます。 恐らくそのことが彼女自身に影響を与えていたのでしょう。それを契機に、彼女は生活と音楽の拠点をダブリンからイギリスロンドンへと変えて、活動を始めます。彼女の歌声は早い段階から注目を集め、メジャーレーベルのEnsignと契約。デビューアルバムのレコーディングに入ります。そしてこの頃、彼女の評判を聞いたU2エッジが、マイケル・ブルックと組んで制作中だった映画「Captive」の主題歌「Heroine」のボーカルに彼女を起用しました。その時の一曲です。

The Edge & Sinéad O’Connor – Heroine

 その後彼女はデビューアルバムの制作に入るのですが、プロデューサーとの対立があり、レコードの制作は遅々として進みませんでした。

更に火に油を注ぐように、プロデューサーの一言が彼女を精神的に追い詰めます。それはこんな一言でした。

「頼むから、女らしい格好をしてくれ。

 髪も伸ばしてくれ。」

 この一言に彼女は激高し、その日のうちに理髪店に行き、それまでボーイッシュな刈り上げヘアだったのを一新。店員に一言、

「丸坊主にしてください。」

バズカットでシャウトしながら歌うSinead。

このスタイルが彼女のアイコンとなった

 と話します。後に彼女はインタビューでそのことについて聞かれた際に、「店員は女性だった。彼女は私の話に驚いて、何度もやめるように話したわ。でも私がその提案を受け入れないのを承知して、泣きながら私の髪を刈り上げたの。それでも私の気持ちは晴れやかだったけれどね。」と話しています。

アルバム制作中の時の一枚(当時Sineadは第一子を妊娠中)。

Tシャツのチョイスがいかにも「彼女らしさ」に溢れている

 またこの時期、最初の夫となるドラマーのジョン・レイノルズとの間に子供を出産しており、20歳で未婚の母となりながらもアルバムの制作を続けていました。ちなみにアルバムの制作ですが、前述した通りプロデューサーとの対立によって激高した彼女は独自で製作に踏み切ります。それがデビューアルバムの「The Lion and the Cobra」[注1]でした

(ちなみにアルバム名の『ライオンとコブラ』は旧約聖書詩篇に現れる言葉で『悪魔』の隠喩となっています。アルバムタイトルをこのような名前にするところが、いかにも彼女らしいと言えます。)。

・[注1] 彼女のデビューアルバム「The Lion and the Cobra」には当時は若手の歌手だったエンヤ

(Enya)も参加し、ゲール語の朗読をおこなっています。Sinéadとは正反対で、敬虔なカトリック教徒の両親のもとで健やかに育ち、修道院の寄宿学校で自分の方向性を確立したEnyaはまさに「水と油」な関係性と言えるのですが、そんな二人が融合しあったからこそ、彼女のアルバムがヒットしたのだろうと筆者は考えています。

Lion and the Cobra

・筆者おすすめの曲「Drink Before the War」[注2](1987 Sinéad O’Connor – Drink Before the War (Official Lyric Video) 年)

・「Mandinka」(1987年)

Sinead O’Connor – Mandinka (Official Music Video)

・「Troy」 (1987年)

Sinead O’Connor – Troy (Official Music Video)

[注2] 後のインタビューで彼女はロック評論家のスティーヴ・モース氏に対して、『The Lion and the Cobra』の収録曲に今はもう共感できないと語っています。本人曰く特に「「Drink Before the War」は大っ嫌い」。「なんかぞっとする」。「自分の日記を読んでるみたいだわ」。という事だそうです。しかしこれは彼女なりの「照れ隠し」の表現だと筆者は思っています。というのもこのアルバムやこの楽曲自体が彼女の母親への愛情や修道院時代の指導官への反発をテーマにしているので、母親や指導官に対して愛憎入り混じった感情を抱えた彼女にとって「トラウマ」を呼び起こすものであったからなのであった、と筆者は考えています。

 ちなみにこの「The Lion and the Cobra」はイギリスのUKゴールドで27位 、アメリカのUSゴールドで36位を記録し、累計250万枚以上のセールスを上げる、新人としては異例のヒットとなりました。その要因として、ちょうどその頃U2がヨシュアで世界的にブレイクした年で、アイルランドのミュージシャンに注目が集まっていたことも追い風になったかもしれない、と筆者は思っています。

U2のメンバーと笑顔で2ショットを撮る彼女

第二編に続く

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ライナス

ライナスと申します。読書や日本の歴史、アイルランドやスコットランドの音楽が好きなので、皆様に紹介して共有できればと思っています。

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