【はじめに】
初めまして、H.164と申します。何をテーマにするか迷いましたが、自己紹介という名目で、今までどういう職に就き、どういう風に生きてきたのか書いていきたいと思います。
【漫画家になりたかった…けど勇気がなかった】
まず大学時代について。私は生まれも育ちも宮城県なのですが、高校卒業後に栃木県に引っ越し、世間的にちょっと珍しい『マンガ専攻』のある、文星芸術大学という所に通っていました。漫画家になることが、小さい頃からの夢だったからです。その夢にちょっとでも近づこうと、レポートの代わりに、漫画の課題を出すという感じの日常を送っていました。特別教授に『あしたのジョー』などで知られるレジェンド漫画家、ちばてつや先生がいらっしゃり、有難いことにキャッチボールを一緒にやらせて頂いたりと、楽しい大学生活を過ごさせてもらいました。
しかし、卒業後も漫画の仕事に携われるかというと、そんなに甘くはありません。学年でも実力のある人は出版社の方と連絡先を交換したり、凄い人は雑誌に読み切りが掲載されたりしていました。一方の私は、校内雑誌に作品が載るのがやっと。やがて卒業を控え、私は入学前に抱いていた『漫画家』という夢を諦めることにしました。一般就労を選んだのです。しかし今思えば、それは過酷な道を進む自信がないという、『逃げ』の選択でもありました。もちろん、社会人経験を積んでから漫画家になられる方もたくさんいますが、正直あの時の私に、そういう覚悟はなかったです。とにかく早く就職をして、楽になりたかったのです。その後色々あって、就職支援会社からのサポートを受けながら、私は『ニラク』というパチンコ企業にお世話になることになりました。
【人生そう簡単には当たらない】
ニラクは福島県を中心としたパチンコ企業で、私はその中のいわき神谷店という店舗に配属されました。当時はパチンコのパの字も知らないヒヨッコで、店内の眩しい光、耳の中に響き渡る轟音に、ただただ圧倒されるばかりでした。役職はクルーで、主な仕事は機械トラブルとお客様への対応です。例えばパチンコ台なら玉が流れないとか、スロットならメダルが詰まったとか、そういう時に出動し、速やかに解決するのが任務です。特にパチンコは大当たり時にトラブルが起きた場合、早急に解決しないとクレームの元になります。時にお客様のお怒りに心を痛めたり、パニックになったりと、色々大変ではありましたが、上司の方や先輩方の支えで、何とか過ごせていました。
問題が起きたのは、入社して1年半程経ってからの面談でした。はっきりとした『将来的ビジョン』を、上司の方から真剣に問い詰められたのです。はっきり言って、『逃げ』の道を選んだ私に、そんなものはありませんでした。開き直って、仕事に一生懸命になれれば良かったのかもしれません。しかし私は毎日をどうにか過ごすことでいっぱいで、仕事を好きになろうという気持ちを持っていませんでした。その結果、面談の途中で激しいストレスを感じて、気が付いたら声が上手く出せなくなっていました。後日心療内科を受診して、『不安症』の傾向にあると診断されました。それからはホールスタッフとしては働けなくなり、清掃員として数か月過ごした後、退職することにしました。薬を服用したりして声は再び出るようになりましたが、パチンコ店員としては、色々と限界だったのです。
(退職日に描いた、ニラクいわき神谷店と自画像)
【宮城に戻るも…】
退職後、私は故郷宮城に戻り、利府町で一人暮らしを始めました。実家に戻る手もありましたが、運転免許を取得したい、もう少し親の手を借りずに頑張りたいと、理由をつけてそれを拒みました。ただそれも、今思うと強がりを含んでいて、ただただ何もせずにいたいという気持ちが大きかったです。実際、数か月間は自動車学校も再就職先も見つからぬまま、空虚な毎日を過ごしていました。
転機は、父が亡くなったことでした。大動脈解離によって突然の入院と大手術、一旦一命を取り留めるも、退院して2週間で体調が急変。あっという間の別れでした。しかし皮肉にも、そのことが何もしてこなかった私に、免許取得と再就職を決意させました。短期講習でひぃひぃ言いながらも何とか運転免許を得て、ハローワークにも何度も通い、ハウスクリーニングの職に辿り着きました。
【お部屋はピカピカ!身体はズタズタ…】
ハウスクリーニングとは、退去後のアパートやマンションの部屋を清掃したり、壁の張り替えなどを行い、再び人が住めるようにする為の職業です。一人暮らしをしたことがある人なら、大抵お世話になっていると言えます。しかし新人の私にそんな誇りを持つ余裕はなく、毎日が必死でした。特にやっかいなのはキッチンとお風呂で、元々綺麗なら楽なのですが、長年の汚れがこびりついたようなものはそれはもう、スポンジと洗剤、そして手先を酷使するばかりです。ワンルームから一軒家のような物件まで、一つとして同じような状態は存在せず、その都度対応を変える必要がありました。先輩社員の方と二人がかりで取り組んでいましたが、私が拙いこともあり、夜遅くまでかかることもしばしばでした。月曜から土曜まで働くハードさもあり、体重も随分と減っていきました。数か月働いてもミスは絶えず、先輩から注意される機会も多かったです。正直、体力的にも精神的にも、しんどい時期でありました。
その日々に終わりが訪れたのは、私のコロナ感染がきっかけでした。熱が一時期39度に迫る危険はあったものの、10日程で陰性に回復はしたのですが、身体には倦怠感、右手には痺れが残りました。後遺症です。結局1か月程休んでも治ることはなく、退職を選びました。ただ、合わない職業ということを痛感していたので、正直安心している自分もいました。ある意味これもまた、『逃げ』でありました。一人暮らしにも限界を感じた私は、実家へと戻っていったのです。
【福祉支援の先にあるもの】
その後自宅療養を半年程して、体力と手の痺れはある程度回復しました。そうなると、迫られるのは再就職であります。接客業も肉体労働も難しいと知った私は、かなり奥手になっていました。そうしている内に、母の知り合いの方が石巻で新しく起業するに当たって人手が必要と知り、私はそれに二つ返事でOKをしました。ここまで読まれている方ならわかるかもしれませんが、就職活動をしたくないという『逃げ』から選んだ道でありました。
そしてその道とは、障がい者の利用者の方を対象とする、放課後等デイサービスのことでした。福祉の経験も免許もない私でしたが、指導員の立場を与えられました。内容としては、支援学校からお帰りになる利用者の方を事業所までお連れし、排泄確認をしたり飲食を手伝ったりストレッチを行うなどし、時間になったらご自宅まで送迎するというものです。薄々大変なのはわかっていましたが、始まってみると想像以上でした。視力の有無、体格の大きい小さい、どういった障害を持っているかも人それぞれで、全員の性格や特徴を頭に叩き込まなければなりませんでした。その上でケガをされないよう、常に気を張らなければなりません。車いすからベッドまでの往復、酸素ボンベの残量、送迎中にきちんとシートの固定が出来ているか、いずれも大事なことでした。ただ、やはりそれまで経験のないことであり、尚且つ人の命に関わることであるため、身体的にも精神的にも、負担は大きかったです。特に朝から夕方まで大勢の利用者の方が集まる土曜日や祝日の仕事は、その負担が何倍にも感じました。最初はあった精神的余裕もなくなっていき、上司の方から仕事態度について苦言を呈されることも多くなっていきました。
そんなある時、ついにストレスが限界を超えてしまいました。正常な受け答えが出来ない、完全に余裕のない精神状態になっていました。かつてのパチンコ店の時のように心療内科に向かい、中程度の『うつ症状』、『適応障害』、そして『不安症』と診断されました。ガクッとくるというよりは、どこか納得している自分がいました。同時に、また職を失うことになるのだと、自暴自棄のような心境にもなりました。実際、投薬の影響で朝からの長距離運転が困難になり、石巻にある仕事場にも通えなくなりました。さらに、私が休んでいる間に長年の経験を持った社員の方が増え、居場所もなくなりつつありました。元々半年程のお手伝いとは思っていたものの、退職を決意した時は、寂しい気持ちがこみ上げました。
そんな中、一人の利用者の方が支援学校を卒業するにあたり、卒業記念パーティーを開くことになりました。ホールを借り、各御家庭の親御さん、先生方などが集まり、卒業を祝いました。私はカメラマンとして参加し、その光景を写真に収めていきました。一人の人生を多くの人々が祝福し、そして祝う人々も多くの喜びや感動を得ていく。感慨深い光景でした。短い間でしたけれど、少しでもこういう職業に携われて、良かったと思います。
【まとめ】
以上が、私の渡り歩いてきた職歴になります。振り返ってみると、特殊な環境や現場にいることが多かったように思います。結果的にいずれも長続きはせず、ただただ遠回りをしてきたとも言えます。事あるごとに『逃げ』に走っていた、自業自得であるとも言えるでしょう。しかし、全てが無駄であったかというとそんなことはなく、自分が今この場所にいるのは、曲がりなりにも進んできた証拠なんじゃないかと、そう感じます。現在も投薬の影響で行動が制限されたり、睡眠が不規則になる日もあります。それでも今は、今まで得てきた経験を少しでも活かして、文章や絵に表現していけたらと思います。この文章を読んで頂いた方に、少しでも何か響くものがあれば、幸いです。