人間の文明や技術の進歩は『人間の代わり』と考えるとわかりやすい。
人力で物を運ぶより馬や牛に運ばせることで効率化と省力化した。動力を動物に委ねたのだ。
そしてそれを蒸気機関や自動車、発電所や電気自動車へと置き換えて居る。
そして知識の置き換え、発明が文字である。人間の知識や記憶や考察を他者と共有できる。この記事も同じだ。
昔は羊皮紙など動物の皮を鞣した物にインクで文字を書いたり、パピルスという植物の繊維を平たく伸ばした物に記していた。やがて紙が発明され、活版印刷や大量生産により教科書やノートやメモ帳、鉛筆、ボールペン、シャープペンシルと、扱いやすいものが安価に大量に生産され、人類の識字率や知識の共有は飛躍的に進んだ。
学校教育や読書で学ぶことは先人たちとの知識の共有だ。大昔は掛け算をする職業が有った。ほとんどの人が文字も読めない時代に掛け算は高度な技能だったのだ。しかしアラビア数字や九九が発明されて普及し現代では多くの人が掛け算も割り算も出来る。
更にコンピューター、携帯電話、インターネットの普及で人間に必要な記憶は大きく変わった。私が子供の頃は携帯電話なんか無かった。だから友達の電話番号や親の職場の電話番号などを暗記していた。
しかし携帯電話が普及すると全て電話帳に記録するようになった。その瞬間誰の電話番号も覚える必要がなくなり、すべて忘れてしまったのだ。人間が記憶を機械に委ねるようになったのだ。
ただ、昔は携帯電話を紛失したり壊れたりすると電話帳を失ったりデータ移行に失敗する危険性も有ったが、今はGoogleやAppleのアカウントに紐付けている人がほとんどだろう。スマートフォンを買い替えたり壊れたりしてもGoogleにログインすれば全て元通り。物理的な紛失を恐れることもなくなった。アカウンやWebサービスのトラブルも考えるとスクリーンショットを撮ったり、CSVファイルにエクスポートしたり、紙に印刷するなど物理的なバックアップも取れる。
スケジュールもカレンダー機能などを使えば忘れることも無いし覚える必要もない、前日に通知が来たりメールが届くように設定できる。
となると、人間は便利になって記憶力を失ってしまったと考えるかも知れないが、それはその人次第だ。
電話番号や予定を覚える必要がなくなった分、難しいことを学ぶ時間に当てるか、ゲームや動画を見る時間に当てるかは個人の選択だ。
人間はみな等しく1日24時間しか無い。その時間をどう使うかは個人や各家庭が決めることだ。
たっぷり寝て、しっかり休養を取り、昼間にしっかり勉強したり、スポーツに励む人もいれば、寝る間を惜しんで深夜まで勉強する人も居る。面白いゲームやドラマにハマって睡眠時間を削る人も居るだろう。
いっぱい勉強して有名な大学に入るのが偉いのだろうか?プロ野球選手になるのが偉いのだろうか?
例えばあまり勉強しないでスケボーばかりしていたらSNSで有名になって、沢山の人と知り合って、スケボー関係の広告案件が来てスケボーで生計を立て経済的にも自立し楽しい人生を送る人が居たら、それはそれで良いだろう。
勉強もスポーツもせずにゲームばかりしていてプロゲーマーになって賞金を獲得してゲーム関係のスポンサーが付いてプロゲーマーとして活動し続けられる人も居るだろう。
別にそれらを推奨するわけじゃないが、選択肢が増えたということだ。そもそも機械化される前は日本もアメリカも国民の8割が農民で、選択の自由なんか無かったのだ。手で田植えする必要がなくなり、機械が効率よく田植えが出来るようになったから、今は色々な仕事や娯楽や趣味を選べるようになり、いつでも美味しいご飯が食べられる。良いことだと思う。
もちろん農業も大切な仕事だが、出生により農民として生きることを強いられていた人達の中には素晴らしい音楽や絵画の才能を持っていたにも関わらず、農民として一生を終えた人も大勢居ただろう。現代に産まれていたら素晴らしいスポーツ選手や映像作家やゲームクリエイターになった人も居ただろう。
今『AI技術』『人工知能』などが話題になるが、それは世界中の人間が共有してきた何千年にも渡る知識を持った発明だ。それはいま大規模なデーターセンターや研究所から一般的なパソコンやスマートフォンまで広がって来ている。
羊皮紙から紙、人力から機械動力、紙のメモ帳からクラウド、今後は人間から人工知能に代替できるものが増えるだけだ。
人工知能が人間社会をどれほど変化させるのか、私はそれを見守りたい。