前回弔辞というタイトルでおばあのことについて記事を書いたがその時に叔父のことが頭をよぎった。
こちらの作業所に通い始めてから何か書けそうな題材を見つけるとつい頭の中で文言を浮かべてはメモを取る癖がついてしまった。
叔父は今糖尿病で失明しかけており足先が変色している。
この先長くないのではと思うとどうしても死に繋げてしまい、もし叔父に弔辞を読むとしたらなどと良からぬ想像をして不謹慎だな、とすぐに頭を切り替えた。
「そういえば叔父さん糖尿病で失明しかけてるらしいよ」
自宅でくつろいでる時にそれとなく夫が言った一言に不意を突かれ、寝耳に水過ぎてその場で絶句したあと慌てふためき泣きじゃくりながら部屋中おろおろした。
大変な病気にかかっている時こそわざわざ人に言わないもので、叔父の病気のことが私の耳に入ったのは発症して2年ほど経ってからのことだった。
そのあいだ何も知らないでのらりくらりと暮らしていたのかと思うと恨めしく思えた。
一週間ほどかけてやっと落ち着きを取り戻した私は自分に何ができるかを考えた。
まずはじめに糖尿病のことを理解するために一般人にもわかりやすく解説しているような医学書を買った。
このくらいのレベルの本を読まないと糖尿病の全体像を把握できない。
叔父の病状は今どの段階にあるのか、やっていいことと悪いことは何か、知識なくして無闇に関わろうとすると命に関わると思った。
しつこくならない程度に電話をして、体の具合はどうだとかコミュニケーションを取りながら無理のない範囲で岩手に帰る回数を増やした。
北上駅に着いたらその足で糖尿病患者のためのレシピで検索して作った料理を持って行った。
糖尿病だとわかってからまだ2〜3回ほどしか会えていないが、今の叔父の状態を知るためには交通費や私の体調と日程の調整などのリスクを取っても実際に赴き自分の目で確認する方がのちに後悔するよりマシだと思った。
今中心となって叔父を管理しているのは叔父の妹である叔母と叔父からすると甥にあたる従兄弟のようだったが、この叔母や従兄弟たちと現在私はあまり接点がない。
前回叔父のアパートを尋ねた時に叔父との会話の中で毎回連れて行ってる娘を「誰だ?」と言われたことが引っかかっており、物忘れ程度でもこの状況で認知が出てきてはいけないと思い不安になったので、思い切って母に叔母の連絡先を聞きそのことについて尋ねてみたが
『私たちは一ヶ月に一度は本人に会っているがそんな風には感じたことはない
細かな書類の手続きは私がしているし介護ヘルパーさんはその道のプロなのだから心配することはない
自分の父親のことを大事にしてあげなさい』
だいたいこんな内容のメッセージが返ってきた。
感じ方捉え方にもよるが正直ムカっときた。
ここ最近知ったばかりのあなたに何がわかるの?
離れて住んでるんだから関わってこなかったじゃない
いいから自分ちのことだけ考えてなさい
要は「今さら出しゃばるなよ」と言われた気がした。
悔しいが自分でも自覚があったし全くもってその通りだと思ったので飲み込むしかなかった。
確かに今私の父親も癌を患っており、かなり進行している。
もちろん父のことは心配しているが、幼い頃からの家庭環境や父との関係性は私にとって大変複雑なものなのだ。
こっちだってわかったようなことを言われたくないと思った。
この父のことについてもいつか別件で触れたいと思っている。
おそらく長期戦になる叔父の闘病生活において私にできることをできる範囲で続けていく。
私は蚊帳の外でもいい、誰の邪魔もしないから。
私だって叔父の姪だ。
大好きな叔父なんだ。
叔父はずっと独身で若い頃から甥や姪をよく可愛がる人だった。
私たち姉妹と従兄弟たちをよく山や海などにドライブに連れて行ってくれた。
従兄弟の兄たちが叔父と一緒に海釣りを楽しんでいるのを横目に、男同士の輪に入れなくて私と妹は防波堤に落ちていたヒトデや小さなツボ貝みたいなのを突っついて遊んでいた。
山に入ると当たり前のようにひねれば出てくる水道水などない。
魚臭い手を気にしながら叔父の愛車のデリカで車中泊などした。
またある時はおおよそ人が踏み込まないようなゴツゴツとした剥き出しの岩場が複雑に入り込んだ湾のような場所に連れて行かれた。
連れて行かれたというのは叔父との旅は毎回どこに行くとも聞かされず突然「行くぞ」と言われるので準備もままならない。
髪もとかさず顔も洗わず部屋着にジャンパーを羽織っただけの小汚い格好で車に飛び乗る。
それでも今日はどこに行くんだろう、とそのサプライズ感がまたワクワクであった。
毎回遠出になることは暗黙の了解で、長時間車に揺られている間にたいがい寝てしまうのだが車のエンジンがストップして完全に停車すると子供の私たちはそこで目が覚める。
道中眺めていた街の景色とは遠くかけ離れ、着いた頃にはタイムスリップでもしたかのような別世界が広がっていることは常で、車を降りると美しい自然の雄大さが目に飛び込みたまらなく心躍り興奮した。
波が不規則に岩肌に打ち付けられ、しぶきがこちらまで飛んでくるぐらい荒々しい湾だったが人が通れそうなスペースを探しては岩を跨いで少しでも沖合の方まで歩いてみる。
あの時は確かおばあもいたはずだったがおばあもまだ若かったのであんな悪路も私たちと一緒にホイホイ歩けていた。
叔父はよく行く先々を「俺の庭」などと言い、いつものサンダルで軽々歩く様子を見てるとほんとに「俺の庭」みたいに見えた。
今考えると手付かずの自然に何の準備もなく入って行くことはとても危険だと思うのだが、頼もしい叔父というガイドがいる安心感があったから私たちはただただ好奇心のまま楽しめたのだと思う。
いよいよ悪路がひどくなってきたその時にスズメバチの大群が辺りを飛び始めた。
さすがの叔父もそろそろと戻ろうと言ったが、そのわりには怖がって慌てる私たちを尻目にあまり騒ぐなと自分だけは涼しい顔をしていた。
こういう時にいつも私はおじちゃんかっこいい〜!と思うのだった。
帰る頃には海も真っ黒になっていて轟々と響く波と潮風の音とゴツゴツと連なる岩が不気味で、今足を滑らせたらもう生きては戻れないと恐ろしくなった。
こういった自然の畏怖も叔父から学んだことだ。
来るときは寝ていて気づかなかったが車幅よりも狭い道を通って帰らなくてはならない。
うねうねと曲がっていたりL字型に角張ったりと荒く作られた人工的な道をジリジリと慎重に走っていく。
長いし怖いし早く終わらないかな、と思いながらやっと街道に出た時にはようやく現実に戻った気分だった。
叔父はクレイジーだ。
そしてワイルドだ。
叔父がいなければできなかった経験を私たちは数えきれないほどした。
叔父は一人でいるのが好きな人でどこか人を寄せ付けない雰囲気を持っていた。
そんな叔父が唯一自分の兄弟の子供である私たちを本当に可愛がってくれた。
叔父の葬儀で弔辞を読むとすれば自然と私たち甥か姪の誰かになるだろう。
私が読むとなればこの記事に書いた思い出どころでは済まない。
溢れ出る想いが十枚にも二十枚にものぼりそうだ。
でもそんな日は永遠にこなければいいと思っている。
だから代わりにこの記事を書いた。
おじちゃんおじちゃんと呼んで慕っていた時のままいつまでも生きててほしい。
いなくなってほしくない。
これは弔辞の前に私たち甥と姪を代弁して贈る言葉だ。
そしてここに超かっこいい自慢の叔父を存分に書きびらかしておく。