妹はつらいよ。

_私には、姉が一人いる。5歳離れているので小さい時のことは分からないが、私が小学校に上がるころには、姉に遊んでほしくて、学校から帰ってきたら、泣きながら,

出かける姉を外まで追いかけて遊んでほしがっていた。そんな姉を追いかけているうちに気がついたのだが、姉は歩き方が偉そうで自信満々に歩いていた。父譲りだなと思った。それは、うしろからみても姉だとわかった。どこからその自信が湧いてくるのか分からなくて姉の、首をかしげる行動で私は迷惑を沢山こうむった。私は、一度姉に「どうして、お姉ちゃんはそんなに偉そうなの?」と聞くと姉は怒るでもなく、「おねえちゃんだから」と微動だにせず私を見ずに言った。私は一人っ子か男の兄弟がよかったなとその時思った。

親は、なんでも姉が基準で、習い事もそうだし(ピアノとそろばん)、中学生になったら、自動的に姉が通った塾に通わされた。高校も姉と同じところか、父の母校に行ってほしかったみたいだが、残念ながら、偏差値が足りず、違う高校にいった。

私が13歳になるころ、姉は大学生になっていて、バイトに励み、殆ど帰宅するのは、夜中だった。朝は私のほうが、早く出ていくし、もう全然会話をしないどころか、同じ部屋で勉強したり、寝ていたが顔をあわせることもなくなった。ある時本当にたまたま二人とも部屋でぼーっとしている時があって、姉はその頃付き合っていた彼氏がアメフトをやっていたので、「簡単にわかるアメフトのルールブック」なるものを読んでいたのを、たまたまみてしまったら、「こっちみんなよ。」といわれてしまった。

私が双極性障害になって、姉は、一人暮らしを初めて、どんどん二人の距離は遠くなった。姉は私が、双極性障害なのに、鬱病だと思っていて、元気なところしか見ていなかったので(いわゆる躁状態の時)なんだか変な提案をよくしてきた。「知り合いの喫茶店とかでバイトさせてもらったら?そうしたら、しんどい時は休めるやん」と言ってきたが、どこに知り合いの喫茶店があるのだろう?と思った。姉は自分に責任がないから適当なことをよく言った。私は16歳ごろから双極性障害になったが、姉は言い争いをする喧嘩は嫌がって逃げていたのでどんなことも全く解決しなかった。そのくせ、自分の言いたいことだけ機関銃のように言って自分の家に帰っていった。話をしないから、私が双極性障害だということも言えぬまま今日まできてしまった。そして、私も知らなかった発達障害も当然姉に伝わらないまま今日まできてしまった。

そんな関係になっていったとき、

姉がある日、私のリクルート鞄を貸してというので、貸したら、一年後ぼっろぼろになってかえってきた。もう本当にぼっろぼろなのに、すまして、謝ることもなく、返されて、自分で処分するしかなかった。私は呆れるしかなかった。

姉が大学生時代、紺のブレザーが流行って姉もブレザーを買って、着たおしていた。ちょうどバブルがはじける前くらいのころである。そして、バブルがはじけて何年か経った時、姉が上から目線で、「この。紺ブレあげるわ。」とありがたく思えみたいないい方で言ってきたが、もう誰も紺のブレザーを着ていないだろうと姉に言ってやりたかったのを、ぐっと飲みこんだ。

服のことでいえば、私は洋服を自力で買えるようになるまで、殆ど買ってもらっていなかった。全部おさがりだ。だから成人式の着物だけはおさがりは絶対にいやだった。姉は鯉みたいな黄色の振袖を買ってもらっていたが、私は最終的に赤にした。両親も5歳違いとはいえ、二枚も着物を買うのは大変だっただろう。だからか、帯は何色にでも似合うベースが黒のものを姉の時に買っていた。母は着付けの師範の資格をもっていて、多少なりとも着物に詳しく私が呉服屋さんで、絞りの着物がかわいいといったら、「しぼりは太ってみえるで」といってなにげに高い着物ををはぶいていっていた。その当時私は摂食障害で、がりがりだったが、自分ではふつうだと思っていた。着付けの時には着物の中にタオルをいっぱいまいて、ある程度全体的にふっくらさせたほうが、着物姿が映えるらしいので、タオルを巻くのも大変だった。成人式の時は母が着付けをしてくれた。そんな着物も10年くらい大事に保管していたが、成人式の日と写真の前撮りの時しかきなかった。それで、売ったが、二束三文で買い取られてしまった。

姉は、2年半ほど留学していたことがあるのだが、帰国後、留学かぶれしていた。時間にかなりルーズになり、英語で驚いたときに言うらしい、「Oops(ウップス)」を連呼していた。今、それを姉が思い出したら恥ずかしく感じるだろうなと思う。

姉は、留学中、あまりにも寂しくて、モルモン教の教会に通っていたらしく、ついには洗礼まで受けてきてしまった。(のちに心の支えがほしかった、支えになるなら、宗教でもいいやんと言っていたのでそれには私も納得していた。)だがその時は私はびっくりし、姉の帰国後を心配した。モルモン教は変な宗教じゃないのは、分かっていたからお金を寄付するとかは心配しなかったが、コーヒー、アルコールは飲んではいけなくて、暫くはコーヒーもアルコールも飲んでいなかった。帰国後暫くは、姉は聖書を熱心に読み、私にも神様はこうおっしゃってると聖書に付箋をつけて読ませようとした。なんだか怖かったが、1年もしないうちに、姉のもろい信仰心はくずれていった。それは、私をホッとさせたが、洗礼を受けてから、信仰をやめたら、バチがあたるのではと、私のほうが心配してしまった。

留学先の大学を無事卒業できると決まった時、お金の問題か、それとも父は姉の留学にあまり賛成していなかったからか、母だけは口にだして、卒業式にいきたかったわあと言っていたのを覚えている。いまでこそいうが、母を一人で旅行になんて危なくて行かせられない。実家に帰省して、再び帰る時、電車に乗る方向を待ちがえたりして私もぼーっとしていられないのだ。話はとんだが、姉も両親に卒業式にきてほしかったみたいだが、病気の私を一人日本に置いていく、3人で行くという選択もなかったみたいだ。姉はそのことを仕方ないと思ってくれていたが、心の底では、私さえ病気でなければという思いがあり、それからの私達の関係に大きくひびいた。

姉が留学中、当時はFAXのやりとりをしていたが、自分の誕生日に家族が誰もおめでとうと言ってくれなかったのが、悲しかったと書いてきたことがあった。私は、自分のことで精一杯で、気が付いてあげられなくて、しまったと思ったが、父は、「いい大人が誕生日くらいで何言ってんねん。」という態度だったので、私はそれは悲しかった。

帰国後、留学中のアパートのシェアメイトだった姉のお友達が、関東から(うちは関西)わざわざ姉のところに遊びにきてくれていたのだが、その中の一日になぜか、私と両親もつれだって、心斎橋のかに道楽に行くことになった。お友達は初対面のうちの両親がいるから多少なりとも緊張していただろうが、食事は楽しく終わった。そして会計ももちろん父持ちだった。すんなり払って外にでたのだが、父が姉を店先の端に呼んで、「なんで俺がお前の友達の分まで払わなあかんねん。」と信じられないようなことを言っていた。姉も姉で、父にちゃんとお礼をしないで、「この場合お父さんが払うのが当然やろ」と言い返していたので、そばにいたお友達にも聞こえていただろうから恥ずかしく思った。その頃の私は若かったので父が、彼氏がレジでは自分がお金を払うが、お店から出たら、彼女に「3000円頂戴。」という、いい恰好しいの人みたいだと思った。それ以降、そんなことは一度もなかったし、孫が生まれたら、回転寿司だが食べろ食べろというタイプの人だったようなきがするが、あの時父はどうして、かに道楽でけちろうとしたのか、今となっては、私には知る由もない。

ある時私は、友達の結婚式の二次会に来てと言われたのだが、社会人生活を送ったことがないので、だれの結婚式も披露宴も二次会も出席したことがなかったから、着ていく服がなかった。姉が最近冠婚葬祭用のワンピースを買ったことを知っていたので、それを借りようと電話することにした。でも、新しいワンピースを姉が貸してくれるか、新しいのを貸したくないっていわれるかもと覚悟して電話した。そうして、電話すると、貸してあげるといい返事がかえってきた。今度持っていってあげるといってくれたので、やったーと思っていたら、持ってきてくれたワンピースは10年以上前に買った、私も10年以上前から持っていることを知っているワンピースだった。一応着てみたら、姉が「むっちゃかわいいやん、似合う、似合う」とどの口が言っているのだろうと思った。流行遅れもいいところで、普段着にも_着られないワンピースだった。

わたしは、貸したくないなら貸したくないとはっきり言ってくれれば、そりゃそうだろう、自分も数回しかきていないのだから貸したくない気持ちは分かると思っていたので、電話した時点で、貸してくれるかドキドキしていた。まさかの展開に気持ちは少しの怒りと悲しみでいっぱいになった。姉があんな嘘つきで、私に恥をかかせようとしていたことに。あれで、悪気がないなら、少しおかしいよなあと思った。

そして、姉が帰っていったあと、父にワンピースを着た姿をみせたら、顔をしかめて「うーん、買ってやるわ」、とあっさりと言ってくれた、そのとき、自分でも、ノースリーブのワンピースだったので、ボレロと鞄を買って、ばっちりの体制で二次会にいけた。

だが、姉は、ワンピースを私が父に買ってもらったことを知って、激高した。「なんで買ってもらうねん!ちゃんとワンピース貸してやったやろ!」といわれたが、私が怒られるすじあいではないと、もう割り切っていたので、姉が怒っているときに口を挟んだら余計に怒られるので、黙って聴いていた。

ドレスの件でもう一つ思い出すのが、法事のためにお寺に家族と親戚が集まった時、姉がいつものように遅れても動じない歩き方で、お寺に最後にきたのだが、服を見てん?と思った。法事だから、黒いワンピースを着てきていたのだが、スカートの部分がチュールスカートで、どちらかと言えばめでたい席で着るような華やかなワンピースだった。これは、結婚式にヴィトンやシャネルのバッグをもっているか、スーツにグッチかなんかのスニーカーを履いているような完全に着る場所を間違っていた。私の例えも微妙だが、つまりはTPOに合っていなかった。だが、その恰好に誰も何も言わなかった。誰かが何か言えば絶対喧嘩になるからだ。私もそれを察して、言いたい気持ちは全開だったが黙っていた。私なんて、冠婚葬祭用の服、喪服もなかったので、スカートは黒、上は白のセーターを着ていたが、まだ自分のほうがましだなと思った。いつから、姉と自分を比べるようになったのだろう?今、ふっと思った。

時は経ち、姉が就職した。姉の会社では姉は韓国と台湾によく出張に行っていた。その時第一次韓流ブームで、お土産に韓流スターのアルバム(CD)を買ってきてくれることもあった。だが、ある時家族4人でご飯を食べているときに当時知らなかったコーチというブランドの大きなケータイストラップを買ってきたと言い、「1万円したけれど、今月誕生日やから5000円で売ったるわ。」と姉が言ってきて、5000円の知らないブランドのケータイストラップなんていらないし、誕生日ならちょうだいよと思ったが、姉のゴリ押しにまけて、私は5000円を姉に渡した。この時ばかりはこの人どうかしてると思った。

さらに時は経ち、姉が妊娠し、出産したので、出産祝いに、姉の家に母と行った。退院一週間後のことだった。友達には、姉妹なら出産時に病院に行くべきだろうと言われたが、そんなものなのか「普通」というものはと思ったくらいだった。私は、冷たいと思うかもしれないが、甥っ子が生まれても特に喜びはなかった。家に行っても赤ちゃんはずっと眠っていたし、2時間くらいで帰りたくなった。一応出産祝いをわたし、ちょうどその前に私は何年かぶりの北海道旅行に行っていたので、お土産を渡したら、それはチョコレートで、姉は一人でバクバクた食べながら「そういえばはる組にお土産をもらったことないな」と言われたので、思った。旅行に行っていないんだからお土産を渡せるわけないじゃないかと。それに行っていたとしても、離れて暮らしていたので、お菓子とか気軽にあげられるものも賞味期限の問題で買えなかったと思う。あとわたしは環境がかわると、調子を崩すという厄介な体質だったので、あまり旅行に行けなかった。子供の頃も母の実家に新幹線にのって行っていたが、1週間位しかいなかったので、従妹と仲良くなるのもお互い人見知りだったので帰る一日前か2日前だった。

姉はよく旅行に行っていたが、夏休みに2週間ほどタイにいったりしていたが、実家に帰ってこないので、私もお土産をもらっていなかったなと思った。

しかし、お土産をもらった時があった。甥っ子が大きくなって、姉親子はディズニーランドに行って、その後うちによって、家族にお土産をくれた。だが、私にくれたものは、スマホに変えてだいぶんたっていて、それを姉は知っていたのに、ガラケーに着けるケータイストラップをくれた。親にはきっちり使えるようなものをあげていたのに、私だけいつ使うんですか?というものだった。その時「お姉ちゃん、私を嫌いですか?」と思った。

その後も、何にもない日に、ピンクの私の年齢にはどうしても似合わないニット帽を嬉しそうにくれたが、母に被ったところをみせたら、捨てた。

甥っ子のことだが、子育て絶賛中は、2歳ころに初めての嫌々期があることを全然教えてくれなかったのに、そんなこと当たり前だろうと言わんばかりに、「なんで泣かすねん。」と怒られたこともある。

あと、どうやら実家に帰ってきた時だけ、お風呂の浴槽にお湯をはっていたようで、甥っ子はものすごく喜んで、シャワーももっともっとと言っていたので、節約するのはいいけれど、他人のうちでやるのをやめてほしかったし、甥っ子が可哀そうとちょっと思った。

あと、よく耳にしていたことがあった、嫁に行った娘が久しぶりにお正月に帰省し、実家の冷蔵庫のものをそれとなくもって返ろうとするということをやろうとしたのも許せなかった。私は車の免許を持っていないし、うちに車もなかったので、自転車か徒歩でしか買い物にいけなかったので、こつこつと、ペットボトルを4,5本ずつ買っていたので、車で普段買い物をする姉にもっていかれるのは、すごく嫌だった。出産以前は31日に来て、1日に帰っていた姉だが、出産後31日にきて、4日くらいまで泊まっていて甥っ子が暴れるので、もう我慢ができなくて、私は外出した。年始に友人と会うことがしばらくなかったので、ストレス発散はできたが、私はどうやら、子供が苦手みたいだ。

あと、甥っ子が色鉛筆で、フローリングの床にお絵かきをしたので、私は、消えないと思ってすごく怒ったら、姉が「そんなに怒らなくてもいいのにねえ。」とわが子にいいながら、私に「消しゴムで消えるやん。」と言って消しだしたが、私は一言謝ってほしかった。

姉が息子を怒っているのを見たのは、一度くらいだ。ずっと大切につけていたダイヤモンドのネックレスのチェーンを引っ張られて、ちぎれてしまった時は、今までの優しさはなんだったの?と思った。

年末年始にお鍋をして、最後に雑炊をするのがうちの定番だったが、その雑炊の残りを姉に「明日の朝に食べ。」と言われた時は信じられなかった。残飯を食べなさいと言われているようだった。母は捨てていたし、父もそれを望んでいなかったので、一体どうしたらそんなことになるのだろうと思った。いじわるで、言ってるのではないのが分かったので余計に怖かった。だがそういうお宅もあると後から知って、外では言わないほうがいいと思った。

姉が車を買った時、今まで行ったことがなかったファミレスに行こうと姉に言われたので私もファミレスに行ったことがなかったので、喜んで姉の車の運転で行こうという誘いにのった。だが、二人ともファミレスの名前やマークが分からなかったので、カーナビにコーヒーカップのマークがあるのをたどっていった。多分ここでコーヒーが飲める!とはりきりながらも迷いに迷い、私がコーヒーカップのマークではなく、なんとなく見覚えがある桃のマークを見つけて、「あれだ!」と言って、これで、コーヒーが飲めるとお店に車を駐車した。そこは、バーミヤンというファミレスだった。二人とも緊張して入ったら、中華料理が安価で食べられたので、姉も「いくらでも食べていいで。おごったるわ。」と言ってくれてコーヒーも飲まずに中華をお腹いっぱい食べた。、美味しかった印象が今でも残っている。

だがそれからバーミヤンに行ったことはない。

また違う日にどこかへ(どこかは忘れた)行こうと姉が私を誘ってくれたのだが、カーナビがなかったら、行き先にいけない姉のカーナビが壊れていて、ケータイのナビガイドというのを使っていくことになった。私が姉にケータイを向けて、ナビゲーターをしろと、無茶を言ってきた。私は、車を運転したことがないのにケータイを見ながらあっちだこっちだと言えないのに、姉にちゃんとしてよと言われ、車を運転すると人格が変わるタイプの姉に結局怒られながら、行った覚えがある。高速を何回も降りそこねて、姉のイライラは絶頂だった。こんなことだったから、どこに行ったのか覚えていないのかもしれない。

姉とはここ10年会っていない。父が救急車で病院に運ばれた時に病院であった時を最後に電話も行き来もしなくなった。その時、姉が驚くことを言った。まだ父の容態が安定していない時に、「明日、プールに行くから書類を書くの早くしてよ。」と言ったことだ。甥っ子はまだ祖父の状態が分からない幼い子供だったので仕方ないが、姉は冷たい人だなと思った。姉は外ずらはよくて、父も外ずらがよく、二人とも「いいおねえちゃんやね。」、「やさしそうなお父さんやね。」といわれていた。だが、最近気がついたが、私は昔から愛想がなく、昔から言うが(今も言うのかな?)「女は愛嬌」というように、その愛嬌がなかったと思う。発達障害のせいで、表情が乏しいらしい。わたしは、挨拶はするのだが、顔が無表情の人に挨拶されても、相手側も自然に微笑めないだろう。

姉は、家族には厳しいなあと思うことがある。母の実家は関東なのだが、年老いた母を夜行バスで、実家に連れて行ったことがある。私の歳でも夜行バスはきついのに、母は姉に何も言えないので、新刊線に乗っていきたいところを、お金がかかるからと言われたら、別に姉が母の分を出すわけでもないのに、そうだねと言ってしまう母なのだ。

そういうふうに姉はうまいこと母を突いてくる。

そんなこんなで、甥っ子も今は中3になったらしい。

私からしたら、甥っ子の成長が早いので、特に小さい時は保育園の運動会で、甥っ子がどこにいるか分からなかった。だが、6年間保育園の運動会には行った。保育園の運動会というのは、親でないと見てられないつまらないものだが、私は、姉の命令で、甥っ子の写真をデジカメでいっぱい撮った。帽子に名前が書いてあったので、それで甥っ子を発見できていた。姉と会わなくなって、甥っ子の誕生日、クリスマス、お正月に大きな出費はなくなったが本当はちょっとほっとしている。あと、男の子が欲しがるものがいまいち分らなくて、5歳くらいまでは、姉から指定された絵本を買っていた。絵本がすごく高いことを知って一瞬誕生日に会わない方法はないかなと思うこともあったが、こんなところでケチっていたら、叔母の名がすたると思い絵本を買っていた。プレゼントをあげたら、喜んでくれたので、やっぱり買って良かったと思った。

姉とのことで、いやな思い出が残っているのは、姉とお互い10代で分かれ分かれに暮らすようになったからかもしれない。それと、新しい家族ができれば、新しい家族のほうが優先されるから、結婚して疎遠になった友達と思うようにしている。

もう姉とは一生今のままの関係かもしれない。

子供を産む前は、たまに私が一人で入られないような高級なレストランに連れて行ってくれたり、今では信じられないが、徳島の大塚国際美術館も含めて、私の知らなかったところへ車で旅行に連れていってくれたりした。

姉の車の助手席に座ることで助手席に乗る人間のマーナーも教えられた。

いい思い出もあるから、私は姉と昔撮った写真を捨てられない。思い出にしがみついているわけじゃないから、私は私の道を行くが、いつかまた、姉の好きなコーヒーが700円くらいするおしゃれカフェでおしゃべりできたらいいなと思う。その時はずっとおごってもらってばかりだったから私がコーヒー代を払おう。(当たり前?)

  • 0
  • 0
  • 0

おすすめのタグ

はる組

こんにちは。 懸賞応募と海外留学などのエッセイを読むのが趣味です。 発達障害で困ることも沢山ありますが、どうよろしくお願いします。

作者のページを見る

寄付について

「novalue」は、‟一人ひとりが自分らしく働ける社会”の実現を目指す、
就労継続支援B型事業所manabyCREATORSが運営するWebメディアです。

当メディアの運営は、活動に賛同してくださる寄付者様の協賛によって成り立っており、
広告記事の掲載先をお探しの企業様や寄付者様を随時、募集しております。

寄付についてのご案内