
その先生が、私が20代半ばになった時フィリピンの日本人学校の校長先生になる試験を受けて受かり、フィリピンにいたのですが、私はその頃仲が良かった友達と、ノリでフィリピンの先生のところにお邪魔しようとして、連絡をとったら、いいよと言ってくれたので、早速飛行機のチケットを取ってフィリピンに行くことになりました。しかし、その時運が悪く台風が来て
飛行機は遅延して、既に私たちは、搭乗手続きをしおわっていて、売店もないところで、6時間ほど椅子にすわっておなかをすかせながら、飛行機が飛ぶことを祈っていました。この時を逃せば、もうフィリピンに行く機会がないと思ったので、必死に祈りました。そして、なんとか出発することができて、フィリピンに着陸しました。その間、私の父と先生で、私達がどうなっているのか連絡をとっていたようで、心配をかけました。まだその頃、ケータイ電話を持っていなくて、私達も家族とも先生とも連絡をとれていなかったのです。空港についたら、先生がにこやかに出迎えてくれながらも、心配したぞと何時間も空港で待ってくれていました。私もほっとしたところ、私のスーツケースをどこかへ運ぼうとしたフィリピン人らしき人 がいたので、慌てて引き戻そうとしたら、その人は先生の運転手で、車に積んでくれようとしてくれていました。先生も運転手さんも英語がたどたどしくて、いつもどうやって、コミュニケーションをとっているのだろうと思いました。フィリピンの公用語は、フィリピノ語と英語らしく、運転手さんは、日常会話やメディアで使われるフィリピノ語のほうが達者みたいでした。空港は観光客を待っているタクシーが多く、とても私が一人で行っていたら、無理矢理タクシーに乗せられていただろうと思います。先生の住んでいる家は、フィリピン人以外が住んでいる外国人居留地で、外国人パスがないと門で警備をしている警備員に止められそうな勢いでした。だから、私と友達は、先生と出かける以外フィリピンの街を出歩くことができませんでした。先生の奥さんが、屋台のジュースをご馳走してくれたのですが、先生が汚い水で作ったかもしれないそんなジュース_飲ますなと奥さんを怒っていました。インフラがまだ整っていなかったフィリピンで、食事をとるのは危ないなと思いました。でも、夜ごはんくらいは、フィリピン料理を屋台とかで食べたかったなと思いました。先生はフィリピン料理を信じていなくて、滞在中一切フィリピン料理を食べさせてくれませんでした。唯一トロピカルフルーツのマンゴーを食べさせてもらえました。でもまあ、食べ物が売っていないマーケットで、私の好きな食器を買うことができたので、満足でした。一日目の夕飯後、どこかに行くか?と先生が言いましたが、なにも下調べをしていなかった私達は、先生のおすすめの場所に連れて行ってほしいと言いました。すると、日本人男性がよく行くフィリピンパブに連れていかれ、先生はフィリピン人のホステスさんとチークダンスを踊っていました。私は知らない、言葉も通じないホステスさんの相手をするのが、地獄でした。しかも、そのホステスさん達は、日本人学校に行っている子供のお母さん達で、わたしは、先生に幻滅しました。子供たちの父親は、日本の企業の日本人駐在人で、日本にちゃんとしたもう一つの家族がある男性で、駐在期間が終わったら、もう二度とフィリピンに行かないし、フィリピンの妻や子供に会わないのです。妻のほうは、日本語が話せないので、男性に騙されて、また帰ってくるといわれますが、待てどくらせど、帰ってこないので、日本人学校に行けてる子供たちは、日本の弁護士を通して、男性に認知させて、フィリピンの日本人学校に行けるように手続きして、教育を受けているみたいです。男性側は、日本の家族にばれたくないので、認知するしかないみたいです。当然ですが、日本人の恥だなと思いました。このような細かい話を知ったのは、後々のことで、フィリピンの日本人学校には、日本人の両親が揃っている子どももいますが、日本人とフィリピンの間の子どものことをフィリピーノというそうです。次の日もほぼ、マーケットや食べ物の屋台に行けず、夜まで何をしていたのか覚えていません。結局夜は、食事は焼き肉を食べて、今夜はどこに行く?と先生に聞かれ、私達は揃って、フィリピンパブ以外にしてくださいと言いました。そして、私が、飛行機のチケットを一日取り間違えてつぎの日には帰らなくてはいけないことが分かりました。3泊のつもりが、2泊になってしまいました。そして、その夜はどこに行ったかというと、スターバックスに行きました。そこに、フィリピン人はほぼおらず、西洋人ばかりでした。東洋人もまばらでした。まだ、日本にスターバックスがなかったのか、大阪になかっただけなのかは、分かりませんが、初めて行くスターバックスで飲んだものは、パフェみたいなアイスクリームが乗っているコーヒーパフェで、私は、目をキラキラさせて、そのパフェを食べました。
次の日の朝先生は、生ものは国外へ持っていってはいけなかったのですが、マンゴーをたくさん持たせてくれました。そして、日本とマニラの飛行時間は、6時間で、飛行機で、食事はでましたが、朝早かったので、お手伝いさんが、おにぎりを作ってくれて、朝ごはんとして持たせてくれました。
そして、先生の出勤時間より私達の出国のほうが遅かったので、ドライバーさんに車に乗せてもらい、先生を先に私たちが、学校に送りました。教師は、白いシャツを着なくてはいけないらしく、一昨日のフィリピンパブでの、先生とは違い、聖人みたいでした。人って変わるものだなと心底思いました。ちなみにフィリピンには、世界遺産に、文化遺産が、3つ、自然遺産が2つあるそうで、そういうところに行きたかったです。