昼夜を問わず鳴り止まないサイレン、安眠を妨害する暴走族のエンジン音、終わりの見えない建設作業と解体の轟音。筆者の生活する環境では静寂は贅沢品と言っても過言ではない。窓を閉め切っても、重低音は壁を揺らし、安らぎの時間は無情にも奪われる。これは単なる「うるさい」という不快感ではない。確実に心と身体を蝕む、見過ごすことのできない健康被害である。
この記事では、住環境における騒音が健康にもたらす影響について、自らの体験と科学的裏付けに基づく視点からアプローチしていく。自分には無関係と思う人も、ある日突然居住地域の環境が激変する可能性があるので油断はできない。事実、筆者も経験者だ。あるいは引っ越し先を選ぶ際に環境を見極めることの重要性に気付けるかもしれない。
今回は簡潔かつ分かりやすく説明していくので、最後まで読み進めてみて欲しい。
1. 見過ごされる「音という暴力」- 騒音が心身を蝕むメカニズム
常に騒音に晒される環境は、人間から「安心できる場所」という感覚を奪い、心身を常に臨戦態勢に置く。突然の大きな音は、人間の原始的な防御メカニズムである「戦うか逃げるか」という本能的な反応を引き起こす。 これにより交感神経が優位になり、心拍数や血圧が上昇する。 この状態が日常的に繰り返されることで、自律神経のバランスは崩れ、慢性的なストレス状態に陥るのだ。
ストレスを感じると、脳は副腎に指令を出し、ストレスホルモンであるコルチゾールを分泌させる。 騒音環境への長期的な曝露は、このコルチゾールの分泌量を増加させることが分かっている。 コルチゾールは本来、身体の危機に対応するための重要なホルモンだが、過剰な分泌が続くと免疫力の低下や、心身へのさらなる負担を招く。 筆者自身も、この環境に住み始めてから経験するようになった原因不明の動悸や不安感は、まさにこの自律神経の乱れが引き起こしている症状なのだろう。
2. 心臓を脅かす轟音 – 深刻化する心血管疾患リスク
騒音と健康に関する研究で、最も多くのエビデンスが蓄積されているのが心血管系への影響だ。ヨーロッパでは、騒音は健康に影響を及ぼす環境要因の中で、大気汚染に次いでリスクが大きいと認識されている。
近年の研究は、その深刻さをより具体的に示している。ドイツとフランスで行われた研究では、都市の騒音が心臓の健康に悪影響を及ぼす可能性が示された。 特に、従来は心疾患リスクが低いとされていた50歳以下においても、騒音レベルが高い環境に住むことで急性心筋梗塞のリスクが有意に増加する可能性が指摘されている。 さらに、急性心筋梗塞を経験した患者が騒音に晒され続けると、その後の予後にも悪影響を及ぼすことが示唆された。 ある研究では、夜間の騒音レベルが10デシベル増加するごとに、心臓突然死や心筋梗塞の再発といった主要な心血管リスクが25%も増加することが明らかになっている。
航空機騒音も同様に深刻で、騒音が10デシベル増すごとに心血管疾患による入院リスクが3.5%増加するという報告もある。 これらの疾患は、騒音による慢性的なストレスが血圧や心拍数を上昇させ、血管の内皮機能障害や酸化ストレスを引き起こすことが一因と考えられている。
3. 静寂を奪われた脳 – 認知機能と子どもの発達への脅威
騒音の脅威は、心臓だけに留まらない。脳機能、特に認知能力にも深刻な影響を及ぼすことが分かってきた。デンマークで行われた約200万人を対象とした大規模な追跡調査では、車や鉄道の騒音に長期間さらされることが、認知症、特にアルツハイマー型認知症の発症リスクを高めると結論付けている。 幹線道路沿いに住む人は、そうでない人に比べて認知症になりやすいという報告もあり、交通騒音と大気汚染の複合的な影響が懸念される。
特に懸念されるのが、子どもへの影響だ。騒がしい環境は、子どもの言語発達の妨げになる可能性がある。 大人は会話の途中で音が遮られても、文脈から内容を補完できるが、言語能力が未熟な子どもにはそれが難しい。 騒音の多い環境では、子どもは物の名前を正確に覚えることができず、言語能力の向上が望めないという実験結果もある。 さらに、保育園や幼稚園の室内が反響しすぎると、先生の指示が聞き取れず、子どもが落ち着きをなくしたり、トラブルの原因になったりすることもあるという。 胎児期からの騒音曝露が、その後の認知機能に与える累積的な影響についても研究が進められている。
4.「聞こえない」脅威 – 低周波音という新たな問題
さらに近年、問題視されているのが「低周波音」による健康被害だ。 これは、通常の騒音計では捉えにくい100Hz以下の低い周波数の音で、「ゴー」「ブーン」といった唸り音として感じられることが多い。 エコキュートや大型空調機、風力発電施設などから発生し、人によっては不眠、頭痛、めまい、吐き気、圧迫感などの身体的症状や、イライラ、気分の落ち込みといった精神的症状を引き起こす。
低周波音の問題は、その音圧が従来の騒音測定方法では過小評価されがちで、被害の実態が正確に把握されにくい点にある。 そのため、原因不明の体調不良に悩む人が、実は低周波音の被害者であったというケースも少なくない。
まとめ 静穏な環境は基本的人権である
耳栓や防音窓といった個人レベルでの対策には限界がある。騒音問題は、個人の我慢で解決すべきものではなく、公衆衛生の観点から社会全体で取り組むべき喫緊の課題と言えるだろう。
道路構造の工夫(遮音壁の設置、低騒音舗装)、交通規制、改造車両の取締り、そして都市計画の段階から騒音に配慮した土地利用を徹底することが不可欠である。 実際に、沿道に緩衝建築物を配置したり、建築物の構造に防音上の規制を設けたりしている自治体も存在する。
静かな環境で心穏やかに暮らし、健やかに眠る権利は、決して贅沢ではない。それは、人間が人間らしく生きるために不可欠な、基本的な権利のはずだ。この鳴り止まない騒音の中で、配慮を得られない人々が、今日も心と身体をすり減らしている。この深刻な現実から、私たちは決して目を背けてはならない。
参考文献・資料について
騒音問題はしばしば軽視される傾向にある。この記事で言及した内容についても、筆者の個人的な感想と思われる可能性があることを懸念している。そのため、根拠となる学術論文や公的機関の報告書をいくつか示すことにした。読者の皆様がより深く理解するための参考資料として活用してもらいたい。
参考文献・資料リンク
以下に、騒音が健康にもたらす影響に関する主要な研究論文や報告書へのリンクを掲載する。英文かつ専門的な内容だが、要約(Abstract)を読むだけでも研究の概要を把握することができるので、必要に応じて活用して欲しい。
総括的なガイドライン
- WHO Environmental Noise Guidelines for the European Region (2018)
世界保健機関(WHO)がまとめた環境騒音に関する包括的なガイドラインである。 交通騒音、風力タービン騒音、レジャー騒音などが健康に与える影響について、数多くの研究をレビューし、具体的な推奨基準値を示している。
- 掲載元URL: WHO Publications
騒音と心血管疾患(心筋梗塞・脳卒中など)
交通騒音が心筋梗塞や脳卒中などのリスクを高めることは、多くの大規模な疫学研究で示されている。
- “Road Traffic Noise and Incident Myocardial Infarction: A Prospective Cohort Study” (2012)
デンマークで行われた大規模なコホート研究で、住宅地の道路交通騒音への長期的な曝露が、心筋梗塞のリスク上昇と関連していることを示した。 騒音が10デシベル増加するごとに、心筋梗塞のリスクが12%も増加したと報告されている。
- 掲載誌: PLOS ONE
- 掲載元URL: https://doi.org/10.1371/journal.pone.0039283
- “Transportation Noise Pollution and Cardiovascular Health” (2024)
交通騒音と心血管疾患に関する複数の研究を統合・分析(メタアナリシス)した論文である。道路交通騒音が虚血性心疾患、心不全、脳卒中のリスクを増加させる確かな証拠があると結論付けている。
- 掲載誌: Circulation Research
- 掲載元URL: https://www.ahajournals.org/doi/10.1161/CIRCRESAHA.123.321637
- “Aircraft Noise and the Risk of Stroke: A Systematic Review and Meta-analysis” (2017)
航空機騒音と脳卒中リスクに関する複数の研究を分析したレビュー論文である。航空機騒音が10デシベル増加するごとに、脳卒中のリスクが1.3%増加する可能性を示唆している。
- 掲載誌: Deutsches Ärzteblatt International
- 掲載元URL: https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5443994/
騒音と認知機能(認知症・子どもの発達)
騒音は、特に認知症のリスクや子どもの認知能力の発達に影響を与える可能性が指摘されている。
- “Residential exposure to transportation noise in Denmark and incidence of dementia: national cohort study” (2021)
デンマークの約200万人を対象とした大規模な全国コホート研究で、道路交通や鉄道の騒音への長期的な曝露が、認知症、特にアルツハイマー病の発症リスク上昇と関連していることを発見した。
- 掲載誌: The BMJ
- 掲載元URL: https://www.bmj.com/content/374/bmj.n1954
- “The Influence of Noise Exposure on Cognitive Function in Children and Adolescents: A Meta-Analysis” (2024)
複数の研究を統合し、騒音曝露が子どもや青少年の認知パフォーマンスを損なうことを明らかにしたメタアナリシスである。
- 掲載誌: International Journal of Environmental Research and Public Health
- 掲載元URL: https://www.mdpi.com/1660-4601/21/5/535
- “Does noise affect learning? A short review on noise effects on cognitive performance in children” (2013)
騒音が子どもの認知能力に与える影響についてのレビュー論文。特に航空機騒音への慢性的な曝露が、読解能力の低下と関連していることを指摘している。
- 掲載誌: Frontiers in Psychology
- 掲載元URL: https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2013.00578/full
低周波音と健康被害
通常の騒音計では捉えにくい低周波音であっても、健康に様々な影響を及ぼすことが懸念されている。
- “Low-Frequency Noise and Its Main Effects on Human Health—A Review of the Literature between 2016 and 2019” (2020)
低周波音が引き起こす健康影響に関する近年の研究をまとめたレビュー論文。不快感や睡眠障害、心血管疾患、高血圧などとの関連が報告されている。
- 掲載誌: International Journal of Environmental Research and Public Health
- 掲載元URL: https://www.mdpi.com/1660-4601/17/3/728
- “Health effects from low-frequency noise and infrasound in the general population: is it time to listen? A systematic review of observational studies” (2016)
低周波音と健康影響に関する観察研究を体系的にレビューした論文である。低周波音源の近くに住む人々において、不快感、睡眠関連の問題、集中困難、頭痛との関連が観察されている。
- 掲載誌: Science of The Total Environment
- 掲載元URL: https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0048969716304338