大学病院に入院したのは、10日間くらいだった。リハビリも4回くらいマッサージみたいなのをやる程度だった。転院する日、スーツケースの中身がなぜか多くなっていて、優しく接してくれていた看護師に最後、スーツケースの上に乗ってもらって、無理矢理閉めてもらった。看護師もあたしならできる自信があるといって、閉めてくれた。
余談だが、私が入院した病棟の看護師は、皆美人だった。採用基準に容姿端麗も入っているのではないかと思うほど美人揃いだった。師長さんもマダムといいたくなるような品と余裕があった。
リハビリ病院に転院すると、裏玄関で担当看護師がまっていた。昨年改築したわりには、売店もATMもない病院だった。時はすでに12月で、MRIがある地下1階は、暖房がついておらず、すごく寒かった。だが、確かにきれいな病院ではあった。その年の8月に日射病で、運ばれた病院だとは、全く気が付かなかった。
リハビリ病院には、若い患者は殆どいなかった。いても、すぐに退院していった。談話室は、食事の時に認知症の老人が集められていて、カオス状態だった。1日だけ私もそのカオスで食事をしたが、次の日からは、病室で誰にも見られることなく、食事をゆっくり食べられた。毎食、看護師と介護士が温かい食事を運んでくれた。
入院してすぐは、ベッドで寝ているか、車椅子に座っているか以外は、トイレ以外テープが敷かれた線から出てはいけなかった。これは、私が、術後すぐでうろうろしそうなので、病院側が、私がなるべく動かないように敷いたものだった。そのテープには電気が流れていて、テープを踏んで超えるとナースステーションにテープを踏んだ合図の音が鳴るようになっていた。そうすると近くにいる看護師が、私のところに来て、動かないでくださいと怖い顔で注意してきた。私は歩けないので、自分の足でテープをまたぐことができなかった。だからすごく拘束されている気持ちになった。他の人はそんなことされていなかったのに、なんでわたしだけ?と思い、精神病院みたいだなと思った。リハビリ病院の特に介護士は、見た目もあれだが、患者へのあたりも強かった。患者の数に対して、スタッフの数が足りていなくて、みんなカリカリしていた。談話室で食事をしている人達は、ごはんを完食する時間も長くかかるし、歯磨きも介助が必要な人が大勢いて、洗面台が談話室に4つしかなかったので、みんな順番待ちだった。
支えを押してトイレに行けるようになるまで、トイレをしているところを見られて、監視されていた。立ち上がる時に転ぶ人がいるから、転ばないように立ち上がるところを、じっと見られていて。ものすごく嫌だった。支えの棒もトイレにはついていたし、男性の看護師や介護士が監視するときもあった。そういう気持ちの問題は、無視する病院だった。
入院二日目から、リハビリがはじまったのだが、まずされたのは、先に書いた電気の通るテープを引くことだった。最初は、ベッドに寝た状態で、右足のマッサージをそっとする程度だった。
リハビリは、1日3回毎回40分が基本で、朝、一番に自分のリハビリをする人が、その日のスケジュールを持ってきてくれて、あとは、理学療法士か作業療法士が來るのを待機して、リハビリを午前中に一回、昼ごはん後、2回リハビリをこなした。1週間くらいで、電気のテープの私が動ける範囲が広がったが、窮屈なのは変わりなかった。また1週間たったころには、電気のテープがなくなった。4人部屋で、洗面台があったので、テープがなくなったあとは、まだ車椅子だったが、歯を磨くとか顔を洗うとかの時に、介助はいらなくなった。テープがあった時は、洗面台に行くのにもナースコールが必要で、毎回遠くから「はーい、まってくださーい!」と言う介護士達の声が聞こえてから、10分くらい待たされた。
私を担当して、責任者でもある理学療法士と作業療法士は、どちらも女性で、特に30代であろう作業療法士さんは、(主治医は女医)目をかけてくれた。どちらの療法士も男女全員に殆ど一度はリハビリについてもらった。途中貧血で、自己血輸血をしなければいけなかった時に、最初に採血したのだが、なかなか針が刺さらなくて、肩に近いところが痛くなって、それを訴えると、(私は、看護師の腕がないと思っている)痛みはそのままだったが、作業療法士の男性がきた。肩回りを施術してくれた彼は、フィギュアスケートの羽生結弦さんにそっくりで、リハビリ中よっぽど似てますよねって言いたかったが、みんなに言われてそうなので、やめた。そして、彼は最後に真顔で、またご指名があれば呼んでくださいと冗談を言って去っていったが、私がその作業療法士にリハビリをしてもらったのは、3か月の入院中その一回だけだった。
歩く練習用の機械を支えにしたら、ゆっくりだが歩けるようになって、リハビリ室に行ってリハビリをするようになった。ドラマで見たことがある、両脇の鉄棒を持って、必死に歩いた。最初は、両脇の棒を持たなければ全く歩けなかったが、だんだん、片方だけ持つだけで歩けるようになった。そして、病院の杖を借りて歩けるようになった。だが、歩けると言っても、右足を引きずって歩く期間が退院まで続いた。毎日、ナースステーションを中心に病棟の廊下が丸くなっていたので、暇なときに病棟をぐるぐる歩いた。最初は、3周くらいしか歩けなかったが、退院前には、5周歩いて、そのまま立ったまま休憩してまた5周歩けるようになった。
担当の作業療法士さんが、お風呂に入る時に背中が自分で洗えないだろうからと、自費で100均に行って背中を洗える長い棒が付いたスポンジを買ってきてくれた。とても嬉しかったので、入院中は、ありがたく使おうと思った。その他にも、リハビリ中に小説の話をしていて、私が勧めたエッセイを読んでくれて、感想まで言ってくれた。そして、私に小説を貸してくれた。テレビはあったが、3か月もテレビを観続けたら、お金がどれだけかかるか分からないので、知らない作家の小説だったが、3冊ほど借りた。4冊目は途中で、退院することになってしまったのだが、その作業療法士さんが、本をくれると言ってくださったが、そこまで甘えてはと思い丁重にお断りした。もし読みたくなったら、買えばいいやと思った。
お風呂は、大浴場みたいなのものがあり、週3回開放されるが、一人ずつ入れないのと、寝た状態で浴槽にいれられる機械で他人が入った浴槽に入るのが嫌だったので、お風呂に入るのを拒否したら、無理矢理看護師が私のスーツケースを開けて、パジャマとタオルを出そうとしたので、やめてください!と私は怒った。その日は、看護師も諦めたが、あの体験は非常に怖かった。次の入浴の日には、違う介護士がお風呂に入ったら気持ちいいよと言ってきて、浴槽に入らないでシャワーだけなら入りますと言って入浴することになった。介護士は、私がシャワーを浴びているときは、シャワーがあるところまで介助してくれた後は、あまり私を見ないように浴槽を掃除していた。リハビリ室で、元の生活に戻るのに、冷蔵庫の冷凍室を開けるとき、冷凍室が一番下だったので、しゃがんで親指で立とうと思って、親指に力をいれたら、ものすごく痛かったので、私は思わず、ぎゃーと叫んで一瞬で立ちあがった。そうしたら、その作業療法士さんは、私が叫んで、すぐにたちあがったのが、つぼだったらしくお腹を抱えて大笑いした。私は、そんなに面白いですか?ときいたら、だってだって・・・と笑いが止まらなかった。
リハビリ病院には、若い患者は殆どいなかった。いても、すぐに退院していった。談話室は、食事の時に認知症の老人が集められていて、カオス状態だった。1日だけ私もそのカオスで食事をしたが、次の日からは、病室で誰にも見られることなく、食事をゆっくり食べられた。毎食、看護師と介護士が温かい食事を運んでくれた。
入院してすぐは、ベッドで寝ているか、車椅子に座っているか以外は、トイレ以外テープが敷かれた線から出てはいけなかった。これは、私が、術後すぐでうろうろしそうなので、病院側が、私がなるべく動かないように敷いたものだった。そのテープには電気が流れていて、テープを踏んで超えるとナースステーションにテープを踏んだ合図の音が鳴るようになっていた。そうすると近くにいる看護師が、私のところに来て、動かないでくださいと怖い顔で注意してきた私は歩けないので、自分の足でテープをまたぐことができなかった。だからすごく拘束されている気持ちになった。他の人はそんなことされていなかったのに、なんでわたしだけ?と思い、精神病院みたいだなと思った。リハビリ病院の特に介護士は、見た目もあれだが、患者へのあたりも強かった。患者の数に対して、スタッフの数が足りていなくて、みんなカリカリしていた。談話室で食事をしている人達は、ごはんを完食する時間も長くかかるし、歯磨きも介助が必要な人が大勢いて、洗面台が談話室に4つしかなかったので、みんな順番待ちだった。
支えを押してトイレに行けるようになるまで、トイレをしているところを見られて、監視されていた。立ち上がる時に転ぶ人がいるから、転ばないように立ち上がるところを、じっと見られていて。ものすごく嫌だった。支えの棒もトイレにはついていたし、男性の看護師や介護士が監視するときもあった。そういう気持ちの問題は、無視する病院だった。
入院二日目から、リハビリがはじまったのだが、まずされたのは、先に書いた電気の通るテープを引くことだった。最初は、ベッドに寝た状態で、右足のマッサージをそっとする程度だった。
リハビリは、1日3回毎回40分が基本で、朝、一番に自分のリハビリをする人が、その日のスケジュールを持ってきてくれて、あとは、理学療法士か作業療法士が來るのを待機して、リハビリを午前中に一回、昼ごはん後、2回リハビリをこなした。1週間くらいで、電気のテープの私が動ける範囲が広がったが、窮屈なのは変わりなかった。また1週間たったころには、電気のテープがなくなった。4人部屋で、洗面台があったので、テープがなくなったあとは、まだ車椅子だったが、歯を磨くとか顔を洗うとかの時に、介助はいらなくなった。テープがあった時は、洗面台に行くのにもナースコールが必要で、毎回遠くから「はーい、まってくださーい!」と言う介護士達の声が聞こえてから、10分くらい待たされた。
私を担当して、責任者でもある理学療法士と作業療法士は、どちらも女性で、特に30代であろう作業療法士さんは、(主治医は女医)目をかけてくれた。どちらの療法士も男女全員に殆ど一度はリハビリについてもらった。途中貧血で、自己血輸血をしなければいけなかった時に、最初に採血したのだが、なかなか針が刺さらなくて、肩に近いところが痛くなって、それを訴えると、(私は、看護師の腕がないと思っている)痛みはそのままだったが、作業療法士の男性がきた。肩回りを施術してくれた彼は、フィギュアスケートの羽生結弦さんにそっくりで、リハビリ中よっぽど似てますよねって言いたかったが、みんなに言われてそうなので、やめた。そして、彼は最後に真顔で、またご指名があれば呼んでくださいと冗談を言って去っていったが、私がその作業療法士にリハビリをしてもらったのは、3か月の入院中その一回だけだった。
歩く練習用の機械を支えにしたら、ゆっくりだが歩けるようになって、リハビリ室に行ってリハビリをするようになった。ドラマで見たことがある、両脇の鉄棒を持って、必死に歩いた。最初は、両脇の棒を持たなければ全く歩けなかったが、だんだん、片方だけ持つだけで歩けるようになった。そして、病院の杖を借りて歩けるようになった。だが、歩けると言っても、右足を引きずって歩く期間が退院まで続いた。毎日、ナースステーションを中心に病棟の廊下が丸くなっていたので、暇なときに病棟をぐるぐる歩いた。最初は、3周くらいしか歩けなかったが、退院前には、5周歩いて、そのまま立ったまま休憩してまた5周歩けるようになった。
担当の作業療法士さんが、お風呂に入る時に背中が自分で洗えないだろうからと、自費で100均に行って背中を洗える長い棒が付いたスポンジを買ってきてくれた。とても嬉しかったので、入院中は、ありがたく使おうと思った。その他にも、リハビリ中に小説の話をしていて、私が勧めたエッセイを読んでくれて、感想まで言ってくれた。そして、私に小説を貸してくれた。テレビはあったが、3か月もテレビを観続けたら、お金がどれだけかかるか分からないので、知らない作家の小説だったが、3冊ほど借りた。4冊目は途中で、退院することになってしまったのだが、その作業療法士さんが、本をくれると言ってくださったが、そこまで甘えてはと思い丁重にお断りした。もし読みたくなったら、買えばいいやと思った。
もとの生活に戻るのに、リハビリ室の冷蔵庫の一番下の冷凍室を開けるのに、私は、しゃがんで親指に重心をかけて、しゃがもうとしたら、あまりにも痛くて、思わずぎゃーと叫んでしまった。そうしたら、作業療法士の彼女が、つぼに入ったらしく大笑いした。私が、そんなにおかしいですか?と言うと「だって、だって・・・」と言って笑いが止まらなかった。その後、真ん中の冷蔵室を私が開けたら、彼女のステンレスボトルが入っていた。私は、それを見て、思わず「ステンレスボトルを冷蔵庫に入れても意味ないじゃないですか。」とこの人は天然だなと思い笑った。彼女も、「他にしまうところがなくて・・・・」と笑った。
お風呂は、大浴場みたいなのものがあり、週3回開放されるが、一人ずつ入れないのと、寝た状態で浴槽にいれられる機械で他人が入った浴槽に入るのが嫌だったので、お風呂に入るのを拒否したら、無理矢理看護師が私のスーツケースを開けて、パジャマとタオルを出そうとしたので、やめてください!と私は怒った。その日は、看護師も諦めたが、あの体験は非常に怖かった。次の入浴の日には、違う介護士がお風呂に入ったら気持ちいいよと言ってきて、浴槽に入らないでシャワーだけなら入りますと言って入浴することになった。介護士は、私がシャワーを浴びているときは、シャワーがあるところまで介助してくれた後は、あまり私を見ないように浴槽を掃除していた。
のちのち、シャワールームでシャワーすることになってからも、3回は、あの面白い担当の作業療法士さんが、シャワールームの脱衣所でちゃんと私がよろけず座ってシャワーできるか、チェックされてから、やっと一人でシャワーを浴びることができた。同性とはいえ、人に入浴中を見られるのにだんだん慣れてきた。あと、知らない人が座っている椅子に座らなければいけなかったが、監視がなくなったら、立ったままシャワーを浴びた。
ある日病室が、ナースステーションから遠い病室に変わった。どんどん新しい患者が入ってくるので、杖で歩ける患者は、ナースステーションから遠いところにうつされた。良かったことは、シャワールームと、洗濯機が近くなったことだ。私は、週2回シャワーに入り、洗濯も着替えと使ったタオルをその時に2回洗濯していた。あと、この病院には、売店がないのと、私には、お見舞いに来てくれる家族もいなかったので、洗濯用洗剤がなくなりかけていたので、週2回の洗濯はちょうどよかった。
この病院では、最初に管理栄養士が、嫌いな食べ物を聞いてくれて、私は、ひじきとがんもどきが苦手ですと言ったら、他のものが出てきたが、豆類も嫌いな私は、ひじきとがんもどきの代わりに豆類(鳴門金時とグリーンピース)が出てきた時は食べられなかった。朝ごはんに出てきていた、苦手なプリンもゼリーに変えてもらった。あと、朝ごはんに温野菜が出てきたが、それがキャベツで、これも臭いか臭くて、食べられなかったので、ゆで卵に変更してもらった。塩やマヨネーズはなしであったが。
理学療法士や作業療法士は、男女ともに若い人が多かった。カルテに住所が書いてあって分かるはずだが、「どこら辺に住んでいるんですか?」と聞いてきたりして、頑張って話しかけてくれた。理学療法士1年生の男性は、自分が広島出身だということを、同部屋の患者全員に言っていた。きっと話すことが苦手なんだろうなあと思った。
退院が近づくと、私の部屋の間取りを聞いてきた。そして、私の家を理学療法士と作業療法士が見て、足が悪くても生活しやすいよう、何が必要か見にいきたいと言われたが、タクシーで家まで行かなければいけなくて、患者で知り合いになった人が、私の家の近くの人で、タクシー代が1万円くらいかかったというのを聞いたのと、自分の部屋を見られたくないという思いで、家に来るのは止めてほしいと言った。結局無理には行きませんよと言われたが、私はそのころこたつでご飯を食べたりしていたので、テーブルと椅子を買うようにいわれた。最初は冗談だと思ったが、手術がアメリカ式なので、洋風な生活をとりいれなければならなかった。もし、今でもこたつだったら、自力で立ち上がれないで苦労していただろう。テーブルや椅子は、ネットで検索して、めぼしいものを見つけていたが、自分の家にどのくらいの大きさのテーブルが入るか分からなかったので、退院後すぐに注文しようと思った。作業療法士さんも、私の家を見たことないものの一緒に選んでくれた。寝るのも布団であったら、ベッドを買ってくださいといわれたが、こちらはもともとベッドだったので、買わずにすんだ。
他に、お風呂に入るのに、シャワーを浴びるところに大きな椅子をひとつ、浴槽に入った時に足を延ばせて、立ち上がれるように小さい椅子をひとつ買わなければいけなかったが、国からお金が出て、無料で、揃えられた。そして最後に、杖を購入することになって、こちらも国からお金が支給されたのと、介護会社のサービスで賄えることができた。
この年は、お正月をリハビリ病院で迎えた。年越しそばは食べられず、年越しうどんだった。しかもまずいうどんで、こんなまずいうどんは食べたことがないと思えるうどんだったが、何回か食べるうちに、慣れてきて、食べられないこともないと思うようになったが、夜中に介護士達が年越しそばをシフトが終わったら食べようと廊下で言っているのが聞こえて、少しは声を落として話しなさいと思った。消灯は9時で最初はこんな時間に眠れないわと思ったが、毎日強制的に電気が消されたら、2時間後には寝れるようになった。
元旦は気持ちお正月っぽい食事だったが、病院でお正月を迎えるなんてついていないと思った。早く退院して、うな重が食べたいとその頃から食欲がわいてきた。入院当初は、食欲がなくて、殆ど食べられなかった。最初は、苦手なものばかり食事に出てくるから食べられないのかなと思っていたが、体調がまだよくなっていなかったのだ。