伊達政宗(だて まさむね)を
裏切りながら政宗から赦され、
再び仕え、「忠臣」となった男
福島県・大内定綱(おおうち さだつな)
ライナス

二本松氏、蘆名氏に仕えるも
待遇の悪さにガッカリ…。
再び伊達家に仕官しようと
話を持ち掛けたら…。
まさかのOKが!
小手森城の真偽はともかく、定綱はこの政宗の所業に驚き、本拠の小浜城を放棄して二本松の義継のもとへ逃れます。しかし伊達氏は追撃を緩めることなく、ついで二本松領を攻撃し、これを降伏させました。定綱はここにも居場所がなくなり、会津の蘆名氏を頼りました。しかし、蘆名氏は盛氏の頃のような武田、上杉氏などの紛争調停[注4]などを取り仕切っていた時の隆盛は失われており、佐竹氏や上杉氏などの周辺勢力の調略や圧迫を受け、大名勢力としての存在を失いつつありました。その一方で、伊達氏は天正13年11月17日(1586年1月6日)の人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)では劣勢ながらも、佐竹氏が形成した「反伊達連合軍」の侵攻を奇跡的に食い止め、南奥羽統一の足掛かりを築きます。
恐らく定綱もこの戦いに従軍したと思われますが、具体的な記録は残っておらず、伊達勢の奮戦ぶりを見て、佐竹氏や蘆名氏に将来性が感じられないという気持ちが定綱に徐々に宿っていき、伊達氏にもう一度帰参しようと考えたと思われます[注5]。
折しもこの時、蘆名氏の当主の亀王丸が僅か3歳で疱瘡(ほうそう)で死去するという一大事が起き、後継者を巡って伊達氏から養子を取るか(因みにこの時の伊達氏の養子の候補が政宗の弟の小次郎⦅こじろう⦆[注6]であったと言われています。)、佐竹氏から養子を取るかで家中が二分し、結局は蘆名氏の重臣の「四天王」筆頭の金上盛備(かながみもりはる)の鶴の一声によって、佐竹氏の当主佐竹義重(さたけよししげ)の次男で白河結城氏(しらかわゆうきし)の養子を前々当主の蘆名盛興(あしなもりおき)の娘に婿入りさせることで当主とすることに決まりました(この次男は蘆名義広⦅あしなよしひろ⦆を名乗ります。)。
しかしこの結果、佐竹氏の家臣団が蘆名家に流入し、家中は佐竹派と反佐竹派で二分され、これまでの混乱にますます拍車がかかってしまうという非常事態となってしまいました。このことによって定綱は厚遇されていた立場から一転して、「かつて伊達氏に仕えていた危険因子」とみなされるという、とばっちりと冷や飯を食う事態に陥ってしまいます。
恐らくこのことによって、蘆名氏に仕える気持ちが完全に醒めてしまったのでしょう。それでも、天正16年(1588年)の郡山合戦(こおりやまかっせん)の際には蘆名氏の部将として苗代田城(なわしろだじょう)を攻略しますが、政宗の従兄弟で重臣の伊達成実(だてしげざね)が伊達氏に帰参するように話を持ち掛けてきたので、定綱は誘いに応じて弟の片平親綱(かたひらちかつな)と共に伊達氏に再び帰参することを決めたのでした。
何故このタイミングだったのかと言うと、話を持ち掛けてきたのが政宗の従兄弟の成実で、政宗とは気の置けない間柄だったというのもありますが、恐らく親綱のいる片平城(かたひらじょう)が政宗の会津攻略に必要な要地であることや塩松の浪人衆(大内氏や二本松氏の旧臣)が伊達氏に反抗を続けていることを知って、政宗と有利な条件で交渉できるのではないかと踏んだと思われます。更に定綱の没落後に塩松に入った石川光昌(いしかわみつまさ)の謀反の風聞もありました(実際に石川は定綱の帰参後に相馬氏の誘いを受けて謀反を起こしています。)。
その 結果、定綱は天正16年3月に帰参を認められた代わりに旧領復帰ではなく、伊達氏の本拠地に近い伊達郡(だてぐん)や長井郡(ながいぐん)に所領を与えられました。
なお、蘆名氏からの軍事的圧力から一旦は帰参を見送った親綱も翌天正17年(1589年)3月には本領安堵の上で帰参しましたが、これを知った蘆名義広によって人質にされていた定綱・親綱兄弟の母が殺されています。この義広の行為を「ヒドイ!」と思われる方も読者の中にいるかと思われますが、義広もここで厳しい処断を下さなければ、ただでさえ混乱している家中が乱れ、完全に統制が利かなくなってしまうリスクを考えての事だったと思われます。また、定綱、親綱兄弟も小勢力ながら戦国の世に生まれた武人であり、自分たちの生き残り策の為にはこのような犠牲が生まれることもやむなし、と冷静ながら非情な決断をしていたと思われます。
・[注4 ]この時に蘆名氏の使僧(しそう)として活躍していたのが、後に徳川家康(とくがわいえやす)の側近として名高い南光坊天海(なんこうぼうてんかい)であったといわれていますが、天海自身の前半生の記録が書かれた1次資料が無く、蘆名氏に仕えていたかどうかについては、歴史学者や研究者の間でも議論が分かれています。
・南光坊天海について 謎多き僧侶・南光坊天海が徳川家康に重用された理由とは? #どうする家康
・[注5]定綱が伊達氏への帰参を考えたきっかけについては、輝宗殺害から伊達氏に徹底抗戦してきた二本松氏が伊達氏に攻められて降伏したことも要因の一つではないかと筆者は思います。前述したように定綱は自分の娘を二本松氏の嫡男の国王丸(後の二本松義綱)に嫁がせていたのですが、定綱と同じように蘆名氏の下に逃れてきたので、二本松氏に嫁がせた意味が事実上消滅してしまい、家名の存続や維持のために自分自身が別の勢力につく必要性が生じたためだと筆者は考えています。
・[注6] 政宗の弟の小次郎(幼名は竺丸⦅じくまる⦆と言われています。)についてはあらゆる形での1次資料が無く、政道(まさみち)と名乗っていたと言われていますが、確かな資料には記録されておらず、その生涯全般において信憑性が疑わしい資料から生涯の謎を紐解いていかなければならないというのが、今現在の戦国史研究の大きな課題ではあります。
政宗に再び仕えてからは
まさに水を得た魚!
智勇兼備の武将として
八面六臂(はちめんろっぴ)の
活躍で伊達家臣団に
なくてはならない存在に!
こうして定綱は再び政宗に仕えることになったのですが、成実はともかく政宗の胸中はまだ複雑なものがあったようです。そのため、政宗は定綱に本気で伊達家に仕えるという証として、蘆名氏の家臣団に調略を仕掛け、内応や裏切りを誘うという、なかなかにして厳しい任務を与えます。並の武将なら尻込みしてしまう内容ではありますが、これまで周辺勢力に調略や工作、謀略を仕掛けて勢力を拡大させてきた定綱にとってこれは得意分野。二つ返事で快諾した定綱は早速蘆名家臣団に対して工作活動を開始します。
すると、義広が連れてきた佐竹氏の家臣団がかなり横暴だったようで、古参の蘆名氏の家臣たちは会議や合議でも末席扱いで冷や飯を食う扱いを受けていました。その状態で一度政宗を裏切っておきながら再び伊達家の家臣となった定綱の言葉にはかなり説得力が高かったようで、重臣の猪苗代盛国(いなわしろもりくに)を皮切りに、安子島治部(あこがしまじぶ)などの家臣たちを次々と寝返らせることに成功します。
定綱のこの調略と工作に焦った義広は乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負に賭け、1589年7月17日(天正17年旧暦6月5日) に摺上原の戦い (すりあげはらのたたかい)を仕掛けたのですが、事前準備から様々な工作を定綱から献策されて、それを実行していた政宗はあらゆる場面で伊達家に有利な状況を展開し、遂に戦で蘆名氏に勝利するのでした。
この戦いで定綱は伊達家に仕えて日が浅く、しかも一度裏切った過去を持っているにもかかわらず、伊達軍の左翼先鋒と言う激戦必至のポジションに配置されます。
何故政宗はこのポジションに定綱を配置したのでしょうか?これもやはり定綱のことをまだ完全に信用しきれず、敢えて最前線に投入して定綱の腹が固まったのかを確かめたかったのもあると思いますが、恐らく後続の部隊にもし定綱が裏切った場合に備えて、定綱を攻撃するための部隊を配置していたのではないかと筆者は考えています。そうすることによって、万が一定綱が裏切った際に味方の被害を最小限にとどめるための策を政宗は施していたのだろうと筆者は予想しています。
もし軍事についてあまり知見がない方ならば、このような策を「ヒドイ!」とお思いになるかもしれません。ですが、重ね重ね申し上げるように、この時代は戦国時代。敵味方が裏切り、裏切られるのが日常茶飯事の時代であったため、基本的にはどの大名勢力も敵対勢力から寝返りしてきた武将たちは基本的に戦の場合は最前線に立たされて、後続に裏切った際に攻撃させるための部隊を配置されて、退路を断たれて戦っていたのです。それが戦国の世の偽らざる実態でした。
このような状況で並の武将なら臆してしまうところですが、定綱は武勇においても南奥羽切手の武辺者。特に槍術(そうじゅつ)に関しては東北全土に名をとどろかせるほどであったといいます。
この状況に定綱は勇躍奮戦。家宝の十文字槍を奮い、並み居る蘆名氏の軍勢に挑みかかり、戦果を挙げる働きを成し遂げました。
こうして定綱は伊達氏の復帰戦を華々しい勝利で飾ったのでした。この定綱の働きは政宗に大変喜ばれただけではなく、家臣団にも一目置かれることになったのでした。こうして定綱は、伊達家中で、戦に長け、工作や調略、謀略にも長けた「異能の武将」として、なくてはならない存在となっていくのでした。
伊達氏の「影の部分」を
担える側近として活躍!
かつての宿敵の娘の護衛も
率先して担う忠勤ぶり!
こうして政宗だけでなく、伊達家中から一目置かれるようになった定綱は、戦での手柄だけでなく、「伊達家の『謀略』担当」として、その価値をいかんなく発揮していきます。それについては豊臣秀吉が定めた「惣無事令」(そうぶじれい)によって奥州だけでなく、日本国内での大規模な戦が禁止されたことが大きく影響していることが言えます。
その結果、小規模な勢力の武力衝突を大規模勢力への抵抗・反抗と見せるための「演出」のための「工作」や「謀略」が重要になり、武辺者一辺倒が多い伊達家中の中で自然と定綱の価値と重要性が高まっていきました。特に天正18年(1590年)の葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)については、政宗と定綱のコンビによる謀略であると筆者はみています。
まず伊達勢に一応臣従していた土豪勢力や国人衆たちに蜂起を焚き付け、ケイオスに導き、秀吉が赴任させた新領主の木村吉清(きむらよしきよ)の統治能力に疑問を抱かせ、「伊達家でなければ奥羽は任せられぬ」と言う雰囲気を豊臣政権内に醸成させ、吉清の領地を得る、と言うのが政宗と定綱が描いた謀略のプランであったかと思います。
しかし、その過程で秀吉側に政宗の工作を密告する者たちが相次ぎ、あっけなく工作がバレた政宗は自ら焚き付けた一揆勢力の鎮圧を率先して行うというマッチポンプ行為を行いました。勿論この場には武勇に秀でた、と言う理由だけではなく、一揆の発生の真相のもみ消し行為として定綱が従軍し、鎮圧に多大な貢献をしました。このような行為を豊臣政権下で政宗はたびたび行い、秀吉にド派手ないでたちや手の込んだ言い訳、開き直りなどの弁明を行い、秀吉に何とか許される、といったことを幾度も行っています(鶺鴒の花押の言い訳が有名です。)。それも、定綱という謀略と工作に長けた家臣がいたからではないか、と筆者は思っています。
伊達政宗が豊臣政権時に使用していた花押。鳥の鶺鴒(セキレイ)に似ていることから鶺鴒の花押と呼ばれている。
その後秀吉が天下統一を成し遂げ、天正19年(1591年)、政宗が岩出山城に転封されると、定綱は岩手の胆沢郡に20邑余(およそ10,000石)の所領を与えられ、前沢城主となりました(因みに政宗の腹心で、「小十郎」の異名で名高い片倉景綱⦅かたくらかげつな⦆が凡そ13,000石なので、定綱が政宗からいかに信任されていたかが伺えます)。
更に、定綱は京都伊達屋敷の留守居役(るすいやく)という重要な役目を与えられました。この任務は京都にいて、大名などとの交流を取り次ぐ「外交官」としての役目で、まさに「心から信任できる部下」にしか出来ない仕事でした。それだけではなく、政宗の正妻である愛姫と息子の秀宗の警護も任せられました。これを定綱は承諾し、上方の重要な情報を伊達家に伝達する貴重 な重臣としてだけでなく、 政宗の息子と正妻を護る「忠臣」としてその存在をゆるぎないものにしました。
これに政宗は少し驚きの表情であったと言われています。というのも前述したように大内氏と正妻の実家である田村家はライバル関係どころか、幾度も干戈を交えてきた仇敵の間柄で、定綱がこれをすんなり承諾するとは政宗も思っていなかったようです。この定綱の行動は、政宗だけではなく、伊達家中全員が定綱の事を完全に「信任」に値する人物である、ということを承認される結果となりました。
内政、外交、軍事、謀略…。
伊達家に多大な貢献をもたらした
定綱にも最期の時が…。
こうして定綱は京都留守居役や愛姫、秀宗の警護を務めながら、天正20年(1592年)に始まった文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)に伊達勢として従軍し、主に日本軍の前線への補給や兵站(へいたん)を担い、日本軍の進軍や撤退行為に貢献しました。
このように波乱万丈な人生を歩んできた定綱にも、容赦なく老いが訪れます。それを定綱自身も感じ取っていたのでしょう。関ヶ原の戦いから翌年の慶長6年(1601年)、伊勢の僧侶であった宗禅泰安(そうぜんたいあん)を興化寺の再興開山として迎え、興化山寶林寺(こうかざんほうりんじ)と改名して定綱自身の菩提寺(ぼだいじ)としました。
その後の記録は残されてはいませんが、恐らく息子の重綱に家督を譲り、伊達家の家臣たちに自身の伊達家の働きぶりを伝えるだけでなく、伊達家の歴史の記録などの編纂事業にも参加していたものと推察されます。
慶長15年(1610年)、激動の人生を歩んだ定綱は65歳でその生涯を終え、前沢の小沢に葬られました。死因については、病気や障害などの記録がないことから、恐らく老衰によるものと推察されます。
定綱の功績がたたえられ、
大内氏は「一族」の家格を
与えられる!
こうして定綱は亡くなりましたが、伊達家は定綱のこれまでの功績を重んじて、「伊達」の姓を名乗ることも許される「一族」の家格を息子である重綱に与えました。所謂「外様」出身で、しかも一度伊達氏を裏切っていた定綱の息子に「一族」の家格を与えることはなかなか思い切った決断ではありましたが、家中では特に反対といった言葉は聞かれず、大内氏には「一族」の家格が与えられました。
また、それに伴い、「一族」の「屋敷」も与えられました。大内氏の「屋敷」は「仙台屋敷」と呼ばれ、現在の宮城県仙台市青葉区片平1丁目2のすべてを与えられました(ちなみに隣接する片平1丁目3は晩年に政宗の最側近となった茂庭綱元⦅もにわつなもと⦆の屋敷でした。)。
その後大内氏は登米郡西郡所(とめぐんにしぐんしょ)に領地をあてがわれ、子孫は幕末まで仙台藩士として存続しています。南奥羽出身の大名や豪族はその多くが断絶の憂き目にあいましたが、定綱の大内氏は奇跡的にも家名を存続させることに成功しました。そこには定綱の多大な尽力と、家名を残すための数々の奮闘が、大きく刻まれていました。
まとめ
今回は福島県出身の大内定綱を取り上げてみました。戦国時代についてはほとんどが大名のことばかりを取り上げる傾向が未だに強く、その下に仕えている武将や独立勢力などについてはあまり取り上げられず、筆者自身もそのことについて語る機会がないといった忸怩たる思いを抱えていましたので、これを機会に取り上げてみようと思い立ち、本稿を執筆してみました。今回のコラムはいかがだったでしょうか。コメントなどで感想をいただけると幸いです。
それではまた次回のコラムでお会いしましょう!ライナスでした!