私が、子供の頃読んだ小説で、一番心に残っている作品は、「二十四の瞳」(1952年発刊)です。作者は、壷井 栄(つぼい さかえ)という女流作家です。この漢字の雰囲気から、男性の作家だと、長い間思い込んでいました。こんな繊細で、女性や子供目線で描かれた小説を男性が書いているのはすごいと勝手に思っていました。この作品を読んで胸を打たれましたが、彼女の他の作品は読んでいません。小説はいろんな作家の作品を数冊ずつしか殆ど読んでいませんでした。なぜかというと、一人の作家のある作品が面白くても、違う作品は面白くないということが多々あったからです。この作品を読んだ時、ぜひ映画化してほしいと思いましたが、すでに、1954年に映画化されていて、その後、1987年に再映画化されましたが、この作品も知りませんでした。その後、私の知る限り、映画化はなく、この2本だけです。
ドラマ化は、調べがつかないほど何回もされているようで、そのうち、2本観ました。しかし、主人公の小学校の女性教師のキャストが、どちらもミスキャストでは?と思いました。一本目は、2005年放送の黒木瞳が先生役でのドラマでした。小説を読んだ時のイメージに全然合いませんでした。まさか、瞳つながり?と思ってしまうほどでした。年齢も先生は20代で、素朴なかんじでしたが、黒木瞳は、お金持ちのイメージともうすでに年齢も40代ではなかったであろうかと思ったからです。
この小説は、一人の小学校教師と12人の生徒達の楽しくもあり、苦しくもある戦中戦後のお話です。先生は、昭和の初め、東京の学校を出て新任の教師として、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の分校に赴任してきました。学校まで、当時では珍しかった自転車通勤をしていて、他の先生には女性がスカートを履いて自転車に乗るなんて、はしたないと言われていましたが、先生は、気にしませんでした。先生の名前は、大石先生でしたが、担任を持った1年生のクラスの子供たちには、先生の背が低いので、小石先生と言われていました。黒木瞳の身長は、163センチらしく、テレビで見ている分には、身長が大きいなどの違和感はありませんでしたが、先生の呼び名は、ドラマ内では変更されていました。月日は流れ、1年生だった子供たちも6年生になります。6年生では、小学校最後のお楽しみの修学旅行がありましたが、お金がなくて修学旅行に行けない子供もいました。私が胸が痛んだのが、修学旅行に行く代わりに、小学校を卒業したら、都会へ奉公に行くという約束を親とした子どもたちの表情でした。厳しい奉公へ行くことより、修学旅行へ行けることの嬉しさのほうが勝って、晴れ晴れとしたなんの後悔もない笑顔でした。
私は、こどもだったので、物語はなんでもハッピーエンドで終わると思い込んでいて、これは、大石先生が修学旅行に行けない子供たちの旅費を出してあげるんだななどと思っていました。話が進むにつれ、そんな甘い話はなく、大石先生は、自分がなにもできないことに、胸を痛めていました。
やがて、戦争の影が色濃くせまってきて、教え子たちも次々に兵隊にとられていきました。そして、次々と戦死の知らせがくるのでした。もともと小豆島は小さいので人口も少なく、戦争に取られる人数も少ないのですが、それゆえに、戦死した男性の名前や顔を皆が知っていて人一倍悲しみが大きく辛いものでした。
戦争が終わり、大石先生は、小豆島に戻ってきました。大人になった教え子の一人が、伝染病にかかり、家畜が住むような小屋に閉じ込められていることを知りました。大石先生は、うつるかもしれないのも恐れず、教え子のそばに行き、声をかけます。その子の家は貧乏で、お医者にもかかれず、教え子は、なんで私だけこんな目にあうん・・・と涙しますが、先生は慰めることしかできませんでした。
その後、大石先生は、生き残ったかつての教え子たちと会うことになりました。戦死したもの、奉公先で亡くなったものがおり、12人全員が集まることはありませんでした。その中に、戦地で、目を怪我し失明した教え子がいて、その教え子がいないところで、同級生の女性が、「こんなことなら死んだほうがましやったかもしれんねえ」と大石先生の前で言ったら、大石先生が怒り、「生きているだけでも幸せやよ!」と思わず大きな声を出しましたが、教え子の女性が「本人が言っとったんよ。」と言うと、大石先生もそれ以上何も言えませんでした。
大石先生にはいつの間にか、夫がいることが作品を読んでいて分かるのですが、今でいう単身赴任で、夫は都会に住んでいて、戦時中も出征せず、多分生きて終戦を迎えたであろうと思われます。正直、この物語に、夫の存在はあまりいらず、この物語の主軸にほぼ絡まないかんじです。
ドラマでもう一本観たのは、2008年NHKで放送された「二十四の瞳」です。このドラマの主役の大石先生役の松下奈緒ほど、ミスキャストのものはないのではないかと思いました。それはなにかというと、松下奈緒の身長が、169センチらしいからです。テレビでうつっている彼女を見ていても、とても小さいとは言えませんでした。それ以外は、本人の年齢も当時23歳で、都会の風が吹く、子供たちと熱心に色々なことに取り組む先生という役どころをうまく演じ切っていましたが、やはり、大きすぎて、ドラマ中の大石先生のあだなは「泣きみそ先生」と呼ばれていました。
小説を読んでから、私も小学生の時に、香川県の小豆島に両親と行きました。丁度その頃、本州の岡山県から香川県に瀬戸大橋が開通して、私達は、大阪から岡山に新幹線で行き、渡りたかった瀬戸大橋を渡り、香川県高松市に行き、そこからフェリーで、1時間半かけて小豆島に行きました。子供の頃は、そんな長い時間かかった気がしませんでした。現在では、フェリーでの所用時間は1時間と短くなっており、高速船も出ているそうです。(高速船では、30分ほどで行けるそうです。)「二十四の瞳」で、修学旅行に行くシーンがあるのですが、大石先生と子供たちは、小豆島から船で2,3時間かけて岡山に行き、そこから汽車で大阪へ向かいました。大阪では、既に奉公に出ていた友達とたまたま再会することができ、みんなで喜ぶシーンがあります。しかし、私は貧しくて学校に行けず奉公に出されている子供を可哀そうに思いました。この小説で、初めて、「口減らし」という言葉を知りました。今では考えられない行為ですが、昭和初期の貧しい家庭では、よくあった習慣らしいです。子供だったので、そんなに貧しいなら、親も沢山子供を作らなければよいのにと、単純に思っていました。
小豆島に着いて、まず目に入ったのが、12人の子供たちと大石先生が幸せそうに戯れている銅像でした。子供が12人もいるので、結構大きくて物理的に迫ってくるものがありました。小豆島に行って、「二十四の瞳」の思い出はそれだけです。あとは、オリーブ作りが盛んな場所を見て回りました。後から知ったのですが、太秦映画村みたいな「二十四の瞳」のロケ地、「二十四の瞳映画村」と「壷井栄文学館」があるそうですが、私は何も調べずに小豆島に行ってしまったので、それらを全く見ていませんが、小豆島の観光名所になっているそうです。
私は、戦争映画や戦時中の映画やドラマをよく観るのですが、それは、もう戦争なんてこないと思っているからかもしれません。まさに、平和ぼけしているのかもと思う時があります。このような、時代に翻弄されて、厳しい人生を送らなければいけなかった人たちを可哀そうと思うだけではなく、戦争という愚かなことを繰り返してはいけないと、常に戒めの気持ちを持って生きていかなければならないのかもしれません。
現代も貧富の差や親の子供への虐待、私も持っている発達障害などの障害者の支援の少なさなど、政治家や有資格者しか変えられないことがいっぱいあります。もっと日本人もチャリティー活動や、ボランティア活動に精を出すべきだと私は思います。
「二十四の瞳」は、戦争や貧しさの中でも一生懸命生きる人達の姿を描いた素晴らしい作品だと思います。平凡に生きる人達が、戦争に巻き込まれて、貧しさに耐えられたのは、周りの理解ある大人や、優しい友達がいたからだと思います。
壷井栄のプロフィール
1900年(明治33年)8月5日生まれ
1967年(昭和42年)6月23日没(享年66歳)
出身地 香川県小豆島
女学校卒業後、教師を志すが、病気などで断念。結婚後に作家活動を本格的に始める。晩年まで、小豆島で暮らす。
作風の原点は、リアルな戦争体験を描いて、戦争の痛ましさや子供の幸せを願う教師や、戦争に夫や息子を送り出す妻や母親の視点で描かれている。


