日本のシンドラー杉原千畝・前編

日本のシンドラー杉原千畝・前編

1学生時代から外交官になるまで

私が日本人で海外で尊敬されている人物で、日本人があまり知らない尊敬されている人物の一人に杉原千畝がいる。私が、この人を知ったのは、子供のころテレビ番組でやっていた「知ってるつもり?!」という毎週世界の偉人を紹介する、伝記番組だった。

千畝は、5人兄弟の次男として、1900年1月1日に岐阜県に生まれる。幼少期から、外国語や異文化への関心が強く、学生時代は、沢山本を読み、特に歴史、地理、外国文化に興味を持ち、のちの外交官としての道に繋がった。地元の学校で学んだあと、早稲田大学高等師範部英語科(現:教育学部)に入学し、この時期、英語を中心に学ぶ。しかし、在学中に、ロシア語への興味を強く持ち、ロシア語を専門的に学びたいと考え、早稲田大学を退学(中退)し、東京外国語学校(現:東京外国語大学)を受験し合格する。そして、ロシア語を本格的に学ぶ。ここで外交官としての基盤を身につける。順調に勉学に励んだ千畝は、大学を卒業前に外務省の試験を受け、ロシア語の能力や国際感覚を買われて合格したため、卒業を待たずに大学を退学(中退)し、外務省に入省する。19歳で入省するが、5年間は、外交官候補生だった。候補生時代に、外務省管轄の中国のハルビンにある専門学校ハルビン学院に4年間留学し、ここで、ロシア語を中心に北京語、英語、と外交を学び、首席で卒業した。そして24歳で、外務省に正式採用される。明治から戦前の外交官は、華族や旧氏族の子息が大半で、一般庶民からなるのは、ほぼ不可能に近い時代であった。しかし、当時の日本は、英語やフランス語が出来る人はいても、ロシア語を流暢に話せる人は非常に少なかった。外務省は、ロシアや中国との交渉や情報収集に強い人材を求めていて、そこで、ロシア語を流暢に話せる千畝に白羽の矢が立ったのだ。父親は地方公務員で、安定した中流家庭であったが一般家庭であり、千畝の外務省入省は、能力と努力による「実力登用」だった。父親が教育を大切にする人であったため、千畝は勉学により励めたようだ。

外交官として、初めての赴任地は、満州(中国東北部)で、その後ヨーロッパ各地で勤務する。外交官っていったいどんな仕事をするのかなと調べたところ、当時は、ヨーロッパ勤務時代、ソ連や東ヨーロッパの情報収集(現地の政治や軍事、経済情報の報告などのスパイ的要素もあった)、外交儀礼(晩餐会や公式訪問)、外交交渉、現地の日本人保護などであったそうだ。現在の外交官の仕事は、千畝の時代とは少し違い、日本国民の安全と利益を守ることが最も重要で、国民の外交交渉、国益の保護(自国民の安全や権利の保護、海外でのトラブルの対応)、情報収集、分析、国連などでの発言・調整、公館運営、文化交流・日本の広報(ソフトパワー外交)などだそうだ。

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はる組

こんにちは。 懸賞応募と海外留学などのエッセイを読むのが趣味です。 発達障害で困ることも沢山ありますが、どうよろしくお願いします。

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