日本のシンドラー杉原千畝・中編

2ユダヤ人を救う為の選択

日本のシンドラーと呼ばれるきっかけになったのは、1940年にリトアニアのカウナス領事代理に任命され、赴任した時からだった。(リトアニアの公用語はリトアニア語のみだが、英語やロシア語も広く通じる)太平洋戦争が始まったころ、ドイツのナチス党がアーリア人種という人種を至上主義と掲げ、ユダヤ人を社会の敵とみなしだした。そして、反ユダヤ法という法律が発令されユダヤ人は、市民権をはく奪され、仕事や財産も制限された。ナチスの力が強くなるにつれて、ユダヤ人の迫害は、強まった。ユダヤ人たちは、自分や家族の命を守るためナチスの支配下の地域から国外に脱出するため、安全な通過ビザや国外退避ルートを確保できる国を求めて、各地の領事館に殺到した。

ここまできて、なぜユダヤ人がナチス・ドイツに迫害されることになったのかであるが、古代から中世にかけて、ユダヤ人は、紀元前から「唯一の神ヤハウェ(読み方:ヤーウェまたはエホバ)を信じる民族」として生きてきた。しかし、ヨーロッパではキリスト教が広まり、キリスト教徒の多くは「イエスを殺したのはユダヤ人だ」という誤った考えを信じたのが長い間ユダヤ人への敵意のもとになる。中世の頃、ヨーロッパでは、キリスト教徒が利息を取る貸金業が禁止されていたため、宗教で禁止されていなかったユダヤ人がその職に就くことが多くなった。その結果、貧乏人からお金を搾取する金持ちという偏見を持たれるようになった。そのため、不況の度に「ユダヤ人のせいだ」と他の宗教や民族の人達は、ユダヤ人に不況の責任を押し付けた。また、ヨーロッパの多くでは、ユダヤ人が住む場所や職業が制限されていたため、ユダヤ人達は、隔離された場所で暮らすことを強いられ、他民族からは、異質な存在と見なされた。そして、政治的不安が起きると「異分子」として虐げられるようになっていった。このような流れで、第一次世界大戦で敗れ、苦しい状況にあったドイツでは、人々が誰のせいでこうなったのかと怒りをぶつける相手を求めていた。ヒトラー率いるナチス・ドイツは、これを利用して、「ドイツが戦争に負けたのはユダヤ人のせいだ、ユダヤ人が世界を操っている」などと嘘の宣伝をし、国家ぐるみでユダヤ人を迫害・隔離・殺害するという大虐殺(ホロコースト)へと発展していったのだ。宗教から始まり、経済的な社会不安や戦争で、ユダヤ人は追い込まれていった。

もうひとつ分からなかったのが、

ヨーロッパの人々が、なぜ日本のビザがいるのかということだった。

調べてみると、当時、多くのユダヤ人はヨーロッパからアジア経由で安全な国へ脱出しようとしていた。1940年ころ、日本はまだ戦争初期で、ナチスと同盟関係にあったが、ユダヤ人の迫害は行っていなかったので、ユダヤ人にとって、通過するのに安全な国であった。日本領事館を通じて通過ビザを取得できれば、列車や船で最終的に安全なアメリカやオランダ領の東インドなどへ、移動できたのだ。

千畝がリトアニアのカウナス(首都ヴィリニュス)で、日本領事代理を務めていた最初の頃は、日本政府の基本的な考えは、ナチス、ドイツやソ連との関係をなるべく悪化させないようにすることだった。なぜかというと、1940年に日本は、「日独伊三国同盟」を結び、反ユダヤ主義政策を進めていたドイツとの関係を悪くしないために、日本政府は、同盟国であったドイツの政策に、公には逆らえない立場にあった。そして、ソ連との関係も微妙であった。当時リトアニアはソ連に併合されつつあり、日本もソ連領内での外交活動の制約が多くなり、またリトアニアよりの外交方針もソ連を刺激することになるので、日本政府はこれまた公にはソ連との関係を良好にしておきたかったので、難しい立場に立たされていた。日本政府は、ユダヤ人の迫害政策には直接関わっていなかったが、ドイツを刺激しないために、ユダヤ人に自由にビザを出すことは、日本政府の方針ではなかった。

しかし、リトアニアの日本領事館前には、ナチスの迫害を逃れてきた多くのユダヤ人が列をなし、ビザの発給を命がけで求めてきていた。千畝は、外務省に何度もビザの発給について電報を打ったが、外務省からは、最終目的地の入国許可証を持っているか、十分な資金を持っているものだけにしか正式なビザは発給してはならないという返答しか返ってこなかった。つまりアメリカなどへの入国許可を証明できない者には、ビザはだしてはならないという答えだった。しかし、現実には、避難民の殆どが「最終的目的地の入国許可証」も「十分な資金」も持っていなかった。千畝は、この状況を見て、「このままでは多くのユダヤ人が死んでしまう」と思い、「人道的見地」から独断でビザを発給する決心をし、最終的には、約2000通以上のビザを発給し、一通のビザで家族単位で有効だったため、(家族全員))実際には6000人ほどのユダヤ人が救われたと言われている。

千畝は、1日に百数枚ずつ、1か月近くビザを発給しつづけた。

朝から晩まで、夫人と共に書類を書き続けたという。ここで、ふと思ったのが、夫人がサインしたビザは有効なのか?であるが、ソ連に領事館退去命令を出された後、数名の現地職員以外の日本人職員は、本国帰還の準備で、ユダヤ人の命どころではなかった。最終的に千畝と夫人と幼い長男だけが残った状態で、夫人がタイプライターで名簿を打ち、旅券を整理し、最終的には、夫人の手でビザの清書を手伝ったと言われている。千畝家族しかいなかったのだから、夫人が書いていても夫人が書いた証拠はないので、あまり問題はなかったのかもしれない。夫人のこの行動は、千畝の考えに賛同したからであり、夫人の励ましにより、千畝はよりユダヤ人達を助けなければと思ったのであろう。(夫人は、千畝と出会う前中国に住んでいたことがあり、中国語は、通訳ができるレベル、ロシア語は筆記ができるなど、複数の語学を操ることができたそうだ。)

最後は、ソ連に領事館閉鎖を命じられ、退去する際も、列車の窓からビザへのサインを求めて追い掛けてくる、ユダヤ人から渡される書類にサインし続けたと言われている。

彼がなぜユダヤ人を助けるために、政府の命令に背きビザを発給したのか。

これに関しては色々調べた内容を書くことにする。

彼は特定の宗教に属していなかったが、幼少期から「困っている人を見たら助ける」という家庭教育を受けていたそうだ。もし、彼がキリスト教徒だったら、ユダヤ人達の運命は変わっていたかもしれない。そして、のちに外交官となって、外交官の職務である、情報収集や外交交渉のプロフェッショナルとなり、その職務の根底に、「国家の名において人を助ける」ということが使命であると感じた千畝は、「人を救うのが外交官としての最高の仕事」と考えたのだ。(戦前の日本の外交官は、国民一人一人のことより、国の威信や名誉を守ることが大きな使命であると教育されていたが、千畝はその当時から、外国の新しい考えを学び、国民あっての国だと考えていた。)

結果、千畝の行動によって、数千人のユダヤ人が命を救われ、その子孫達は、感謝を込めて、このビザのことを「杉原ビザ」と呼んでいる。

千畝は自身の保身など一切考えず、今では当たり前の宗教差別や人種差別は許されないということを何十年も前に考えていたのだ。

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はる組

こんにちは。 懸賞応募と海外留学などのエッセイを読むのが趣味です。 発達障害で困ることも沢山ありますが、どうよろしくお願いします。

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