3外務省退官とその後の生活
リトアニアを退去した千畝夫妻と長男はどうしたのだろうか?テレビでは、感動的に終わるために夫妻のその後は教えてくれなかった。1940年夏にリトアニア退去後、(この頃次男が産まれる)ソ連を経由して、チェコスロバキア(首都プラハ)領事館に副領事として勤務後、ルーマニア(首都ブカレスト)領事館に副領事として赴任する。その後、ドイツがルーマニアに侵攻し、(当時のドイツは、戦争に必要な石油資源を殆ど国内に持っていなかったため、ルーマニアにある、ヨーロッパ有数の油田があることに目をつけて狙ったのだ。第二次世界大戦中、この油田は、「ヒトラーの生命線」と呼ばれるほど重要だった。結果的に、ルーマニアは、ドイツに占拠され、日独伊の味方として、参戦した。)このような戦争の危険が高まっても、千畝は勤務を続けた。
1945年終戦まじか、ルーマニアに夫人と子供たち(二人)と一緒に赴任していた千畝はドイツの同盟国であったルーマニアにいたにも関わらず、ソ連がルーマニアに進軍してきて、ルーマニアは、ドイツなどの同盟国を裏切って、ソ連側についた。そうして、ドイツ軍と日本の外交官は危険な立場に立たされることになる。千畝達外交官はスパイの疑いをかけられ、ソ連軍によって、拘束され抑留地に連行された。どこに抑留されていたかは、はっきりとは記録が残っておらず、ソ連領内のウラジオストク近郊の収容所にに抑留されていたとされている。千畝と家族は離れ離れに抑留され、戦後1年半ぶりに千畝は家族と再会する。
1946年春、6年ぶりに日本に帰国したが、翌年、外務省から「独断でビザを発給した」こと」を理由に依願退職を命じられる。しかしおもて向きは、「人員整理」の名目だった。
約23年の外交官生活がそこで終わった。
戦後、神奈川県鎌倉市に居住。夫人と4人の子供たちと静かに暮らす。
帰国後、長年の外交官生活を終え、一般の生活者として生活を立て直さなければいけなかったが、戦後の混乱期は、再就職は非常に困難だった。しかし、語学力(ロシア語、英語、ドイツ語)を活かし、通訳、翻訳業で生計を立てた。
後に、満州鉄道関係の仕事や、貿易会社に勤務し、最終的には、得意のロシア語を活かせるソ連系の貿易会社に就職し、モスクワや東欧に度々出張することもあった。
静かに暮らしていた千畝だったが、70代の終わりごろに、脳梗塞を患い、右半身に麻痺が残ったため、執筆や講演活動ができなくなり、亡くなるまで療養生活を送る。
千畝の功績は、戦後長く、日本では殆ど知られていなかった。千畝の偉業が日本で注目されるようになったのは、1980年代で、(私がテレビで千畝を扱った番組を観たのも1990年代だった。)1984年イスラエル政府が千畝を「諸国民の中の正義の人」という称号に認定してから。千畝に知らされたが、千畝は当時長旅はできなかったので、代わりに夫人がイスラエルに称号を受け取りにいった。「諸国民の中の正義の人」とは、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人を救った非ユダヤ人の人々に与えられる称号で、日本人で、この称号を与えられた人は千畝だけである。他にこの称号を与えられた人に、オスカー・シンドラーがいる。千畝のことを知ったら、是非映画「シンドラーのリスト」も観てほしい。(目を背けたくなる場面もあるが、しっかり観てほしい)
「正義の人」に認定され、夫人が代わりに称号を受賞した翌年1985年、享年86歳で死去する。
イスラエルは、ユダヤ人の祖国で、戦後1948年にイスラエル国家が建国され、世界各地に散らばっていたユダヤ人が次々とイスラエルに移住し、現在では、イスラエルの人口の7割がユダヤ人である。
千畝が、外務省の命令に背いてビザを発行し続けることができたのは、幼いころから努力し沢山の知性を身につけ、広い国際的視野で世界を見ていたからであろう。それに必要な複数の言語を操り、宗教や人種、国籍で区別することのない、困っている人を助けなければならないという父の教えをしっかり心に留め、信念としていたのだと思う。
ビザを発行して、後からどうなるかは、千畝は分かっていたであろうが、人の命の大切さを他の何より大切であるというのが外交官という立場として、いや一人の人間として、理解していたのだと思う。まさに、正義の人である。
