池澤夏樹訳で十数年ぶりに再読。
フランス文学をいくつも読んだというのに、有名どころを読んで無かったな…と読んでみる。池澤夏樹訳を選んだのは、夏樹さんの娘さんが初めて好きになった声優さん(春菜さん)だったくらいの意味合いで特に意味はなく。
なぜか勝手にのほほんとした話だと思っていたわけだが(これだけ有名であの設定の話そんなわけないだろとは思うが)、語り手である男性(ネームレス)と王子様が死別?するという衝撃的な終わり方だった。そもそも王子さまは語り手では無かった…。
つまり実質W主人公方式を取っているわけで。
王子さまの死についてはあえてテグジュペリがあいまいに書いて、死んでいるようにも取れるようにしたのが正解なのかもしれない。ただ、語り手の前にはもう二度と現れないだろうという絶望が残るわけで、決して後味の良い終わり方ではない。
語り手の「ぼく」が異星人である「王子さま」と出会い旅をするわけだが、彼らの考えることは哲学的であり、子供には抽象的すぎるのではないか、と感じた。「王子さま」は自身の住む星の王子だからこそ、既に成人しているであろう語り手以上に頭が良く背負うことも多いのだろうと思った。彼は主人公に自身が抱える宿命を隠していたのだから。
語り手は終盤、王子さまにこう語る。「ぼくたちはずっと一緒だ」と。
すごいと思ったのは、語り手が王子さまと同世代ではないことが示唆されていることだ。語り手は飛行士であり、現実世界における仲間たちを指して「同僚」と書いている。(最初、この世界の飛行士は未成年でもなれるのか?と思ってしまったが)
となると、語り手と王子さまとの物理・心理的な距離は住んでいる星以外にも年齢もあったのかなと思ったりする。
語り手は王子さまに憧れていたのかもしれない。自分よりずっと年下だろうに、自分の宿命と戦う王子様に憧れを抱いていたのだ…と考える。
だからこそラストで二人が離れ離れになり、後になって主人公が王子さまのことを思い出したときにとても感傷的になっていたんだろうなあ、と。
10代前半だと推測される王子さまと同じ目線に立てるってことは、語り手は何かしら子供の頃にやり残した人なのかなあ?
テグジュペリの死因ははっきりしておらず、失踪後に見つかった遺品から自殺説があるそうだ。テグジュペリは王子さまと自分を重ねながら執筆していたのかなあ…と思えなくもない。
上記のことを踏まえると、古典児童文学ってやっぱり偉大だよね〜と思ってしまうのだ。
