No.7(2026年2月16日)
人に話せるような立派な宗教観もない。
幼稚園は家から近い私立のプロテスタント系。小中学校は公立で無宗教。高校はカトリック系の女子校で朝礼はお祈りだった。1番宗教色が強かったのは高校時代だろうが、だからといって霊的で特別な経験をした訳でもない。
このサイトであまりディープな宗教の話をするのもご法度だろうが、そもそもそこまで深い宗教観がないのだ。正月も節分もしてクリスマスも祝う、普通の日本人だ。
なのにどうして御朱印を集めているのか。簡単にいえば「日付が残るスタンプラリー」みたいな趣味だ。
結婚する前だ。どちらが言い出しっぺか、なにがきっかけだったのかは覚えていない。「こんなキレイな御朱印を貰える神社があるんだって」「へぇすごいねいってみようか」と話す、お金のかからないドライブの行先だった。たぶん雑誌やなにかで見かけて「天気もいいしそういう散歩もいいね」となったのだろう。
御朱印には様々な種類がある。半面サイズのものと、両開きサイズのもの。季節で絵柄が変わるところが多い。透かし彫りの切り絵のような御朱印だったり、両開きに直筆で堂々と大きく書かれるタイプも特別感がある。
最近はシール帳がリバイバルで流行っているらしいが、わたしも平成女児の心が残っている。御朱印としてはみんな同じだが、派手だったりキラキラしている御朱印をもらえると抱えたときコレクター精神をくすぐられる。
そもそも御朱印とはなんなのか。調べてみると神仏をお参りした記録、記念として発行される参拝証明書の意味らしい。ここ何年かは観光としての話題性を出すために派手なものが増えたが、本来はそういう意味なのだ。御朱印自体にお守りのような霊的なパワーはないようだ。
最初の御朱印から5年目に入り、今年に入ってわが家の御朱印帳は6冊目になった。子供が生まれてからは御朱印目当てのドライブなどにはいけず、散歩として近場の神社ばかりいっている。深い宗教観はないといったが「最近ちょっといやなことが続いてるからちょっと神社にお参りにいっておこう」という会話をする夫婦なので、いまも1~2か月に1度はどこかしらの神社にいっている。
当然、お参りをしたからといって急に風向きが変わって万時がうまくいく訳でもない。年齢で感じる体の不調などもまさにそうだ。
それでもただいって帰って終わってしまう散歩の延長のような行動が、御朱印を貰うことで「あの日にちゃんといったから大丈夫」となれる。神頼みするほど気持ちが下がっているときは、それだけのことでも振り返ると大事なことだったりする。説得力が出る。自分を納得させられる。暗示かも知れない。
こんなに話しているが、わたしは神様はいないと思っている。神様は存在しないけれど、みんなが「存在する」と認識すればそこに存在できる意識の集まりのように思っている。神様や神社という認識自体が「いたらいいな」「そういうものに救ってもらえたらいいな」というみんなの願いの結晶だ。
それはアイドルに似ている。神様とアイドル。実際の姿はわからない。みんなの理想のプラスのイメージの集合体がアイドルなのだ。実際、アイドルという言葉の語源は聖書の中にあり「本来形のない神に絵や像を与えたもの、偶像」という意味があるのだ。
さて、そんなふんわりとした存在を前にして、二礼二拍手一礼の間にお賽銭を入れたり本坪鈴(ほんつぼすず)を鳴らして目をつぶり願いを込める。じゃあなにを願おうか。「最近悪いことが続いてるな」と思ってここまで来ていても、いざとなると願いごとはハッキリしない。
子供が生まれてからは「この穏やかさがずっと続いてほしい」という願いが増えた気がする。いろんなしんどさや不満があっても、いま一瞬でも心を穏やかにできたらずっと良いんじゃないか。
中国の思想家、老子の言葉に『知足者富(ちそくしゃふ)』という言葉があるそうで、まさにそうだと思う。足るを知るものは金銭的にも精神的にも豊かで幸福であるという意味で、いまあるものに感謝する心の持ち方を説いた四文字熟語だ。
「最近ちょっといやなことが続いてるからちょっと神社にお参りにいこう」と思っても、こうしてお参りに来れること自体実は幸せなことで穏やかな証拠なんじゃないか。穏やかにすごせるということは、結構幸せなんじゃないか。エッセイを書きながら気づいてきた。
先日期間限定で変わった神社が渋谷のセンター街にオープンした。ピンク色の鳥居と賽銭箱が目を引く『ギャル神社』。名前と悩みごとを伝えると¥1000でギャル巫女が真っ正面から「アゲ」な応援のお祈りをしてくれるという変わった神社だ。運営はJR貨物。お祓い体験後はJR貨物の制服をアップサイクルした御守りも渡される。悩みなんてどうでもよくなってしまうと評判だ。
祈りはアンガーマネジメントになるのかなと思う。アンガーマネジメントは1970年代からはじまったアメリカの心理トレーニング。人間は6秒怒りを忘れると怒りがゼロになる訳ではないが、自分の怒りを客観視することで相手への伝え方を考えたり、どうでもいいことならやり過ごすことができるという考え方だ。
わざわざ神社にきて祈ろうという時に怒りがこみ上げる人もいない。さすがのわたしでも、さっきまでいくら横の夫にイライラしていても祈るときは別だ。怒りは一旦どこかへ置いて、静かな神社の雰囲気に耳を傾ける。誰かが自分のために祈ってくれると気持ちが変わる。自分が自分へ祈ってもそうだ。
もちろん、たくさん祈ってもよくないことは起こる。それでもここまで祈ってきた自分を少しかわいいと思う。いまの生活を振り返り、日頃の夫への怒りを一度鎮め、祈りを捧げる自分をちょっと客観的にみる。御朱印の数は神社にいった回数、わたしが静かになれた回数だった。
