戦後80年のスクラップ

「新聞のある日常」に、もういちど出会った

2025年の8月から、私は新聞をとっている。それまで、コンビニに行ったついでに、時々新聞を買うことはあった。だが定期購読をするのは、大学生のころに就活に役立てたくてとっていたとき以来だから、10年ぶりくらいである。毎朝、郵便受けに新聞を入れてくれるひと。月末に来る集金のひと。それは自分と社会との、か細い絆のようでいとおしく思われる。

私がまだ実家にいたころ、テーブルの上にはいつも新聞が置かれていた。母は新聞を読むのが大好きな人で、テーブルいっぱいに新聞を広げる母の姿がなつかしい。その時分の私はといえば、その中身に興味がなくて、テレビ欄ばかりをながめていた。時折、なんとなく中をめくってみる。お悔やみ欄に、故人の名前が並んでいるのが恐ろしかった。やけに若い年齢の故人が載っていると、胸がざわついた。その感情はずっと、いまも心に焦げ付いている。他の記事の見出しを見ていても、やはり誰かが死んでいて怖かった。だから新聞はなるべく見たいものではなかった。私が新聞を読めるようになったのは、情報がおよぼす感情の変化とつきあう術をすこしは覚えてきたからだ。

新聞が大好きだった母は、このごろついに新聞をとるのをやめたと言う。両親の年金暮らしにも物価高がのしかかっていた。購読料の値上げを契機にやめたそうだ。はじめは新聞がない暮らしはさびしくてたまらなかったが、時間が経つうちに気にならなくなったと母は語った。そうか、気にならなくなってしまったのだなあ。そういえば、あんなに好きだった本も買わなくなったと言うし、家計の苦しさは情報のチャンネルをひとつひとつ閉じていくものなのかもしれない。それはなんともったいないことだろう。それにしても、実家のテーブルから新聞が消えたのを私はまだ見ていないが、なつかしい風景は過去のものになってしまった。

私が2025年の8月に新聞をとりはじめたのは、「1週間無料でお試ししてみませんか」という新聞屋のチラシを見たからだ。そして、時々コンビニで新聞を買ううちに、新聞に戦後80年に関する特集が掲載されているのを知っていたからである。

80年前、焦土と化した仙台の夏

私が新聞の購読契約を結ぶ少し前、7月ごろのこと。私は仙台に住んでかれこれ10年以上になるが、この年、初めて仙台空襲のことを知った。1945年7月10日、米軍は仙台市中心部に焼夷弾を投下し、中心部を焼き尽くし、1,000人超が犠牲となった。そんなむごいことが私の住む町、しかも日常的に歩いていた場所で起こっていたことに私は驚いた。ちょうどそのころ、仙台市戦災復興記念館では「戦後80年 戦災復興展」が行われており、是非見なければ、と足を運んだのである。

空襲後の被災地域の写真を見たとき、私はなぜか、パレスチナのガザ地域の、破壊しつくされてがれきしか残らなくなってしまった、あの光景が思い浮かんだ。展示されていた写真はAI技術によりカラー化されたものだったからかもしれない。毎日テレビなどで見る、現在進行形で起こっている戦争による焦土と、白黒でどこか隔世の感のある80年前のそれとが、カラー化によって結びついたのだろう。あの日、仙台駅から約1.5km先の西公園が見えたという話は有名だが、それもそのはずで、焼け野原になった街には、ごくわずかな建物以外になんにもなかった。がれきの傍で途方に暮れる人がいた。それもガザについての報道で見たものと同じだ。

仙台空襲の爆心地は、現在のクリスロード商店街のどまんなかだ。駅前から歩いて10分もかからない都心部である。私は、展示を見てから少し後に、爆心地のほど近くに設置された「仙台空襲爆撃中心点」の銘板を訪れた。この商店街はもちろんよく通っているが、そこから西の方角は、学生時代に住んでいたところに近く、よく散歩した。ずっと西に行けば、西公園がある。私は想像する―ここから西へと広がっていく街並みが、かつて火にのまれ、朝には焼け野原になってしまった日のことを。ここからなら、もっとよく西公園が見える。あたりにはたくさんの竪穴式防空壕がある。その中で、あるいは外で、焼かれてしまった人たちの姿がある。そして、無事であった人も、がれきの傍で途方に暮れて、佇んでいる―。あまりにもよく知る場所であるから、つい、何もかも忘れて通り過ぎてしまうけれど、時折、西へと広がる焼け野原が、”復活”した街並みの向こう側に見える気がするのである。

この国で80年前に戦争を体験した人びとはこれより先、減る一方である。世界には毎日のように「もっと悪い報せ」が流れる。戦争は終わらないまま、また一つ戦争が起きる。はっきり言って地獄だ。だけどもどうやら、それは相当深く、「とうとうここまで来たか」と思うその間にも、まだまだ沈んでいくようだ。こんな世界で、この国はこれまで80年間、不戦の誓いを守り続けている。それは稀有で尊いと私は思う。そんな社会を未来へのこし続ける上で、ここで最後に起こった戦争の記憶と記録の価値がいかに重いかということを、いつしか考えるようになった。本当に今さら、当たり前のことを、ついに切迫した危機感をもって考えるようになったのだ。

私は、仙台に来てからずっと空襲を知らなかったことを、恥ずかしいとは言いたくない。ずっと自分の内面しか見てこなかった私が、やっと外の世界を見られるようになり、仙台が”おらが町”となり、その過去・現在・未来に思いを馳せられるようになるまでには、こんなにも長い時間が必要だったのである。そしてその時が、折しも戦後80年という特別な年だったのである。今が「記憶と記録」を知る一番の好機であると思った。そして時は冒頭に戻る。「戦災復興展」から少し経った8月、私は新聞をとりはじめたのである。

忘れないということを、忘れないために

私はそれから半年近く、一時途切れたこともあったが新聞をとり続けている。大好きなサッカー中継のサブスクを諦めても新聞をとったことがあった。だが、私はあまりにひ弱であるがゆえに、毎日新聞を読むことはできない。そこまでのひ弱さというものがなかなか想像できないかもしれないが、そういう人間もいるのである。

私は、読んでいない新聞を捨てずに、部屋の一隅に新聞の山をつくっている。そして、時々、そこから過去の新聞を出してくる。80年前の戦争に関する記事があると、私はほぼ必ずスクラップする。それをクリアファイルに入れて、机の上に置いておく。私は覚えておくことが大変苦手な人間なので、ときどきスクラップを読み直す。忘れてしまったら、知らなかったのと同じことになってしまうからだ。スクラップした記事は、ツレにも読んでもらう。ツレは私と真逆に、エピソードを覚えておくことが大変得意な人間だからだ。そして、ツレは必ず感想を言ってくれるので、私が流し読みしてしまったところや、気づかなかったことを知らせてくれる。このいとなみは、本当に少しずつ、あの戦争の輪郭を、私の中で浮き上がらせてくれるとともに、紙面にハサミを入れる行為そのものによって、「私はこの国のこの過去を知り、忘れずに、ともにこれからの世界を生きていくのだ」という私の気持ちを私が象徴し、私にしみこませてゆく作業でもあるのだ。

新聞は「新しく聞いたこと」だから新聞というのであって、それを何か月も経ってから読むようではなんだか意味がないようだが、私が初めて読む限り、それは私にとって「新しく聞いたこと」である。それでも安くはない購読料を払って新聞をとる価値はあると思っている。だから”積読”でもいい。かなり古い新聞を開いたとき、見落としていた「戦争の記憶と記録」を発見できることは少なくない。私はあきらめずに、どんな古い新聞でも開く。いまは、戦争にかぎらず、地方地方の古い方言の話から、優生保護法など差別の歴史にもハサミを入れる。なかったことにはなってはいけないものを、せめて自分のクリアファイルにでも確実にのこしておく。忘れられなかった記憶と記録が、私とまだ知らぬ世界、そこで待っている誰かをつないでくれるのではないかと、期待しているのかもしれない。

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山都ウミ

とってもひよわです。札幌出身、仙台在住。いまとなっては仙台大好き。サッカーと相撲と虫も大好き。

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