~ 彼が「阿片」の煙の先に見たのは
「希望」か、それとも「地獄」か ~
「満州の『阿片王』」と呼ばれた男
秋田県 里見甫(さとみ はじめ)
(第一編)

ライナス
皆さんこんにちは。ライナスです。今回は戦前・戦中に「満州の『阿片王』」と呼ばれ、その悪名を欲しいままとした「怪物」、里見甫を紹介していきたいと思います。どうぞ最後までご覧ください。
幼少時代は腕白なガキ大将!
しかしその一方で後年に発揮される
「胆力」を身に着けていくことに!
里見甫は1896年(明治29年)1月22日に元海軍軍医だった父の里見乙三郎と母スミの長男として、父の赴任地である秋田県山本郡能代港町(現:能代市)に生まれました。父の乙三郎は先祖に曲亭馬琴(きょくていばきん)の「南総里見八犬伝」で知られる安房里見氏をもつ名家の出身で、自身も旧加賀藩の上級家臣である平士で、金沢医学校卒業の元海軍軍医の経験をもとに、医師として日本各地の無医村を廻りながら、無医村医療の活動をしていました。そのために日本各地を転々とすることが多く、里見自身もその後は両親と共に学校を転校し、1913年に福岡県立中学修猷館を卒業しています。
父に似て聡明で利発、と思いきや幼少期の里見は意外にもそうではなく、寧ろ学業成績は下から数えた方が早い、といった感じで、あまり勉強に関してはこの時期には関心を示していなかったものと思われます。
恐らく地に足をつけない根無し草のような生活環境が関係していたのでしょうか。しかし、その一方で柔道や剣道等の武術には早いうちから関心を示しており、試合や大会でもよい成績を残していました。このことが後年どのような事態に対しても決して心がぶれない彼自身の「胆力」となっていたものと思われます。

学生時代の里見の写真(左端)。
聡明さは感じられないものの、
底知れぬ芯の強さと胆力が
感じられる一枚である。
東亜同文書院に入学し、
優秀な成績で新聞記者に!
その時から後年の
フィクサーとしての能力が
垣間見える行動も…。
前述の通り学校を卒業した里見は、学生時代の柔剣道の活躍が注目され、その才能を玄洋社第二代社長であった進藤喜平太に見込まれて、彼の助力により、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学することになります。

玄洋社の二代目社長を務めた進藤喜平太。
福岡の自由民権運動の中心的活動家として、
衆議院議員として、何よりも頭山満の
朋友として、その名前は福岡のみならず、
全国にとどろいていた。

玄洋社の総帥を長く務めた頭山満。その存在の大きさは
日本、アジアばかりでなく、日本の裏側の
アフリカにまで影響を及ぼし、政財界のトップ
が頭を下げる程の傑物であり、当時の日本人は
「頭山則ち東洋。東洋則ち頭山」と言わしめる
程の大人物で、洋の東西を問わず、多くの人々から
「大亜細亜の『巨人』」と謳われた。
同文書院で里見は水を得た魚のように勉学に勤しみ、同文書院を優秀な成績で卒業します。しかしこの頃から里見の生粋のバガボンドの性癖が顔をのぞかせ始めます。
青島の貿易会社である平岡商会に一時勤務するものの退社し、帰国して東京で何故か日雇い労働者となります。1919年8月、同文書院の後輩である朝日新聞北京支局の記者であった中山優の計らいで、橘樸が主筆を務める天津の邦字紙である京津日日新聞の記者となるなど、無頼者を字で行く放浪癖を見せていきます。
しかしジャーナリストとしての才能はあったようで、1922年5月第一次奉直戦争に際して張作霖との単独会見を行っています。1923年6月、京津日日新聞の北京版として北京新聞が創刊されるとその主幹兼編集長に就任することとなります。ここでの新聞記者活動を通じて、関東軍の参謀であった板垣征四郎や石原莞爾と知り合い、中国国民党の郭沫若と親交を結び、蔣介石との会見を行うなどして、国民党との人脈も構築していくといった、新聞記者の枠にとらわれない「大物」ぶりを発揮していきます。1928年5月の済南事件では、日本軍の建川美次少将、原田熊吉少佐、田中隆吉大尉から国民党との調停を依頼され、2ヶ月にわたる秘密工作の末、国民党側との協定文書の調印を取り付けるなど、まるで本国の人間かと思うほどの劉弁で堪能な中国語の能力と後年の「特務機関」の親玉としての才覚の片鱗をこの時から見せていきます。

里見が記者時代に交流を築いた
中国と日本陸軍(主に関東軍)の要人たち。
左上から順に張作霖、板垣征四郎、石原莞爾、
郭沫若、蔣介石、建川美次、原田熊吉、田中隆吉。

新聞記者時代(後列左の白い中国服姿が里見。)
に蒋介石(最前列の軍服の人物)との会見直後の写真。
一介の新聞記者の身分に関わらず、
孫文の後継者の最右翼と目された人物と
単独で会見が出来たという「事実」が
里見という「喰えない男」の
本領を発揮している。
新聞記者からビジネスマンに転身!
新型機関車の売り込みで名を馳せ、
実業家として活躍する!
1928年8月、里見は新聞記者を退職し、南満洲鉄道(満鉄)南京事務所の嘱託職員となり南京に移ります。ここで、国民政府に対し満鉄の機関車売り込み(この実績が後の満鉄の特急機関車「あじあ号」導入の礎となった)に成功するなどの業績をあげています。
新聞記者から鉄道職員という「異業種」の職種転換だったにもかかわらず、里見は見事にその大役を成し遂げています。「記者」としての高い知見と現地の中国人や国民政府、陸軍上層部の思惑を巧みに見透かし、自分のみならず、双方のトップ同士に実のある提案を出し、そこで発生した利益を双方に供与して便宜を図り、自身もその恩恵と名誉を浴する里見の狡猾なビジネスの手腕の腕がここでどす黒くも鮮やかに発揮されているのが筆者としては思わず唸らざるを得ません。
恐らくこのあたりから、帝国陸軍上層部の面々が、
「『南京』に里見甫という『切れ者』がいる。」
と注目することになったのではないか、と筆者としては考えています。

満州鉄道としてだけではなく、満州国全体の「シンボル」となった
特急列車「あじあ号」。当時の蒸気機関車としては異例の
速度と冷暖房を完備したこの車両は当時中国に共同租界を置いていた
世界各国に日本の技術能力の高さを見せつけることとなった。
里見はこの「夢の『超特急』である
この列車の導入にも関与していた。改めて里見甫という男の
「怪物」ぶりというのが窺え、時代も時期も里見を後押ししていた、
というのはあながち言い過ぎではないだろうと筆者は思う。
(第二編に続く)
