~ 彼が「阿片」の煙の先に見たのは
「希望」か、それとも「地獄」か ~
「満州の『阿片王』」と呼ばれた男
秋田県 里見甫(さとみ はじめ)

ライナス
満州事変勃発後に
「謀略の『神様』」の指揮化に!
現在の「電通」の基礎を築くなど
工作活動を開始し始める!
1931年9月、満洲事変が勃発すると、里見は同年10月関東軍で対満州政策を担当する司令部第4課の嘱託辞令を受けて奉天に移り、後に日中両国民から
「謀略の『神様』」
との異名で呼ばれて畏れられた奉天特務機関長土肥原賢二陸軍大佐の指揮下に入ることになります。

奉天で里見の上司となった「謀略の『神様』」土肥原賢二。
対満州、中国及びその周辺における工作や謀略のほとんどをその一手に引き受け、
実現させた手腕から、「東洋のロレンス」や「土匪源」という異名が後に
付いたのだが、後に同じく東京裁判で「A級戦犯」として処刑された武藤章によると、
「土肥原はただ支那語が堪能で支那の知人が多いだけの『凡物』だ」そうであり、
果たして本当に土肥原が数々の工作・謀略を成し遂げたのかについて、
土肥原が手掛けた工作及び謀略の全容の見直しや解析の作業が現在
日中台の歴史研究者の間で共同で行われているが、その記録実態の多くが
終戦直後に破却、隠滅、散逸しているために、解明の作業は非常に難航している。
なお、素顔の土肥原を知る者は皆が口を揃えてその性格や人格を
「謹厳実直で温厚な好々爺。それでいて清貧な吝嗇化。」と語っており、
工作・謀略の親玉といったイメージからは想像がつかない実像が垣間見える。
さらに里見には「相棒」が付くこととなり、こちらも後に
「満州の『夜の帝王』」
と恐れられることになる甘粕正彦と共に諜報、宣伝、宣撫の活動を担当することとなります。

土肥原の「腹心」として、また里見と共に満州の数々の工作及び
謀略事業を成し遂げ、また満映の発展に尽力するなどして
富と名声を築き、「満州の夜の『帝王』」と呼ばれた甘粕正彦。
非軍人出身(憲兵隊出身)の身でありながら、関東軍関係者に
巧みに取り入り、また利用するその姿は老獪さを極めており、
影に潜み闇を喰らうその生き様は工作や謀略を担う人物として
自他共に相当のお誂え向きだったことが窺い知れる。
もっとも彼が憲兵隊長時代に関東大震災の直後、帝都が騒乱状態の
によって彼の「悪名」は高みを極めており、後ろ暗い事案を希望しながら
自らの小心さによって手を下せない者たちにとって甘粕の存在は
まるで天から与えられた配剤のように思われていたことは
想像に難くなかったのではないかと思われる。
熱烈な天皇主義と国家主義を併せ持つ甘粕と、
生来の風来坊でバガボンド、アナキストの性根の里見が
共に異国の地で出会い、共に謀略の事業を
成し遂げていったという事実もまた非常に興味深い。
終戦の5日後に「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」の
当時の特務工作に従事した者としての矜持と気概を一身に引き受ける
気骨の強さを感じさせ、また辞世の句にしても当時の特務工作
に関して「『日本』と『自身』の敗北」というのを客観視、等閑視した
見識の高さというのを暗示する内容となっているのが興味深い。
これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成されていきました。また、司令部第4課課長松井太久郎の指示により、満洲におけるナショナル・ニュース・エージェンシー(国家代表通信社)設立工作に務め、陸軍省軍務局課長鈴木貞一の協力のもと、新聞聯合社(聯合)の創設者岩永裕吉や総支配人古野伊之助、電通の創業者光永星郎との交渉を行い、1932年12月、満洲における聯合と電通の通信網を統合した国策会社である満洲国通信社(国通)が設立され、初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任することになります。
当時の日本においてメディアの統合を国策主導で行うという事にはこの当時勃興していた社会主義者、共産主義者、プロレタリア派作家などが強く反発していましたが、軍部や工作機関、果ては政府の力を借りてこの統合を成功に導いた里見の名はいよいよ政府首脳にまで届くことになりました。
更に1933年5月、聯合上海支局長であった松本重治に、ロイター通信社極東支配人であり、後に同社総支配人(社長)となるクリスファー・チャンセラーとの交渉の斡旋を依頼して、交渉の末ロイターとの通信提携契約を結び、国通の名を国際的に印象付けることに成功します。
この「国通」が現在「電通」としてその威光を欲しいままにしているのも里見の影響だったというのも、当時の満州国と戦後日本の奇妙な繋がりが働いているのかと思うと、筆者は少々恐ろしさを感じます。
この「工作」の成功に満足した土肥原大将から「お役御免」の達しが届いたのでしょうか。1935年10月、里見は自らの手で一大メディアとなった国通を退社し、同年12月関東軍の意向により、天津の華字紙「庸報」の社長に就任します。
この人事については日満内外から「降格人事」との声が相次ぎましたが、天衣無縫の無頼者で生粋のバガボンドである里見にとってはそんな世間の声などどこ吹く風。こういったカネや肩書に執着しない里見の性分こそが、特務機関の親玉にはうってつけだったのかもしれません。
「謀略の『申し子』」の密命で
悪名名高き「阿片事業」に参加!
拠点となった「宏済善堂」は
大陸浪人、在満軍人、特務工作員、
中国人秘密結社の人員が入り乱れる
「梁山泊」の様相に!
1936年4月から、里見は自らにその異名が付くほどになる阿片事業に参加します。当初は満州族の労働実態調査のための塩の生産、販売事業を行っていたのですが、当時の満州人たちは塩と同程度、もしくはそれ以上の阿片を求めていたことをジャーナリストの視点から目ざとく突き止めた里見は塩の製塩・販売業者を立ち上げた直後から満州人の阿片吸入の実態について独自に調査を始めます。
この調査で阿片の販売が莫大な収入になるものだと直感した里見は、
1937年11月に上海に移り、関東軍に対して阿片販売のための公社設立と販売事業の許認可取り付けのために参謀本部を訪れます。そこで当時参謀本部第8課(謀略課)課長で後に
「謀略の『申し子』」
と呼ばれる影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、中国人と間違われるほどの抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼されることになるのです。

帝国陸軍参謀として対満州、中国及びその
周辺諸国において数々の工作や謀略を成し遂げ、
「謀略の『申し子』」の異名を取った、
「帝国陸軍の懐刀」影佐禎昭。
その微に入り細を穿つ工作で当初は軍や住民から
支持を得るも、影佐が主導する現地住民の
厚遇策と融和政策が軍首脳部に嫌われ、
後に南方戦線に飛ばされることとなる。
失敗し、南方戦線の戦局の悪化に拍車をかけ、
結果的に玉砕の連鎖を導くこととなってしまった。
なお、「謀略の『申し子』」、「帝国陸軍の懐刀」という
その異名とは裏腹に現在の京都産業大学の創設に
尽力するなど、篤志家としての側面も持ち合わせていた。
1938年3月、里見は阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設立された「宏済善堂」の副董事長(事実上の社長)に就任します。ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇(チンパン)や紅幇(ホンパン)などとも連携し、1939年上海でのアヘン密売を取り仕切る「里見機関」を設立します。
この過程の中で里見は満州及び中国国内で生産された阿片だけではなく、中国周辺の蒙古産、さらには中東のペルシャ産阿片の売買まで手掛け、それによって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の
傀儡政権[注1]であった汪兆銘の南京国民政府、満州及び中国に展開していた「梅機関」や「松機関」に代表される特務機関、南京を拠点としていたジェスフィールド76号[注2]等の工作機関にも回していました。

南京政府の汪兆銘の側面支援と中国国民党の工作機関である
工作機関「ジェスフィールド76号」の幹部として
当時の南京及び中国一帯で暗躍し、敵対する工作者を
血なまぐさい残虐な方法で殺害するなど、文字通り
「血で血を洗う」工作で当時の中国租界を恐怖と混沌に
貶め、日中両国民や共同租界の住民から恐れられた
丁黙邨(てい・もくとん)(左)と李士群(り・しぐん)(右)。
その工作及び謀略の成果で関東軍に評価され、
後に南京政府の重役として登用されるものの、
丁黙邨の失脚と李士群の実質的な実権掌握、
その後に直属上司である晴気慶胤の手を離れてからは
両者ともに権力争いに狂奔し、組織は暴走と暴徒化の
一途を辿ることとなる。組織の暴走に業を煮やした
関東軍は組織の解体と消滅、存在の秘匿を検討し始め、
その後大陸浪人から馬賊の頭目としてひとかどの身分になった
小日向白朗が軍の密命を受け、自身が率いる「K機関」
(この「K機関」の実態については完全に闇に包まれている)
の暗躍によって李は暗殺(毒殺と言われている)されるという
「喜悲劇の頂点を極める事態」或いは「袋の鼠」
(丁黙邨は戦後国民党政府により「漢奸」として銃殺刑)となり、
組織は解体され、そのおぞましい工作活動の実態もまた
歴史の深い闇に葬られることになったのである。
当時の日本軍および関東軍の阿片における特務工作に関しての動画がありましたので、参考に貼り付けておきます。
日本軍と阿片 調査報告 大東亜戦争の鍵はアヘン(麻薬)政策 日本軍はアヘンを使って何をしたのか?
(第三編に続く)
