みなさん、こんにちは。毎度おなじみ水鈴です。
今回は、タイトルの通り「何故水鈴が、ライティングを始めたのか?」や「ライティング人生での大失敗」など、ライティング歴6年目の私のお話や幼少期の「文章」との向き合うことになったきっかけから、「そんな自分がなぜ死ぬまでライティングをしようと考えるのか」を書いていこうかと思います。
~「書いてみない?」小学1年生の私が書いてみた~
小学1年生の入学式を無事終えた私は、周りの環境に戸惑っていました。
チャイムと共に授業が始まり、決まった時間にしか遊ぶことが出来ない。
不安やイライラを何にぶつけたらいいかわからず戸惑う日々の中、土日の宿題は「作文」でした。
基本、作文は1日1枚。それだけは、私は水を得た魚のように紙の中に生き生きと文章を書きました。そこに書いていた内容は今でも忘れません。
私は、作文に「家族」の話をびっしり書いていた。
母や父はいつも仕事で忙しそうで、祖母は、持病の糖尿病の調子が良くなく入退院を繰り返していました。
いつも寂しさに包まれていた小さな私は、
「お母さんは、いつもお仕事を頑張っています。でも、私はもっと遊んでほしいです。」
「お父さんは、忙しくて会えないけど、時間があるとサッカーをしてくれます。」
「おばあちゃんは、病気だからいつかお医者さんになっておばあちゃんの病気を治したいです。」
と、ストレートに紙に思いをぶつけました。
当時の私の夢は「お医者さん」。お医者さんになってみんなを助けたい。
私が、沢山働けばお父さんもお母さんも、おばあちゃんも楽になると思っていました。
そこに目を付けたのは担任の先生でした。
「水鈴ちゃん。お母さんは好き?いつも作文で、頑張ってるお母さんが好きって書いてあったけど、みんなにお母さんが頑張ってる話を聴いてもらわない?」
「?」
いまいち意味は分からなかったけどその日から、先生とマンツーマンで、作文を書くことになりました。内容は「大好きなお母さん」について。
毎日、毎日宿題のほかに作文を書き続けました。きちんとした紙に書くのはコツが必要で、1行飛ばしたり、読点、句読点、の意味を理解できてなかったり。
なかなか、進まないと担任の先生が家に来てつきっきりで作文を書いたり。
何とか書いた作文が、コンクールに出展され1年生ながらに銀賞という大きな賞をもらい、全校生徒の前で賞状をもらいました。
そこから、私の「書く」という、人生が始まりました。
それに結構なストレスが溜まっていたのは後日分かることですが。
~大好きな誰かのために書く~
その後の私は、学年が上がるにつれて書きたいことや難しい言葉、色々な例えが使えるようになり、更に書くことが止められなくなりました。
多い時は、土日で作文ノートを1冊使い切るほどでした。
5年生に進級して、新しい担任の先生に
「水鈴、作文書いてみないか?先生もサポートするよ」と、懐かしいお誘いが。
1年生の時は、右も左も分かりませんでしたが、今回は違います。
先生と、作文の案を練って慎重に、慎重に書き進めていきました。
作文に夢中になり過ぎて外が真っ暗になって、先生に家へ送ってもらったのも1度や2度ではありません。
ようやくコンクールに出展した私の作文は、第一選考を抜けて、最終選考まで残ることが出来ました。最終選考に選ばれた作文が本に載る、載らないは新聞での発表でした。
朝早く新聞を広げた私は、朝からボロボロ泣いきました。
私は、準特選という、作文のすべては載らないが出身小学校名、名前、作文のタイトルが載るという微妙な結果が腑に落ちなかったのです。
「あんなに頑張ったのに。本に載らないなんて意味がない」
と、泣きましたが、父や母、祖母には
「水ちゃんの名前が新聞に載っただけで嬉しいよ。頑張ったもんね。泣かないで。賞状も2枚ももらってすごいよ。」
と励まされ、学校に行くと、先生にも
「水鈴には、申し訳ない。でも、新聞に載ったことだけでもすごいから」
と、慰められ、
「また、書こう!」と、前向きに思えました。
~時は流れて20歳になりました~
私は、あれよあれよと20歳になりました。動物看護師の専門学校に2年間通っていましたが、何ともやる気のない学生でした。何故なら、持病との闘いだったのです。
内容は難しいし、専門用語が沢山の授業で大混乱でした。
慣れないバスでの通学、駅に着いたら電車に揺られて学校に行く。
バスで駅までが片道2時間。往復4時間かけて学校に通い、何もかもが「どうでもいい」と、なってしまったのです。
学校は小規模の学校だったので、とてもアットホームでした。
「トリマー科」と「動物看護学科」しかなく、看護学科は私を含めて5人しかいませんでした。多分トリマー科も10人はいませんでした。
私は、学校との話し合いの末、
「学校は、卒業させてあげるけど動物看護師の資格試験は受けさせない。
卒業証書は、あげるけど卒業証明書などの書類は書かない。」
という縛りのもと、トリマーの資格も取れなかったし、看護師の試験も受けられませんでした。
そんな私は、卒業して「さぁ、やることがないぞ」となりましたが、何をすればいいか分かりませんでした。
そんなとき、ネットの広告(?)か何かで
「ライティングやってみませんか?」
という、文字に釘付けになりました。
興味本位で調べたところ、沢山のお題でライティングが出来ることを知り、まずは書けそうなお題に挑戦をしてみました。
会社によっては違いますが、気になる会社に応募してテストライティングに挑戦した。
「テストライティング」とは?
応募したい会社から例えば「猫のフードについて1500文字以上2500文字以内で書いてください」と、指定のワードでライティングを書くように指示が来ます。
そこである程度の応募者がふるいにかけられます。指定人数に行かなかった会社もライティング力がどれくらいあるか試すため指定のワードが送られてきます。
応募人数が集まってない会社ほど、テストライティングの文字数が少なかった気がします。人気の高い会社や単価の高い会社は、かなりの応募人数でザックリとしたワードよりかなり専門的分野を問われることが多いです。
私は「簡単にテストライティングが通るはずがない」と、3社のテストを受けました。
3社ともお題は違いましたが、文字数は1500文字~2000文字だった気がします。
ライティングなんて人生初めてだったので気軽に受けたら・・・。
「3社ともテストライティングが通りました。」
嬉しい反面、驚きと落胆でした。ここまで来たら、神様の悪戯にしか思えなかったです。
やったことないのに3社も・・・(自業自得だが)。
そこから、担当さんが各社ごとについて、朝、起きてPC画面を見るとすごい量の書いた文章の加筆修正やダメ出し、いつまでこの文章を上げられるか。などの連絡が入っていました。
でも、3社ともテストライティングで書いた文章のクオリティが高かったようで、修正こそあったものの、私の初めてのテストライティングは、無事ネットに掲載されました。
急いで写真を見繕い、華々しくもweb掲載デビューを果たしたのです。
3社との契約はしましたが、採用期間が短く長くても半年。短いと3か月とか。
それに対して焦った私は、片っ端からテストライティングを受けました。
ここから少しだけお金の話をしようかと思います。
会社によって文字単価が、かなり違います。私が最初に契約した3社は、比較的文字単価が高く、1記事(1500~2500文字)で100円行くか行かないかくらいだった気がします。
1番安かった会社は、1文字0.2~0.5円くらいでした。1記事の単価ではなく、1文字単価の会社もたくさんありました。
私は、幸い単価が高い会社と契約できていました。
~自分の首を自分で締める、脳内水道状態~
契約満了が近づき、私は大好きなライティングのお仕事が終わってしまうことに、パニックになりました。
3社の契約が切れる前にほかの会社のテストライティングを受けまくり、最大6社と短期ではありますが、契約をしました。
私は、ここから地獄を見ることとなります。
基本、毎日どこかしらの会社の締切日。
1番大変だったのが、全く手を付けてなかったライティングが5本まとめて提出しなければならなかったとき。1本3000文字以上という縛りのある時は、ヒーヒー言いながら書きました。
文字数制限で2500文字以上3000文字越えのライティングは、内容があまりにもマイナーな病気や、調べるのに数日かかるようなものばかり。
ご飯やトイレにも行かず、書きまくりました。
まるで脳みそに蛇口を付けて、無理やり情報という水を出すようなものでした。
不思議なことに、その頃は蛇口を捻れば何かしらの文章が出てきましたが、今は、枯渇してしまい文章を書くのがかなり遅いです。
~水鈴が死ぬまで書く理由~
最後に、私が死ぬまで書く理由は、強いて言えば「まぐろ」みたいなものです。
まぐろは、泳ぎが止まると死んでしまいます。私も、書くことを止めたら死んでしまうんです。
ライティングから得たものといえば、私の文章を読んでくれて笑顔になったり、ためになったと言ってもらえること。
それだけでも、生きる糧になるのです。