毎年、猫の命日になると、お墓の前にフライドチキンをよそった皿を供え、手を合わせてから目を瞑る。香辛料を纏った皮を剥がし、包丁で細かく刻んだチキン。野生動物に食い漁られたら迷惑なので撤収は早い。
元が野良猫なので家に棲みつく段階に入るまでの間は野鳥(雀や鴨が多かった気がする)を捕まえて、羽と内臓を残して食べていた。その光景をはじめて目の当たりにしたのは小学六年生。自然の摂理を感じつつ、私の食事がどれほどグロテスクを省略しているのかも、よくわかった。
その名残りなのか、魚よりも鶏肉を使った料理に対する反応は過敏だった。
第一に脂。脂っこい=美味しいに結びつくのか、とにかくもも肉。第二に温度。捕らえたばかりの獲物は冷蔵庫で保管してる肉よりも温かいからだろう、下手に熱すぎず、冷めてもいない、体温に近い温度のごはんは食いつきが良かった。そんな理由で、サラダチキンにはそれほど興味を示さず、買って帰ってきたばかりの、両方の特性を満たす焼き鳥やフライドチキンに対してはよくねだったし、普段分けていた缶詰もレンチンが必要だった。塩分が気になるのでフライドチキンは冒頭で述べた通りの工程で、焼き鳥は、表面のたれをよく洗い落としてほんのひとかけらだけ与えた。
私の知りうる限りの猫の生涯を振り返るということ。そういえば、昔はよく引っ搔かれただとか、そういえば、玄関の前で帰りを待っていた、と、そんな風に、命日は「そういえば」が多くなる日である。故人(この場合猫だが)と一緒に過ごした日々を思い出し、ときに家族間で共有していくと、鮮明、とまではいかなくとも、亡くなってから日が経つにつれて少しずつぼんやりし始めていた記憶の輪郭がはっきりしてくる。