1998年。多分。私はオーストラリアに行くことになった。旅立った年も、うる覚えなくらい前のことだ。
ま、一週間お目付け役がついている旅ではあったが。
当時、オーストラリアのシドニーに姉が留学していて、私はというと、オーストラリアの首都がシドニーだと思っていたくらい知らない国だった。
それとともに、わたしは病気で、ほとんど外出していない生活をしていて、体力も限界だった。そんな中、親が責任感の強い姉がいるオーストラリアに私を行かせたら気分転換になるだろうと、私をニュージーランド航空の飛行機に乗せた。
行きは、荷物を載せるレーンに重いスーツケースを載せられなくて、近くにいたおじさんが親切にもスーツケースをレーンに載せてくれた。
機内に入ると、自分の席に座ったが、隣のおばあさんが言葉が通じない人と隣では退屈だから席を代わってくれと、ちょうどレーンでお世話になったおじさんと隣席だったので、おじさんを介して席を変わることをOKした。
そして11時間後、シドニー国際空港に到着した。飛行機から降りると、7月頃だったので、シドニーは冬で、シャツ一枚だった私は、フリースを着て飛行機を降りた。空港で、審査が終わると、ケータイのない時代、うろうろ探して待っている姉を見つけた。スーツケースを一所懸命押しながら、私は早歩きで姉のところへ行った。スーツケースを盗まれてはいけないと思い、全速力で姉のところへ行けなかったのだ。姉も泣きそうになりながら、走ってきて、私たちはまるで10年くらい会っていなかった姉妹のように抱き合った。会っていなかった期間は1年くらいで、姉がちょうどホームシックにかかっていたころだったので、姉は留学かぶれで、つい強いハグをしてしまったのだろう。
宿泊は姉が友人とシェアしている半二階がついてる、きれいなアパートだった。あの頃もシドニーの物価は高かったようだ。
着いてすぐ、バスと電車が1週間乗れるパスみたいなのを買ってもらい、バスで姉の通う大学を見学に行った。キャンパスは広大な芝生が広がっていて、思わず走ったら、昨日雨が降ったみたいで、履いているパンツの裾が汚れてしまった。私はその後は、汚れが気になって気になって、キャンパス見学に集中できなかった。その上、パスを失くしてしまい、姉にこっぴどく怒られ、私は泣いた。
初めてシドにーで食べた食事は夕食で、姉の友人と3人で食べることになったのだが、姉の友人が普通に「マックにする?」と言ったので、私はオーストラリアっぽいものが食べたいなあと遠慮がちに言った。そうしたら、シドニーの繁華街にあるフードコートに行くことになった。アジア料理がほとんどのフードコートだった。今では、日本でも一般化されているが、当時は日本にはなかったと思う。安くて量が半端なく多いチャーハンみたいなのとか、完食できないような量だった。そこは、もちろん現地の人も来るし、貧乏な留学生やワーキングホリデーで来ているアジア人がたくさんいた。ここに一年いたら、そりゃ太るよなと思った。そして、シドニー市街は24時間バスが走っている路線があり、私は「お姉ちゃん、ちゃんと勉強しているのかなあ」と思いながらも親には黙っていたほうが良さそうだなと思った。
二日目の朝起きたら姉が出かけていて家にいなかった、そして
メモがおいてあり、何時にバスでどこどこに来るようにと書いてあった。その場所は、到着した日に観光した時計台があるショッピングモールだった。私は、血の気がひいた。昨日、バスの中からシドニーは大都会だな、迷子になったら終わりだなと思ったばかりであったからである。しかし、そうもいっていられないので、出かける準備をして、シェアメイトに見送ってもらい、バス乗り場に行った。姉は何番と何番のバスに乗ればいいと書いていたので、バスがきたら番号をしっかりみていた。そして、番号のバスに乗り、無事ショッピングモールについた。私は、運転手の側にぴったりくっついて「ストップ!ストップ!」と叫んだ。前に運転手さんに、着いたら教えてねと言って教えてもらえなかったことがあったから、必死で叫んだ。
着いたら、姉が普通に待っていて、もう一度モールを見にいった。モールの中に新人さんらしい絵の画廊が気になったので、お店に入った、店員さんが日本人で、絵の説明をたくさんしてくれたので、買いたくなって、絵の値段はだいたいいくらか聞いたら、買える値段だったので、買うことにした。絵の題名は「olympics2000」。明るいシドニーでオリンピックが開催されている模様が描かれた絵であった。
その絵はいまでも額にいれて、私の部屋に飾ってある、いい思い出の象徴だ。
オーストラリアには動物園、植物園がすごく沢山あり、コアラを見た動物園がどこだったか、覚えていない。ただ、当時、コアラを観光客が抱っこしたら、ストレスが溜まるので、、抱っこが禁止になっていた。夜行性で、狂暴だと聞いていたので、そーっと近づいた。コアラは、昼間なのに、起きていてさほど狂暴性は感じなかった。ま、「かわいい」のうちに入るだろう。その時は、私の中でかわいいがピークだったので、思わずコアラのぬいぐるみを購入しようと、手に取った瞬間、姉が「そんなもん買うな。」と怖い顔でコアラのぬいぐるみをバフっと下に落とした。今では買わなかったことを全然後悔していないし、何年か後に、捨てることになっていたなと今は思う。
電車に乗ってどこかへ行こうとしたときも、私がキャッキャッ喋っていたら、姉が無表情で「しゃべるな」と言った。多分シドニーの電車も危ないのだろう。私はそれ以降電車を降りるまで一切喋らなかった。
オーストラリアといえばオペラハウス。外側から見て、内部にもクラシックコンサートを聴きに行った。ドレスコードはデニムがだめなくらいの軽いものだった。外にでると、夜の景色が素晴らしかった。陸から見るとハーバーブリッジとオペラハウスが並んでライトアップされ、ずっと見ていたいと思った。
現在は、ハーバーブリッジに上るアクティビティがあるが、その頃はなかったので、夜に、遠くから鑑賞するのが一番の観光だったと思う。
この一週間で、姉が用意してくれていたものがあった。朝一番で何処に行くかは秘密の飛行機でのミステリーツアーだ。あまりにも朝早い時間だったので、時間に遅刻しそうになり、私はというと、飛行機に乗ってから寝ていて、姉と席が隣同士ではなかったので、隣に座っている知らない人に何回も頭もぶつけていた、私は、ぶつかるたびにその人に「ソーリー」、「ソーリー」と言っていたが、多分、その人はものすごく嫌だったと思う。今更だけどごめんなさいという感じだ。結局到着したのは首都キャンベラであった、日帰りツアーなので、ちょうどいい距離だったかもしれない。ただ、キャンベラでなにをしたか全く覚えていない。
ある日は、シドニーにあるカジノに行った。カジノが目的ではなく、カジノの奥にある食事のできるバイキングだった。カジノに入ったのは初めてで、カジノって入るのは無料なんだと思った。奥まで行く間、ポーカーをやっている人の顔を見たらすごく真剣で怖くなって早くバイキングに行こうと早足になった。
バイキングは比較的安いらしく、姉はたまに来ると言っていた。そこも例外なくなんでも大盛だったが、バイキングなので、自分の食べたいだけ食べられるのがオーストラリアにきてからは何よりありがたかった。
料理も口にあったし、とても満足だった。
バスが24時間運行だから、週末だけクラブに遊びに行くとかじゃなくてもいいみたいで、クラブにも行ったが、私にはクラブの雰囲気があわなかった。
オーストラリアは多国籍料理で、料金が高くても安くても、いろいろなものが食べられる。そして、お店によってはお酒の持ち込みもOKの資格をもっていれば、そのお店で飲み物を注文しなくても、持ち込んだお酒(ほぼワイン)で済ませることができる。
飲茶を食べた日もあった、その日は姉が風邪をひいていたが、たくさん食べていたので心配ないなと思った。
よく考えたら、お土産を全然買っていないなあと思った。イルカの形をしたマッサージ機を買ったが、日本に帰ったら同じものが売っていたので悲しかったのを覚えているが、それ以外もずっと趣味の切手を買いに行かなかったなあと思う。帰国後、両親に土産話もしていないし、ほんと、自分だけが楽しんだ旅行だったなあと思う。スリリングな経験もしたし、もう二度と行かなくても後悔しないくらいいい思い出が残った。
いろいろ体験できたけれど、最終日には姉のアパートになじんで、姉とシェアメイトの洗濯物を畳んでいた。
帰りは姉と日本人の姉の友人が見送りにきてくれた。その友人がどこからか摘んできた花を束ねた花束をくれたのだが、それを持って11時間飛行機に乗っているのはちょっと辛かった。でも、最初に出迎えてくれて、帰りも見送ってくれるその気持ちが嬉しかった。
帰国後お世話になった姉の友人達にエアメールを送った。そのころはケータイがなかったので、住所の交換もしていた。そのうちの一人は台湾系オーストラリア人で、苦労して英語で手紙を書いたら、返信が来て当然中身は英語だったので、読むのに苦労したが、エアメールを出してよかったと思った。
帰国後荷物を待っていたら、レーンを回ってきたが取れなかったので困っていたら、行きにレーンにスーツケースを載せてくれたおじさんもちょうど帰国していて、何も言わずにレーンからスーツケースをおろしてくれた。最後までついているなと思った。
今思うのは、若いうちにこれらの体験をできたことがとても貴重だったなということだ。若さやその当時知り合った人々との体験は美化されてしまうかもしれないけれど、今あまり幸せを感じていなくても、死ぬときに回りまわって、いい思い出のなかで人生を終えられると思う。