私は生まれつきの発達障害だ。軽度の自閉症(ASD)と注意欠陥多動症(ADHD)も抱えている。そして、2次障害の双極性障害にもなってしまった。
私は昔から、大人しくて育てやすいと言われていたが、ただ単に興味の幅が狭く、人と話すことに興味がなかっただけだったのだ。小学1年生くらいの時の遊びといえば、過集中のため、庭の朝顔の種をひたすら取っていたり、庭を歩いている蟻をひたすら潰して遊んでいたり、近所のどんぐりの木から落ちているどんぐりをひたすら拾ったりしていた。全部ひとりで遊べる遊びだが、子供がやる遊びではなかったと思う。
今でも、この過集中が大人まで続いて、日記をよく書いているのだが、夜中に日記を8時間止まらずに、ノートに20ページくらい書いたりすることもある。内容は黒い話ばかりで、私の唯一のストレス発散だった時もある。
私は、何かやる時には、びっちり予定をたてて、その予定を他人に乱されるのが嫌だし苦手だ。例えば、お正月前に、家族が自分の家に集まった時に、買い物に行くコースの順番が乱されたり、泊まりに来た姉妹が、自分がいつも私が入っている時間にお、風呂に平気で入られるなど、自分の生活ペースを乱されると、とても気分が悪くなり、プチパニックになる。
何故か分からないが、時間がいつも気になっている。1Kの家に住んでいるのに、8個も時計を持っていて、お風呂にも置いている。お風呂には何分入らなければいけない、とか、テレビは何時間しか観てはいけないとか、そういうのが気になるのかもしれない。テレビの横にも時計は置いてある。
その他に、部屋のどこにでもポーンとなんでも置いてしまうので、この冬などは特に手袋をよく失くすので、コートごとに、手袋をコートのポケットに入れるようにしている。鞄ごとに最低、ハンカチとティッシュは入れておいて、マスクの置き場所も決まっている。
私は料理はあまり得意ではないので、なんでも簡単な自炊をしている。米を研ぎたくないので、無洗米を買い、出汁をとるのも面倒くさいので、大手の昔からある、出汁の会社の出汁を使って、みそ汁を作っている。これは、母も使っていたので、これが私の母の味である。私は、一度気に入ったものは、2、3年連続で食べるので、この前まで、3年くらい朝ごはんは雑炊を作って食べていた。しかし、突然いやになって今は、市販のサンドイッチだ。料理に関しては私と同じことをしている人もいると思うので、発達障害に限った話ではないが。
時間でいうと、友人と会って話すことがあるが、女性なら、昼間に会って、夜まで喋っているなど、あるあるだと思うが、私の場合、普段人と話さない分、興奮して夜も終電時間近くまで話してしまう。それをうまく優しく、そろそろ帰ろうかと友達が言ってくれるから、終電に間にあっている点がある。私はその友人達のストップのおかげで、気持ちよく時間を過ごせて時間を気にせず友人達と別れられる。でも、その日は帰宅しても、興奮したまま眠れない。自分が喋って、それをやんわり止めてくれる友人としか今は付き合っていない。ケータイや腕時計をみて、察してほしい人と付き合うのは自分には苦でしかない。
私が発達障害であるかもしえないと感じたのは、30代半ばだった。そのころ既に、鬱でメンタルクリニックに通っていて、臨床心理士のカウンセリングを受けていた時に、その人がもしかしたら、「あなたは大人の発達障害かもしれませんね。」と言われたのがきっかけだ。それで、発達障害を診てくれる病院で検査を受けることになった。カウンセラーには「私は子供の発達障害が専門だから診れない」と言われ、発達障害の検査を受けて、「広汎性発達障害」と診断が出た。私はこの時、治らない障害だということだと知り、一時自分がなぜそんな障害なんだと嘆いた。暫く時間が空いて、初めて発達障害の検査を受けた病院じゃない発達障害専門の病院をネットで調べまくり、家から近い順から片っ端に、精神科、心療内科に電話した。精神科でも、発達障害が専門ではない病院は多く、また発達障害の検査だけを行っている病院もあった。あと、私は変な話だが、医師にはあまり期待していなかったから、発達障害の専門でなければ、尚更意味がなかった。電話をしてある病院で、発達障害の検査と診察もしているクリニックを見つけた。家から通いやすく、すぐに、発達障害の検査を受けられるクリニックだった。そこで、また発達障害の検査を受けたが、前の検査から2年くらい経っていた。検査の中身自体を覚えていては意味がないので、検査と検査の間が2年経過していて、私にはちょうど良かった。結果は同じようなものだった。丁度、何が秀でていて、何が劣っているのかが分かりにくく、「広汎性発達障害」だった。その時はやっと分かってもらえる場所が出来たかもしれないと思った。その病院では、医師の診察、臨床心理士のカウンセリング、リワークという勉強会があった。リワークで何をするかというと、発達障害で、人間関係がうまくいかない人達が仕事を休職したり、退職したりした人達が、自分達の発達障害の特性やその特性を活かしてどう健常者と付き合っていくかの勉強だった。臨床心理士による授業で、毎日授業が3時間あったが、中々午前の部には朝起きられなくて出席できなかった。ここではまず、雑談が授業の一環だったおしゃべりな人や、人と話すのが好きな人もいたが、中々自己紹介も小さい声で、一言二言の人もいて、私もこの自己紹介前には、今日は何を言うか、手短に言わないと聞いてもらえないから、クリニックに行って、授業が始まる前に考えた。自己紹介は毎日来ていない人もいるので、毎回することになっていた。自己紹介に間違いはないが、間違えて変なことを言っちゃったらどうしようとか思って、毎回緊張した。
授業で、まず雑談のグループに分かれて、何かをテーマにして話しましょうと、先生の指示で、4人ずつ分かれて話すことになったのだが、そのうちの一人が、急にアイドルの話をしだした。その人は、チームに分かれる前の本当の雑談で、そのアイドルについて話していたので、この雑談というテーマでも、アイドルの話がしたかったのだろうと私は思ったが、私ともう一人の男性も黙っていた。お互いなぜ、そのアイドルのよく知らない話を、知らない者同士で話さなければいけないのだろうと思ったが、もう一人の男性が、「アイドルの話はみんなが知らないかもしれないから、別の話のほうがいいんじゃないかな。」と言ってくれた。黙っている私ともう一人の男性は、どちらかというと、受け身で、アイドルの話をやめるよう言った男性は、健常者に近い感じがした。アイドル発言の人は、発達障害が重度なのかなと思った。その後もアイドル発言の人は、テーマを考えてくれだが、温泉の話をしようと言いだした。ここでも、先ほど、黙っていた私ともう一人の男性は、黙ってしまった。今思えばコミュニケーションが取れていないので、私は自身を中度の発達障害かなと思った。そして、健常者に近い人が、「それもちょっとね」と言ったので、私はたまらなくなって、「みんなに共通している発達障害の話をしましょう」と言った。テーマは決まったが、みんな自分の話はしたくない中で、そこで時間切れになってしまった。
この授業で、なんとなく分かったことは、そもそも他人の話に興味を持つことだろうということだと思った。そして、よく言う空気を読むということ。その場でキャッチボールができなくて苦しんでいて、苦しんではいるが、その自覚がない、又はなんとも感じていないということを回避するための与えられたテーマであったが、あまり学習できなかった。私は、周りを見回して話している人の話をみんなが興味を持って聞いていそうだなと思ったら、自分に関係のない話でも、若干前のめりになり、よく頷くようにしている。だが、これが自然にやっているわけではないので、脳が非常に疲れる。
そもそも、何でも受け身なので、子供の頃、昔から親に言わなければいけない学校行事など、聞かれないと答えない。なんで言わないの?と言われても聞かれていないのに、何を言うのだろうと、子供のころは思っていた。大人になってそれは自然に減っていったが、私が子供のころは、専門医など身近におらず、当然、教師もそんな障害があるとは思っていなかっただろう。落ち着きのない子、忘れ物ばかりする子、他はさぼっているか、鬱やひきこもりと思われていた。だが、私は落ち着いて座っていられたし、宿題も含めて、忘れ物が殆どない子だった。ただ、衝動性があり、友人が話している最中に話を遮ったり、違う遊びをしたりはあった。だが、それにも私なりの言い分があり、周りは突然と思って私をみるが、他人の話を聞いていて、私の頭のなかで、その話の共通点を見つけて、それが頭の中で、まとまったら、私は喋りだしていたのだ。周りからは、自己中心的、話しづらい人と感じた人達が多くいたと思う。あと、衝動性の特徴としては、順番を待つのが苦手で、高校生時代に、一緒に帰っていた友人が、「ファストフードを買ってくるから外で待っていて。」と言ったので待っていたが、あまりにも待たされた気がしたので、黙ってそのまま一人で帰ってしまったことがある。この話を親にしたら、すごく怒られたが、なぜ怒られているのかわからなかった、友人も変わった人だったのか、次の日、その話をすることもなく、仲が悪くなることもなかったので、ますます親の怒りが分からなかった。
どちらかというと、私はASDの方が強く症状として出ていると思う。前に書いたように、予定の急な変更や新しい道を覚えたりすることが苦手だ。道を覚えたら私にとって、その道がスタートからゴールへの道のりであり、へたに近道を教えられたりすると、覚えられなくて混乱し、余計にゴールまでの時間がかかる。
あと、表情の変化が乏しく、自分が思っているより、楽しんでなさそうとか、面白くなかったんだねと言われる。姉と夏フェスに行った時も座って見ていたせいか、「初めて夏フェスにこれてよかった」と私の心は満面の笑みだったが、姉には疲れているだけにしか見えなかったようだ。今は写真を撮る時は、私は全力で笑顔を作るが、撮れた写真を見ると、微笑んでるくらいになってしまっている。昔の写真を見ると、殆ど笑っていない。真顔で、7歳の七五三に撮った写真が、一番自分の中で残っている無表情の写真だ。親も緊張していたのだろうと、何も言わなかったし、なんなら一緒に写っている、姉のほうが素晴らしい笑顔に写っている。
細かい分類は私には分からないが、重度の発達障害の人に「子供をみておいて」というと、じっと子供のことを見ているだけになってしまう。本人は、言われたことをやっているので、その人にとっては、何の問題もないが、本来子供を見るとは、子供の面倒を見たりして、世話をすることである。
他には、「庭の草花に、適当に水をやっておいて。」と言われたとしたら、発達障害者は、「テキトーってどのくらい?」と迷う。庭いっぱいに水をやる必要はないが、花が乾いていそうなところだけ水をあげるとか、軽い気持ちで必要な範囲に水をあげればいいのだが、これもまた難しい。
他に、そんなに仲良くない、例えば、仕事関係者などのプライベートではあまり接しない人との雑談で、例えば相手が、「そろそろ掃除機が壊れかけだからほしいんですよねえ」と言うと、次に会った時に、「掃除機を欲しがっていたでしょ。」とプレゼントをあげたりする人もいる。送られた方は、驚き気持ち悪いとかまで思われてしまうかもしれないが、発達障がい者は、欲しいって言っていたのに何故?となる。
そのほか、私の実体験で、男女数人で食事をした後、そんなに仲良くない人と帰りの電車が一緒だということが分かったので、私は「(同じ帰り道を前と後ろで歩くのもへんだから)途中まで一緒に帰りますか」と言って、一緒に帰ったが、電車のなかで、「親しくないのに怖いとか思わなかったんですか」と聞かれたので、「(一緒にいる時間は電車の中だけだし、人がいっぱいいるので)思わなかったです。」と言った。
この人が、良い人なのかそうでない人なのかとかあまり考えていなかった。
あと、本で読んだのだが、たまたまパーティーで話が盛り上がった男性が、外に出て風にあたりませんかというのは、二人きりになりたいというサインらしい。私が同じ状況なら、文字通り風にあたりにいくだけである。
前述のクリニックのリワークで、先生が慰めのように言っていたことがある。それは、発達障害の有名人に会えることである。調べないと、その有名人達が、発達障害を矯正してなんとか克服していることが分からないし、私からすれば、そういう人はラッキーだと思う。ゴッホも発達障害者だったそうだが、生きているうちに報われなかった人生なので、あまり羨ましくはない。そのほか、スティーブ・ジョブズとか、サッカー選手のメッシ、俳優のダニエル・ラドクリフなどがいるが、私は凡人以下で、人より努力しないと生きていけないので、今まで努力の方向性が間違っていたんだなと思う。
私の勘違いは他にもある。お店で買い物をして、「いつもありがとうございます。」と言われて、私、このお店に2回しかきたことないのになあとか、「神社でお守りいただいてきたわ」と叔母が言ったので、私は「え!たたでお守りがもらえたの?」とか発せられた言葉をそのまま受け取ってしまっていた。。最近は少なくなったが、他人に「最近どう?」って聞かれたりしたら、昔は最近は調子が悪いからあんまり言いたくないなあとか思って、もごもごしていたが、今は、「おかげさまでぼちぼちやっています。」とか何とか言って、ごまかしている。しかし、医者にかかっていて、精神科にかかっていると、特に「この期間はどうだった?」と聞かれるが、今でも答えるのが難しい。実際にあった話か、私のメンタル面を言えばいいのか、薬について、十分聞かなくてはいけないのかなど、悩む。だいたい鬱の時には、病院に行くだけでもしんどいので、思考が止まって何も言えないことがある。
今は自分が発達障害の自覚があるので、人を怒らせることも少なくなったが、昔、久しぶりに会った姉が髪の毛を切って、「どう?」と言わんばかりに見せてきたが、私は思わず「なんでそんなおばさんパーマかけてるの?」と言ってしまい、姉を怒らせてしまった。私は、肉親として、事実を言ったほうが、姉が恥をかかずに済むからよかれと思って言ったのだが、この一言では、悪口のようにも聞こえていただろう。私はさらに、「家族じゃないと言ってくれないよ。」と、どうだ!という感じで言ってしまい、さらに姉を怒らせてしまった。後々、友人と会った時、似合わない口紅をしていたのだが、思ったことを一端頭に置き、「息子がプレゼントしてくれたんだ」と言っていたので、その事実だけを言おうと思い、「息子君にプレゼントもらってよかったね」と言えた。
曖昧さも私の中では、難しい。例えば「昼頃そちらに行くね」とか「適当にご飯食べてから行くね」とかは、曖昧さのオンパレードだ。昼間は長い。適当にご飯を食べてくるということは、こちらでがっつり食べるという意味なのかなど、時間指定、何かをいるのかいらないか細かく言ってほしい。
私は子供のころから褒められたことがなかったような気がする。父の私の褒め方は、「よし、認めてやろう。」という言い方だった。「よかったね」とか「うまくできたね」とかそういう言い方をしてほしかったのに。なぜ父に認めてもらわなければならなかったのか、私の世代が古いから、暴力もふるわれた。父が暴力を振るった後の口癖は、「そんなんで死ねへん」だった。
自分が発達障害だと分かってから、FACEBOOKで「こどもが発達障害」のコミュニティがあったので、私は自分が発達障害の子供目線でしか話せないが、このコミュニティに入れてほしいと書いた。承認され、たくさんの親御さんが、特に二人以上のお子さんがいて、片方だけ、発達障害の親御さんが苦しんでいる例がたくさんあった。発達障害のお子さんで、アトピーも持っている親御さんは、健常者のもう一人のお子さんは、曖昧な言い方でも言うことを聞くので、その差が理解できないようだった。アトピーで痒いからかいてしまう子供に掻いてはだめと言っても、何故掻いてはだめなのかをお子さんに言っていないため、尚更怒ってしまい、悪循環になっている様子だった。ストレートに言って分かる年齢だったので、私は、図々しくもアドバイスした。あと、急に暴れるお子さんをどうにも止められないという親御さんがいて、後から子供に聞いたら覚えていないというが、嘘ではないかという悩みを持ってらっしゃって、覚えていないわけないのにという投稿があったので、私は自分の経験として「信じてください。経験者です。本当に覚えていないのです。その時の記憶がすっぽりぬけおちているのです。」と、投稿した。実は私の母を私が外まで走って追いかけて、恐らく暴力をふるおうとしたらしく、気がついたら、自分の部屋だったということが一回だけあったのだ。うまく自分の思っていることを伝えられないう上に、母は私が話し出すのを待ってくれない人で、力でねじふせようとしていた。。その頃、私は摂食障害も抱えていて、がりがりに細くて、力もなかった私の言ったことを母が拒否したら、頭の中がぐちゃぐちゃになり、憎悪で母に向かっていっていた。こんなことが繰り返されていた内の一回が、記憶を失くす程、大きな憎悪になってしまったのだ。その後、母は私を恐れ、後に家から出て行って、父とも離婚した。今母がどこに住んでいるのか分からないし、私も探すつもりもない。今度、母と会う時があるのだろうか。お葬式にも参列したくない。
他の発達障害のコミュニティにも顔を出したが、50歳の男性が、「今更発達所外と言われてどうすればいいんだ」という書き込みを読んだ時、私は心からその通りだと思った。私には共感することしかできなかった。発達障害の子供の親のコミュニティも、話が重すぎてだんだんしんどくなり、退会した。
その頃、ツイッターでも、発達障害の投稿が多かった。でもそれは、発達障害者に理解のない発達障害者と共に仕事をする人達の発達障害者への悪口ばかりだった。本人に言えないから、こんなところでうさばらしをしているのかと、気分が悪くなった。健常者でも非常識な人はいるし、発達障害と周りに思われていない隠れ発達障害者だっているはず。そして、なぜ、付き合い方や障害の理解を深めてくれないのだろう。発達障害者は、障害者だからといって、甘えているわけじゃないし、人一倍努力している人が多いはず。一時期、発達障害がブームになっていた時期があったが、自分が気にいらない人を発達障害にしてしまうような流れの時もあった。
リワークを受けて、私は順調に発達障害の特性を知っていった。自己紹介が長い人がいて、みんなの興味が逸れていくのが、手に取るように分かり、冷や冷やしたこともあった。
そんなある日、クリニックが放火された。私はそれを、担当の訪問看護師に電話で聞いた。テレビを点けると、中継でクリニックから煙が出て燃えているのが分かった。私は医師が生きているかどうか分からなかったが、当分この病院では薬はもらえないから、病院を探さなければなと思った。私を担当するケアマネージャーにすぐ連絡をとり、病院を探してもらった。幸運なことに病院がすぐに見つかり、私はほっとした。この火事のニュースは、一週間くらいテレビでやっていた。リワークの時間帯に起こっており、院長とスタッフを含め、26人の患者が亡くなった。クリニックは狭かったので、亡くなった方々はどんな思いで、息絶えたのかと思うと気持ちが沈んだ。だが、悲しくはなかった。テレビではその医師が良い先生で患者が泣きながら、病院の前で献花していた。私にはそれは理解できなかった。その先生は、私には塩対応だったし、目を見て話すこともなかったので、診察はいつも5分くらいで、中には20分近く診察室にいる人もいたが、何を先生に話すことがあるのだろうと首をかしげていた。私がこのクリニックに通ったのは、医師の薬の処方、発達障害を専門にしている臨床心理士のカウンセリング、リワークというデイケアに区分される勉強会全てが整っているシステムがあったからだ。
私は、悩みは殆ど、カウンセラーに話していたし、先生と話すことは殆どなかった。しかし、その反面、薬の処方には先生に完全に任せる信頼をおいていた。
悲しくないことが駄目なのか、すごく悩んだ。せめて人前では、悲しいふりをしなければいけないのかとかいろいろ考えた。私は先生を称える気もないし、嘘はつけない。加害者の人がリワークにき来ていた事があったのか分からないし、カウンセリングを受けていたかも分からないが、もしかして、私が思うように先生の対応が塩対応だったのか、先生やカウンセラーが福祉に繋いでくれなくて、孤独になったままだったのではないかと、色々考えたが、真相はわからない。私はラッキーだったかもしれない。カウンセラーが社会資源につないでくれて、困った時は最低限助けてもらっている。私も家族とは付き合いがないし、加害者の人と境遇が似ている。加害者の人は、罪を犯し、刑務所に入っていたりして、社会に戻りにくい環境にあった。どうしていいか分からない人に、そちらから助けを求めてくださいというのは、私は、実に酷であると思う。何を求めていいのかの知識がなければ、助けを求められないし、私も笑顔でケースワーカーに、「何か困ったことがあったら言ってくださいね。」という言葉に無責任さを感じたことがある。
テレビでこのニュースの特集を何回か観たが、先生を忘れられないのが、まるで宗教の教祖を亡くしたような感じに見えた。私はもう忘れたい。思いは人それぞれだが、それはニュースでやることではなく、個人個人でやっていくべきことだと思うからだ。ただ、亡くなった26人のご冥府をお祈りしたい。
発達障害である私は、手先が不器用で、ネックレスのホックをかけられなかったりする。中にはスニーカーの紐を結べない人もいる。
あと、自分の身なりにあまり関心がないことがある。中学性の時に同じクラスの男子生徒に、「お前、髪の毛くらいとかしてこいよ。」と言われた事もあり、それでもけろっとしていた事があった。靴下も白色を履いていたが、よく見たら、無地の靴下と線の入った靴下を片方ずつ履いていたりして、それをあまり自分では気にしていなかった。
今では、服装も気にするようになったが、前日から明日着ていく服を決めている。化粧もTPOに合わせてなんとかしているつもりだ。
光にも苦手感がある。太陽の光だ。サングラスをしていることが多い。屋内の光は私は大丈夫だが、中には、スーパーやコンビニの光が苦手で、買い物に行けない人もいる一方、そういう人がいることを知って、時間帯を決めて、屋内をやや暗くして、営業する時間をもっているドラッグストアなども、私は知っている。だが、朝9時から10時までと、とても時間は短いし、朝早くから行きにくい時間帯だ。海外では、光が苦手な人が多く存在することが認知され、店内を暗くする時間を持つお店が増えているようだ。
発達障害は知識がないと、時に家族を崩壊させ、その人を孤独に追いやることがある。今は、ネットという全世界と繋がれるものがあり、知識だけでなく、友人を見つける事も可能である。発達障害のコミュニティなどもあるが、親が会いに来ている内は、本人は苦しんでいるか、自分が発達障害であることに気がついてなくて、悶々としている頃だろう。
私は発達障害特有の自分の正義を貫いて、家族と疎遠になった。ある人に、「お前の言っていることは正しいが良いとは限らないよ。」と言われ、何かはっとするものがあった。正しくないけど、良いと思って優しい嘘をついたり、やんわり言うことが必要なのかもしれない。私は相手の嫌味や遠回しな言い方が分からないので、せめて、自分は人を傷つけない言い方、事実だけ言うなど、努力していこうと思う。一生付き合う障害だから。