負の歴史に見るエゴからの脱却

昭和20年8月6日広島、8月9日長崎に原子爆弾が落とされた。

私は太平洋戦争を中心に日本ならびに世界の負の歴史を知ることが好きだ。

好きだというと語弊があるかもしれないが、負の歴史の上に今の世界情勢があり、ひいては私たちの暮らしに繋がっていると思うからだ。

現在はロシアのウクライナ侵攻やパレスチナ問題が顕著だが、これらの露出の陰に隠れて他にも様々な国と地域で紛争、内戦などが起こっていることもまた痛切な事実だ。

太平洋戦争が起こったのは私が生まれる41年前のことだが、学校で歴史の授業を受けたり祖父や祖母からなんとなく話を聞いていたので認識してはいたが、こんな悲惨なことがわずか41年前に起きていたのかと思うとにわかに信じられない気持ちになりあまりの現代とのギャップに驚きを隠せず、もっと知りたいと思うようになった。

ある時市民センターのような建物の催事場で原爆被害者の生々しい写真が展示されていた。

現実を見ろと言わんばかりのその写真に私は目を覆いたくなる気持ちを抑え、一枚一枚と向き合った。

その催事場を出た後とてつもない怒りと悔しさと悲しみ、そして今自分が健康でこの場に立てていることへの感謝、相反する気持ちでごちゃ混ぜになりながらしばらくショックで呆然としていた。

人類が誕生してこのかた戦は避けて通れなかったのであろうが長い歴史の中で原爆が落とされたのは日本だけだ。

もう原爆論争なんて終わりにすべきなのかもしれないが、私は絶対に原爆なんて落とすべきではなかったと思うのである。

原爆を落とさなければ戦争は終わらなかったという某国の言い分はなんて都合のいい自己弁護だと思うのだ。

そしてもう一つ引っかかっているのが当時の昭和天皇の終戦後の発言である。

「原爆投下はやむおえなかった」

こう仰ったのである。

この発言の背景には陛下が背負ってきたものがきっとあるに違いない、そう思わないと受け入れられない発言だった。

私は死ぬまでに原爆ドームや知覧特攻平和会館を訪れなければならない。

歴史に触れるとき、決まって日本人としての血のようなものが私を駆り立てる。

過去からも現在からも目を逸らしたくはない。

他者への思いやりを忘れ利己的になると憎しみが生まれる、それがやがて戦争に発展するのだろう。

もちろん争いのかたちはこの限りではなく、社会の矛盾を変えようと正しい運動を起こすこととはまた別問題である。

しかしこれらを含め今何が起きているかを「知る」ことで人は思考し行動する。

今日一人一人がそれを意識づけることで大きな力となり、社会に建設的な影響を及ぼすことを信じてやまない。

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chiho

自分の感性に従いエッセイ風になぞらえて気持ちを吐露します

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