発症する
私は8年前に脳梗塞を発症しました。
その病気は既に旧知の病気で、祖母が60代で発症して以来、70代で再発をし既に寝たきり状態になっていました。
聞いていた症状によると、頭に激痛が走り倒れると言うものでしがしかし、私の症状はそれとはまったく違っていました。
発祥当時、入院する祖母の洗濯物を取りに行ったり、認知症の母を連れて外出付き添いをしたり、子どもの部活の手伝いをしたり、日々、私はストレスを抱えていました。
冬のある夜、夕飯の食器を水で洗っていたところ、手にしびれを感じ、それを「冷たい水で食器を洗ったせいだろう。」と思い放置してしまいました。
やがて、身体にだるさを感じ、日中も寝ている事が多くなりました。
脚がもたつくようになり、言葉も呂律が回らなくなり、さすがの私も病院外来をしました。
最初に行った内科で
「この症状は直に脳神経外科に外来した方が良い。」
と言われ、私は弟に付き添いを頼み、その足で脳神経外科に外来しました。
脳神経外科に外来すると、血圧200を超えていた私は直に、ICUに入院になりました。
点滴をされ、オムツを掛けられ老若男女混合の病室に入れられたことは女性の私にとって屈辱的でした。
その時、私は自分の脚が立てなくなっていて、自力でトイレに行けないことを自覚していませんでした。
一般病棟とトイレ
2週間後、一般病棟に移って暫くして、オムツ交換からポータブルトイレのお世話になりました。
徐々に車椅子で自力でトイレに行けるようになりましたが、看護師さんをその度に呼ばなくては成りません。
看護師さんが直に来てくれる訳が無く、私は待ち切れず粗相をしてしまいました。
まだ、オムツはしていたので、外に漏れる事はありませんでした。
リハビリスタート
洗面が自分一人で出来るように成ると、リハビリが始まりました。
個人の病状によってリハビリの種類が違いますが、私の場合は言語、手、足のそれぞれ、1時間のリハビリを受ける事になりました。
脚のリハビリは補装具という歩けない脚を補助する器具を装着し、作業療法士のワンツーマンによる歩行訓練とマシーンによる筋肉の強化。
利き手は重い物に耐えられるようにウエイトを持ち、何度も施設内を歩きました。
麻痺手はタオルでテーブルを磨く動作を繰り返し、機能低下をふさぎました。
初めて、麻痺手の薬指が動いた時には泣き泣き周囲の人々に報告したものでした。
誕生日と老婦人
自分の誕生日2ケ月前に入院した私は誕生日当日を病院で迎える事になりました。
もちろん、ケーキやご馳走を食べる事が出来ず
「なんで、私はこんな身体になってまでも生きているんだ?一生この不自由な生活をするくらいなら死にたい!」
とばかり思っていました。
そんなマイナー思考の私を変えてくれた一人の老婦人が居ました。
彼女は個室に一人「リウマチ」という病気で入院していました。
「リウマチ」と言うのは関節が炎症を起こし、軟骨や骨が破壊され、関節の機能が損なわれ、放っておくと関節の形が変形してしまう病気です。
腫れや激しい痛みが熱を伴い動かさなくても痛みを生じます。
そんな症状にあっても彼女はいつか、ご主人と一緒に好きな山登りをして、山菜を採りに行きたいと夢を語りました。
私は彼女の夢の話を聞きながら
「私にも夢があったはずだ!」
と気付かされました。
退院に向かって、それからの私は毎日のリハビリを頑張り
「子どもの誕生日までには退院しよう!」
と目標を決めました。
私は何段階もの課題をクリアし、入院してから半年、子どもの誕生日前に退院する事が出来ました。
私はその後、退院した後の方が辛いと言う事を嫌というほど味わいました。
入院していたら分からない家族との葛藤・摩擦、日常生活の困難、健常者の目、再就職の困難、合併症のケア、骨折などの危険。
それでも、生きる
脳梗塞は再発率が高いハイリスクな病気です。
来年、脳梗塞発症後10年を迎える私は再発率50パーセントに怯えています。
しかし、今、B型事業所に通所している私は
「夢に向かって進んでいる。」
とハッキリ言う事が出来ます。