「空っぽ」のむなしさ
わたしはよく、気持ちが下がり気味な時に自分のことを「空っぽ」だと感じることがある。それが無性にむなしくて、ともすればこんな空っぽなわたしに価値などないのではないかとさえ感じてしまう。
むなしい、という言葉がある。漢字で書くと虚しい、と空しいの二種類があるそうだ。この二つは意味が違って、前者は「内容がない」、後者は「価値がない」ということらしい。
空しい、とはなんとそれらしい言葉だろう。空(から)のわたしには価値がないとは、当たり前のことなのだろうか。
さて、今回の絵を描いたとき、わたしはまさに「空っぽ」だった。なにが楽しいのかも、なんのために生きているのかもわからず、ただただ言われるがままに絵を描いた。
そして出来上がった作品がこれだ。わたしはなんと「空っぽ」な絵だと思った。前回の「体温」のように伝えたいものもなければ、こだわって描いた箇所もない。ただただ手の動くままに、描いた絵は、わたしをそのまま表したような仕上がりだった。
「空っぽ」とは本当に価値がないのか
しかし、この絵をみた幾人かが、「とても綺麗な絵だね」と言った。
これは、わたしにとって大変な衝撃だった。「空っぽ」で価値のないわたしが生み出した、「空っぽ」で価値のない絵、ではなかったのだ。綺麗、なのだろうか。その言葉は、絵を超えて、まるでわたし自身の「空っぽ」を綺麗だと言われたような気がした。
「空っぽ」には価値がない、その前提を崩されたわたしは、戸惑いとたしかな喜びを覚えた。自分は生きていいのだ、そう思える気さえした。
もう、この絵を眺めるわたしは「空っぽ」だが空しくはない。まるで矛盾しているようだが、そうではないのだと知ったから。
今、この絵を見ているあなたは、どのように感じただろうか。その心に浮かんだものが、そのままあなたの中の「空っぽ」の価値なのかもしれない。そう思うわたしです。