これはあるお笑い芸人のお話。
劇場はほとんど空席で、観客は数えるほどしかいない。そんな閑散とした空間
の中、舞台上対照的な二人組が漫才をしているではスラッとしたイケメンと
頭頂部が薄く恰幅のいい体型の男。二人の掛け合いがクライマックスを迎え
イケメン方が「ということで!」と勢いよく声を張り上げ、漫才を締めくくっ
た。その瞬間、司会者が舞台からマイクを持って司会は「以上、ツーリズムの漫才でした」と、やや早口で締めくくり、ツーリズムの紹介を終えた。客席から「パチパチ」と拍手がまばらに起こるには起こったが、それは沈黙を破るための形ばかりの音だ。会場を見渡せば、ほとんどの聴衆が大きく欠伸をかみ殺している。熱狂とは程遠い、気まずい空気が会場を覆っていた。二人組は舞台裏へと駆け降り、そのうちの大吾がネクタイを緩めて「ホッ」と息をついた、まさにその瞬間だった。先ほどまで司会をしていた男が、苛立ちを隠せない様子で手招きをした。
「ちょっと大吾!良平!」
「はい、支配人」二人は反射的に声をそろえた。
支配人は二人に人差し指を突きつけながら、低い声で言った。「お前達、このままだと、この劇場で漫才が出来なくなってしまうかもしれないよ」
「待ってください俺たちこの劇場ができてからずっとここでやってきたんですよ」
「でも最近活きのいい若手が出てきてね、このままじゃちょっと・・・うちも客あっての商売だからね」
「俺たちだって若手ですよ」
「分かりました。何とかやってみます」
良平が言ってドアを閉めた。
「はぁ……とは言ったものの、支配人が俺たちを見捨てるわけがないって。わかってないのは客のほうだよなぁ、良平!」
大吾は同意を求めたが、良平は人差し指を突きつけながらすぐに返した。
「わかってないのはお前だ、大吾」
「悪いな大吾、ちょっとトイレ」
良平はそう言って席を立った。
「いってこい。ん?」
大吾は、良平が席を立ったことで気づいた周りの異変に目を向けた。それは、先ほどから言い争っていた男女の会話だった。
男性は冷たく言い放った。
「お前とは別れる」
女性は言葉を失ったように尋ねた。
「なんで? 意味が分からない」
男性は、何も答えずにスタスタとその場を離れようとする。
「ちょっと待ってよ!」
女性が引き留めようと手を伸ばした、その時だった。女性の手からスマートフォンが滑り落ちた。
大吾はすぐさまそれを拾い上げ、声をかけた。
「あの、スマホ落としましたよ」
「ありがとう」
女性はそれだけ言って、彼を追おうとした。
大吾は思わず声に出していた。まさに一目惚れだった。
彼はためらいなく美里の傍へ歩み寄り、少し強引に声をかけた。
「君、名前は? 俺は、大吾っていうんだ」
美里は、予期せぬ闖入者に戸惑いながらも、短く答える。
「美里」
「あんな男、やめときなよ」
大吾は、美里を困らせていた男を一瞥し、はっきりとした口調で言った。その表情は、普段の彼からは想像できないほどキリッと引き締まっている。
美里は反論した。
「何よ、あなた? 見ず知らずの人に、そんなこと言われる筋合いはないわ」
美里は感情的に言葉を継ぐ。
「だいたい、あなたに人の顔をどうこう言われる覚えはないわ! 鏡でも見てから出直したら?」
美里の激しい言葉に、大吾は面食らい、言葉を失う。
良平が、ごく自然な笑顔でトイレから戻ってきた。 「悪い、待たせたな」
良平は、その場が異様な雰囲気であることに気づかない。美里は黙って立っている。そして、大吾は――まるで石像のように固まり、さっきのショックを全身で引きずっていた。
「うん? どうしたんだ、お前たち?」
美里が戸惑いながらも、ことの顛末を良平に小声で伝えた。 「実はね……さっき、この人が」
話を聞き終えた良平は、大吾に向き直って人懐っこい笑顔を浮かべた。 「気にすんなよ。男は顔じゃないって、俺はそう思うけどな」
良平は、その整った顔をキラキラと輝かせながら、あっけらかんと言う。
「……イケメンのお前に言われても、これっぽっちも説得力が無い」 大吾は、良平の顔を見て、諦めと羨望の混じったため息をついた。 「いいよなー、顔がいいって」
「なんだよ、急に」良平は戸惑う。
大吾は、まだ残る美里の言葉の傷を隠すように、少し意地悪な質問を投げつけた。 「女を振ったこと、あるんだろ。どんな気持ちなんだ、女を振るってのは」
大吾は、美里に浴びせられた言葉の痛みを忘れるように、手のひらをマイクに見立てて良平の口元に突きつけた。
「さあ、**架空のテレビ局『TKO』**がお送りします! 良平さん!イケメン代表として、女性をフる瞬間の心境をどうぞ!」
良平は、大吾のふざけたノリに付き合い、カメラ(大吾の目)に向かって顔を輝かせた。 「えー、そうですね。どんな気持ちって……」
良平は一呼吸置き、明るく答える。 「シンプルに、その人と、人生の価値観が合わなかった。ただ、それだけですよ!」
大吾は、そのあまりに軽薄で模範的な回答に、一気に現実に引き戻された。 「本当に、それだけか?」
大吾は、インタビューモードを解除し、良平の肩を真剣な目つきで掴んだ。
良平は、大吾に肩を掴まれたまま、少し困惑したような表情で、それでも明るく答えた。
「お前は、顔がイケメンの人の体が、それだけかも知れないけど、女はな」
大吾が、さらに大きく主張した。 「そんなことない! 例えば、金持ちとか、そんなことないって思うぞ!」
良平は、大吾に両肩を掴まれたまま、何を言っているんだ、とでも言うように顔を輝かせた。 「金はない!」
「もしも、お前をフるやつがいたら、俺がガツンと言ってやる」
大吾は、美里に言われた言葉を思い出しながら、良平に問いかける。 「『いいよ』って、お前が行くと、女がお前のことを好きになって余計ややこしくなるから」
良平は、大吾の真剣な言葉を、まるで聞いていなかったかのように、いつもの調子で口を開いた。 「それよりさ、お前のデブをネタにさせてくれよ。頼む!」
「それよりもって……」 大吾は、自分の深刻な悩みが一瞬で上書きされ、再度大きなショックを受けた。 彼は数秒間、良平の顔を見つめ、考えた末に叫ぶ。 「嫌だ!」
「じゃあ、ハゲを」 良平は、大吾の抵抗を無視して、さらに追い打ちをかける。
「もっと嫌だ!」大吾は、ますます強く反発した。
「なんでだよ! 最高のフリじゃんか!」良平は、本気でネタが欲しいようだ。
大吾は、青筋を立てて、この議論の核心を叫んだ。 「俺は、人を笑わせたいんだ! 笑われたいんじゃない!」
良平は、静かに大吾の肩に自分の手を置いた。そして、少し真面目なトーンで、残酷な言葉を放つ。 「じゃあ、俺たち、解散な」
「おい! ちょっと待てよ!」 大吾は、良平の手に掴みかかった。 「俺の喋りじゃ、人を笑わせないってのかよ!」
良平は、その整った顔をまっすぐ大吾に向け、迷いのない一言を浴びせた。 「そうだよ」
「ふざけるな!」 大吾は、美里に顔を罵倒された時よりも強く、全身の血が逆流するような怒りを覚えた。
