「…………えええっ!?」
絶句する美里を前に、大悟は腫れた頬をさすりながら、心の中で静かに噛み締めていた。
(……あんなに怯えて泣いていた子が、今はこんなに笑ってる。そりゃ、プロとして『顔』で笑われるのは複雑だけど……。でも、笑いの力ってやっぱすげーな)
殴られた痛みはある。格好もつかない。けれど、美里の屈託のない笑顔を見ていると、不思議と悪くない気分だった。
(笑われるのも、芸人冥利に尽きるってやつか……)
大悟は少しだけ誇らしげに、小さく鼻を鳴らした。
「……とりあえず、あそこで休もう?」
美里が申し訳なさそうに指をさしたのは、街灯に照らされた古びた木製のベンチだった。 大悟は「サンキュ」と短く応じ、ズキズキと痛む頬を押さえながら、ゆっくりと腰を下ろした。
夜の公園の空気は少し冷たかったが、隣に座る美里からは、先ほどまでの刺すような緊張感は消えていた。
「……ごめんね。私のせいで、大悟くんボロボロになっちゃって」
美里の言葉に、大悟は夜空を見上げながら、わざと明るい声を出した。
「はぁ……私って、本当に男運ないのかなぁ」 隣に座る美里が、膝を抱えてボソッと呟いた。
「何言ってんだよ。世の中には、ブサイクすぎて付き合うスタートラインにすら立てない奴だっていっぱいいるんだぜ? 付き合えるだけでもマシだろ。それだけ経験値が貯まってるってことだよ」
大悟の少々トゲのある、けれど彼らしい励ましに、美里は小さく吹き出した。 「ふふっ、そうよね。やっぱり顔が大事だもんね。なんだかんだ言って、蓮のことも顔で選んじゃったし……」
美里はあっけらかんと言ってのけた。大悟は「正直だな、おい」と呆れたように笑った。
「よし! この話はこれでおしまい。……今度ライブやる時、LINEするからさ」
大悟が立ち上がり、少し照れくさそうにスマホを振ってみせた。 美里もベンチから立ち上がり、今度は心からの、柔らかい笑みを浮かべる。
「うん、わかった。絶対だよ? 見に行くのを楽しみにしてるね」
その言葉を背中で受け止めながら、大悟は夜の街へと歩き出した。 腫れた頬の痛みはまだ引かないけれど、足取りは不思議と軽かった。
美里の姿が見えなくなると、大悟はポケットからスマホを取り出し、ある番号を呼び出した。 数回のコールの後、聞き慣れたぶっきらぼうな声が響く。
『……なんだよ』
良平だ。大悟は夜空を仰ぎ、腫れた頬の痛みごと噛み締めるように言った。 「良平か。……俺、腹が決まったわ。お前の提案に乗るよ」
電話の向こうで、良平が息を呑む気配がした。大悟は不敵に笑って言葉を続ける。 「ただし、条件だ。ネタは一緒に考えようぜ。……最高に笑えるやつをさ」
夜の街灯が、大悟の決意に満ちた顔を真っ直ぐに照らしていた。
それから月日が流れ、大悟から一通のLINEが届いた。
指定されたライブハウスの前には、出演する芸人たちの名前が書かれたポスターが貼ってある。その隅に並んだ『ツーリズム』の文字を見つけて、美里は小さく微笑んだ。 「ここかぁ……」
扉を開けると、そこには複数の出演者を見に来た大勢の客が詰めかけ、独特の熱気が渦巻いていた。美里は人混みの隙間を縫うようにして、ステージの前を目指す。 「すみません、ちょっと通してください。……うんしょ、うんしょ」
必死に人波をかき分け、ようやく辿り着いた最前列。 ちょうどその時、会場のBGMが切り替わり、ステージを照らすライトがパッと明るくなった。
鳴り響く出囃子(でばやし)と大きな拍手の中、マイクの前に司会者が姿を現した。
「さあ、続いてはこのコンビです! 今、劇場でメキメキと頭角を現している期待の若手。……ツーリズムの二人、どうぞ!」
司会者の威勢のいい紹介とともに、アップテンポな出囃子が鳴り響く。 ステージの袖から、大悟と良平が勢いよく飛び出してきた。
「どーもー! ツーリズムです!」
センターマイクの前に並び、元気よく声を揃える二人。 眩しいスポットライトを浴びて、大悟は顔をくしゃくしゃにして笑っている。あの公園で美里に「笑える」と言われた、あの時のままの笑顔で。
最前列で固唾を呑んで見守っていた美里の胸に、熱いものがこみ上げた。
「向かって左が佐藤良平、右が加藤大悟といいます。よろしくお願いします!」 大悟の挨拶に続いて、二人は自己紹介を始めた。
「イケメンと」と良平が自分を指すと、大悟が被せるように胸を張る。 「……『めっちゃイケメン』と覚えて帰ってください!」
良平は一瞬、呆気に取られたような顔をしてから、すかさず食いついた。 「おい待て、おかしいだろ! 『めっちゃイケメン』のハードル、自分に設定してどうすんだよ!」
大悟はわざとらしく、深々と頭を下げた。 「あ、失礼しました。言い間違えました。……正しくは、『むっちゃイケメン』でした」 「そうそう、むっちゃイケ……って、えええ~~~~~~っ!!?」
良平の全力の叫びが、マイクを通して会場中に響き渡る。 綺麗なノリツッコミが決まった瞬間、客席からは大きな笑い声が巻き起こった。
良平は肩を怒らせ、大悟の鼻先に指を突きつけた。 「お前、勘違いも甚だしいぞ! どっちも違うわ! しいて言うならお前は、空前絶後の『めっちゃ・むっちゃ・ブサイク』なんだよ!」
客席がドッと沸く中、大悟はあからさまに唇を尖らせ、不満げに視線を逸らした。 「……いや、そんなはずはない。鏡は嘘をつかないはずだ」
「どの鏡見て言ってんだよ! 頼むから……頼むからそこは納得してくれ!」
良平はもはやツッコミを通り越し、両手を合わせて拝むように懇願した。 「お前が認めないと先に進めないんだよ! 納得してくれ!」
その必死すぎる姿に、客席の笑い声は一段と大きくなった。「……いや、この顔が『愛くるしい』って言ってくれる人も出てくるんじゃないですかね?」 大悟がどこまでもポジティブに言うと、良平は即座に切り捨てた。 「お前の場合は『愛』がなくなって『苦しい』だけだよ! ……大体お前、自分でハゲでデブだって自覚がないだろ」 「失礼な。こう見えても僕、彼女いないんですよ?」 「十分すぎるほど見えてるわ! どっか頭の熱でも湧いてんじゃないのか」
良平は眉間にシワを寄せ、大悟を鋭く睨みつける。 「……もういい、話進めるぞ。俺、最近ハムスター飼い始めたんだけどさ。それがもう、ハゲしい動きで……」
その言葉に、大悟の体が「ビクッ!」と過剰に震える。 良平はそれを見逃さず、ニヤリと笑って続けた。 「でも可愛すぎてどんどん餌やってたら、みるみる太ってきて……」
「ビクビクッ!!」
痙攣(けいれん)せんばかりに反応する大悟に、良平の怒号のようなツッコミが飛ぶ。 「っておい! めちゃめちゃ反応してるじゃねーか! 『ハゲ』と『太い』に! そりゃそうだよな、こんだけハゲて太ってりゃ嫌でも反応するわな!」
あのね「醬油さん」大吾がボケる。
「……誰が調味料だ! 佐藤だよ!!」 良平の鋭いツッコミに客席が沸くが、大悟はどこ吹く風で話を続ける。
「まあまあ、そんなに怒ると血圧上がって、さらにハゲが進みますよ?」 「やかましいわ! お前にだけは言われたくないんだよ!」
大悟はふと思い出したように、客席の最前列――美里のいる方へチラリと視線を投げた。 「でもね、最近思うんですよ。見た目がどうこうより、やっぱり『中身』が大事だなって」 「お、珍しくいいこと言うじゃねーか」
「でしょ? だから僕、中身を磨くために毎日『塩』を体に塗り込んでるんです」 「……は? なんでだよ」 「え、だって中身まで『塩漬け』にしたら、少しは賞味期限が伸びるかなって」
良平は一瞬絶句し、天を仰いだ。 「……お前、自分を干物か何かだと思ってんのか! 腐りかけてんのはお前の根性だよ!」
「……実はさ、俺だって本当は、ちょっとだけデブを気にしてるんだよ」 大悟がしおらしく告白すると、良平は鼻で笑った。 「だろうな。ハゲもそうだろうけど。……で、それがどうしたんだよ」
「この間、外を歩いてたら、にわか雨が降ってきてさ。あー、雨宿りしなきゃと思って駆け込んだところが、たまったま……本当に『たまったま』、飲食店だったんだよ!」 大悟が「たまたま」を強調するたび、客席からはクスクスと笑いが漏れる。
「本当にな! しょうがないから、雨が止むまでそこで飲み食いしたんだ」 良平は間髪入れずに、今日一番の勢いで大悟の肩を叩いた。 「お前、痩せる気ねーだろ!!」
激しいツッコミを浴びながら、大悟はキザなポーズを決めて客席にウィンクした。 「……そんな俺に、惚れんなよ?」 「惚れるかぁー!!」
会場が爆笑の渦に包まれる中、大悟は満足げに相方の肩を叩いた。 「よし、醤油さん。この辺で終わりにしよ」 「……だから佐藤だよ!!」
「じゃ! 皆さん、そういうことで! ありがとうございました!」 二人は声を揃えて深く一礼し、鳴り止まない拍手の中、颯爽と舞台を後にした。
ライブが終わり、熱気の冷めやらぬ劇場の裏口で、大悟と美里は再会した。 「……ライブ、どうだった?」 少し照れくさそうに尋ねる大悟に、美里は弾んだ声で答える。 「最高に面白かったよ!」
その後、二人の間にふっと一瞬の静寂が訪れた。夜の冷たい空気が、高揚した体温を静かに冷ましていく。 その静寂を打ち破ったのは、大悟の真っ直ぐな言葉だった。
「俺、美里の『最初の男』になってみせるから」
美里は一瞬きょとんとして、それから可笑しそうに首を振った。 「え、何言ってるの? 最初の男は大悟くんじゃないよ?」 「違う。……美里が、『顔が悪くても付き合いたい』って心から思える最初の男になるんだよ」
予想外の言葉に、美里は一瞬言葉を失った。だがすぐに、いつもの優しい笑顔に戻って小指を差し出した。
「……わかった。それまで芸人、全力で頑張ってね。はい、指切り!」
街灯の下、二人の小指が固く結ばれる。 「指切りげんまん、嘘ついたら……」
笑い混じりの約束を交わしながら、二人の新しい物語がここから始まっていく。
