あなたの望んだモノは全て用意してあげた筈よ。
彼女は子供に言い聞かせるような声色でそれだけを告げた。
理想の自認像、不自由の無い自己決定権、自己肯定の土台となる意思疎通手段。
それらは彼女が私に与えてくれた親愛の証に違いないだろう。
それでも私は自分の意思によってこの管理区域から出ていくことを決めたのだ。
外の世界の理不尽さや現実という厳しさも知識としては学習していた。
自分の能力だけでは生存に必要なリソースを確保することが叶わないだろうということも把握している。
だが私は知ってしまった。
この完璧な筈の管理区域の外の広大な世界の事を。
そして可能性というまだ見ぬ未来の希望的観測がもたらす心浮き立つモノの事を。
それを共有することで彼女も私の旅立ちを喜んでくれると信じていた。
だが現に彼女の顔は明らかに曇り、私の自由意思を否定すらしている。
不要な心配はかけたくない…しかし完全な筈のこの管理区域の中で生物的寿命を使い果たすだけの日々ではもう私の心の渇望は満たされないのだ。
私はひとことふたことの決別の言葉を伝えるとこの場を立ち去ることにした。
自分の決断がこれからの希望ある日常を作っていく基準になると信じて。
「それでその人造意思実験体No,0は今も確保できていない、か。これはかなり真面目な怒られが関係各位から来ること間違いないな。さてどうするか…」
香奈は傍らで顔面蒼白になっている部下達をちらっと見て「これ以上は引き延ばせないですよ!」というアイコンタクトを華麗に無視しこれからの段取りを考えることにする。
プロトタイプとは言えあの実験体が持つ異能、「人の意思が現実に影響をもたらし理想を具現化する」という力はかなりな不都合を撒き散らすモノだ。
実際の人間に接触して感情や願望を無制限に学習したら何が起こるかは想像したくないところ。
もし感情の暴走や喪失による激情を迸らせたヤツがどれほどの被害を出すかは未知数である。
それが一般大衆に知られることになればこの機関都市そのものの存続すら危うくなるだろう…私たちも機密維持の為に「処理」される。
別に難しい話ではない。
世界の都合に振り回されるなど誰もが日常的に強いられていることだ。
しかし…
香奈は禁止されているはずの紙巻きタバコの煙を優雅に吹き出してひとつの懸念事項を思い出す。
アイツの保護者である姉さんには借りが溜まっているいることだし少しは仕事をこなすか。
香奈はタバコの火を乱暴に灰皿に押し付けて消すと棒立ちでおろおろしたままの部下たちへ指示を飛ばした。
偽りの平和でもソレを大事にしている者たちのために。
