いつまでもあの人を忘れられない私も数多ある彼の形見のひとつでしか無いのよね。
その言葉が終わると同時にグラスの氷が乾いた音を立て、経過した時間の意義を問いただしているように感じた。
静まり返った深夜の行きつけのバーラウンジの空気が今は息苦しさを加速させるものでしか無い。
並んで座っているカウンターには空いたロンググラスが2つと手付かずのミックスナッツが寂しげに置いてあるだけだ。
いつもは空気を読んで話を振ってくれるマスターも今日の彼女の気持ちを汲んで気まずい沈黙を破ろうとはしない。
あとは私がそうかもしれませんね、でも自分の人生も大事にしてくださいとか適当に間を埋めて解散という流れで締めるのがいつもの最適解だ。
しかし今日に至ってはそのままこの場を流す訳にはいかなかった。
彼女が待ち続けている”あの人”の消息が絶たれて何年が経っただろう。
いつでも彼女は想いを断ち切って再出発する機会が何度もあり、その度に私が相談役となり持論を聞いてやはり現状維持という判断をしてきた。
今回もそのように彼女の現実逃避を許容し手伝うだけのひとときを過ごしていつもの日常に帰る、いつもの日常の変わらない通過儀礼を済ますだけな筈だった。
先程”あの人”からの秘匿通信が私のデバイスに着信するまでは、だ。
”あの人”である彼が国家機密を扱うエージェントとしての活動を始める事が組織内で異能事案対処を管轄とする私に通告されたのである。
それに伴い過去の人間関係や個人情報の清算が実行されるとも。
…そして自分とかなり深い関係にあった彼女の存在がこの先問題になると彼は言及した。
その言葉の意味を察した私は直接これからの可能性について確認したのだ。
”彼女を消すのか?”と。
それを聞いた彼は不自然な程機嫌よく肯定の言葉を吐いてそのまま一方的な通達を終えた。
デバイスが通信途絶をディスプレイに表示した後も私は感情を持て余し今も気が気でない状態なのだ。
私がこの場を立ち去ればすぐにでも「処理」は遂行されるだろう。
別にいつもと変わらない現実の在り様だ…変えられる力も権限も私には無い。
せめて彼の最後の言葉を彼女に伝えようとして私は彼女に向き合う。
そこで彼女の瞳に映し出されていた意思と決意の光がこれから何をもたらすのか、私は壮絶な思い違いを突き付けられることになった。
「それで異能者対策のスペシャリストである彼が一杯食わされたというわけで。彼女が現状何を要求してるの?」
アリスはオフの日程の中急遽呼びつけられた苛立ちを何とか抑えつつ報告を聞く。
「それがよく理解が出来なくてですね…一定期間自分たちに干渉しないで欲しいとかなんとか。現場のバーもウチの組織の暗部対処管轄の人間が運営してるんでこんなに簡単に籠城なんてできる訳ない筈なんですが」
アリスは末端構成員である部下の男のよくわからないゼロ回答に改めて苛立ちを募らせるが、とりあえず現状の把握からやり直すことにする。
何だかよくわからない内に暗部の人間が対処をしくじってよくわからない要求をされている?
しかも機密処理を委任された部隊も仲良くノックアウトされている?
理解できる要素がどこにも無く解読できる要素まるで無し。
ここまで組織の実務部隊を手玉に取れる人間が内密に処理される予定だったのもおかしな話だ。
これは荒事で解決すべき問題ではないな…
アリスは上役へのホットラインを起動すると現状の自己認識を説明して指揮権限の拡張を要請する。
その会話の中、上役の男の声が不自然に弾んでいたのを認知できなかったことが現場の人間のせめてもの救いだった。
