幻を追う

マキノ 草守

セイスケ 農民

オサト セイスケの妻

シンキチ セイスケの息子

 〇

 囲炉裏を囲んで芋粥と干し魚を三人で食べた夜が突如眼前に広がった。外では依然として雪が降っている。そうだ確か、厳しい寒さが続いた年だった。

「今日、俺も薪取りに行くの手伝いたかったけど、山は雪が深くて……」

「いいんだよ、シンキチ。ゆっくりで。お前が元気に育ってくれればそれでええのさ。ほら、粥をもう一口おあがり」女は微笑みながら、か細い腕で粥をよそった。

 〇

 夕暮れの里は穏やかな空気に包まれていた。茅葺屋根の民家がゆるやかな丘に沿って点在し、遠くには薄紫色に霞む山並みが見える。味噌と焚火の煙の匂いが混じり合い、マキノの鼻腔をくすぐる。少し坂を上ると、夕日に染まる畑の中で小さな子どもが草を抜いていた。薄い着物は泥で汚れている。

「あのう、ここらに宿はないかい?」

 マキノの低い声に反応し、子どもは作業の手を止めて振り向いた。真正面からよく見ると、顔も泥に塗れていた。

「ない。見ねえ顔だな」

「そうか。雨さえ凌げれば十分なんだが、それでも厳しいか?」

「そう言われても……わかった、じゃあうちに泊まってけよ」

 マキノは戸惑う。「そいつは有難いが家の了承がいるだろう」

「構わない、それにお前じゃなくてシンキチだ。金はとらないから来いよ」あそこが俺の家だ、と傍の民家をシンキチは指を指した。

 〇

 マキノとシンキチは囲炉裏を囲んで夕飯をとっていた。野営の連続で満足な食事はしばらくぶりで、マキノは炊き立ての麦飯にありつけた喜びでいっぱいだった。山を越える長旅で脚が震えるほど肉体的に疲弊しきっていたが、少しずつ身体が落ち着きを取り戻していた。客人の前だからと張りきったのか、シンキチは一人で、茄子の浅漬けから野草の味噌汁、ヤマメの塩焼きまで用意した。親の姿が見えないので一人で暮らしているのかもしれないが、その割に、料理はお世辞にも慣れた手つきとは言えず、見ていて冷や汗をかきそうになるほどだ。

「しかし悪いな、何から何まで」

「別に。ところでお兄さんは何してる人?」シンキチは茶碗を持ったままマキノに訊ねた。

「マキノでいいよ。僕は草守」

「くさのかみ?」

「そう」マキノは箸を置く。「草守ってのは一概に言っちまえば植物の専門家。里の薬草畑を管理したり、品種改良に一生を捧げる奴もいる。病気の症状に合わせて薬草を調合してやったり、大名や商人から依頼を受けて珍しい花を探したり、とにかく草木に関しちゃ色々任されてるそいつらをまとめて草守と呼ぶんだ。僕はその一人」

「じゃあマキノさんは花探しか? 旅人みたいだし」シンキチはマキノの背後に視線を送る。結び目が、丁寧に固く結ばれた木綿の風呂敷が静かに傍に置かれているのだ。マキノは先ほどまでこの風呂敷を肩にかけていた。荷物を置いた際、乾いた墨の匂いと、微かに薬草の香りが漂った。

「いや、僕は日本国を北から南まで歩き回って*本草図譜を作ってる最中なんだ。トクガワってお偉いさんの命令でね」

「はあ。すげえんだなマキノさんは。そんじゃ紙も使いたい放題だ」シンキチは心底感心した様子だった。「だけど、命令つってもどうして作ってんだ?」

「そりゃ」マキノは笑った。「安心のためだろう。図譜を読めば毒の有無がわかる」

「毒か」

「見知らぬ草や木の実があったとして博打で食べるわけにもいかないだろう? 図譜さえ完成すれば、下手に挑戦する必要が無くなるんだ。調理法も書き加えてるから困らないぞ」マキノはおもむろに短い黒髪を掻く。「あとは、まあ、強いていえば薬草の生息地が記してあったら便利だろ、薬効とかも」

「……マキノさんは詳しいんだな」シンキチは一瞬黙り、また口を開いた。「そのうえで聞いて欲しい話があるんだけど、いいか?」

「つまり植物に関係があるんだな?」

「ああ。こっちさついて来てくんねえか」

 シンキチは茶碗を折敷に戻し、ゆっくりと立ち上がった。

*植物図鑑。本草は薬用植物・自然物の学問。図譜は図入りの記録を指す。

 〇

「一体いつからだ」マキノは怪訝そうな顔で訊ねる。 

 シンキチの案内に従って床の間へついて行くと、目を見開いたまま男が倒れていた。マキノの呼びかけに男は応じないが、呼吸はある。熱はない。マキノは呼吸がしやすいように男の帯を緩め、着物の襟を大きく開いた。

「最後に倒れたのは三日前だ。里には医者はいねえ、たまに来る日を待つしかないんだ」シンキチは今にも泣きそうな表情で応えたが、マキノにはどこか引っかかっていた。

「最後に倒れた……? 最後?」

「そうだ。この頃倒れては起きてを繰り返していたんだ」

 シンキチが言うには、山の中に見知らぬ赤い花が群生しており、その花を父、セイスケが嗅いだところ倒れた。初めて嗅いだ際は数分もしないうちに起き上がったが、以後、シンキチの制止を振り切り、憑かれたように嗅いでは倒れた。嗅ぐたびに意識を失う時間が伸び、そして現在に至る。

 マキノには既に、その原因となる花に心当たりがあった。

「シンキチの言い分はわかった。父親は何か言ってなかったか?」

「おとうは、オサトに会ったって」

「オサト?」

「俺のおかあだ。病で亡くなったんだ」

「そうか」マキノは頷いた。「先ほどから嫌な話思い出させて悪いな。おそらくだが、オサトに会いに行ってるうちに戻ってこれなくなってしまったんだろう」

 シンキチは驚く。「おとうは、本当におかあに会ってるのか?」

「会ってるといえば会っているんだが、所詮幻だ。実物を見ねえで決めつけるのは良くないが、その赤い花はムカシマイリだ。ムカシマイリの香りは神経に作用して幻覚を見せる。それは吸った者の記憶や風景、感情が鮮明に蘇り、そこに「いる」ような体験をする。その体験中は幻に意識が引っ張られてしまう。それに中毒性が高くてな、現実を捨てて幻の中で別の人生を行きたがる中毒者が多発して、壊滅した村もあるんだ」あんなの誤った使い方だ、麻酔にもなるのに、とマキノは口を尖らせて付け加えた。

「治るのか?」

「治る」マキノは断言した。「シンキチの話からすれば、父親はムカシマイリをせいぜい一、二輪ずつ吸っていたんだろう」マキノは踵を返したためシンキチも続いた。マキノは囲炉裏に置きっぱなしにしていた風呂敷を勢いよくほどき、中身を畳の上にばら撒いた。筆や瓶、拡大鏡がシンキチの足元に転がってくる。マキノは散らばったものの中から三角に包まれた紙の束を拾い、シンキチに手渡した。「これを毎日飲ませろ」

 シンキチは目を丸くした。「薬だな? いいのか?」

「病人の前で薬を出し渋る奴がいてたまるか」マキノはまた怪訝そうな顔を見せた。「薬は七日分ある。流石にそれだけあれば毒気は抜けるが、念のため、七日経ったらまた薬を用意して持ってくる。明日にはここを発つ」

「……この恩はいつか必ずお返しする」シンキチは目に涙を溜めていた。

「いや、いい。宿代だと思ってくれ。父親は少しのムカシマイリを定期的に吸い続けて挙句の果てに倒れたわけだが、それならまだ薬で助かる。だがな、一度に大量に吸ったりしたらもう戻って来れなくなるから、それだけは肝に命じておけよ」

 〇

 初めて出会った畑には人影がなかった。だからもう夕飯の支度をしているのかもしれないとマキノは考えていた。既に太陽が沈みかけていた。

 シンキチの家へ向かう足取りは前回と依然変わりなく、重い。植物の生態を調べながら薬の調合を行うために山間部から沿岸部、そしてまた里へと戻るべく山と相対した七日間だった。既に疲労はピークに達していた。

 戸を開けると、一人の男が背中を丸めて囲炉裏の前であぐらをかいていた。

「不意打ちで恐れ入ります。マキノと申します。セイスケさん……、ですね。あの、シンキチは?」

「お前が」セイスケはマキノの顔を見ずに話を続けた。「お前が俺とオサトを離したんだな」

「ええ」マキノは素直に頷いた。「正確には幻と離したんですがね。重ねて伺いますがシンキチはいかがなされましたか?」

「知らん。畑から物音がしねえから山にでもいるんだろう。ここから西のだ」

「暮れ六つどきに一人でか? 松明は?」

「知らねえよ」

 マキノは頭に血が上っていた。どれだけシンキチは父の回復を待っていたことか、目の前の、愛想の欠片も持たない背中にはおそらく伝わりもしないのだろう。幻から冷めた悲愴に塗れて現実を受け入れていない。「お前さんは幻と現実の人間、どちらが大事だ?」

 その言葉を聞いたセイスケは漸く振り返り、マキノを睨んだ。

「現実の人間を失ったからこそ、幻にすがる。アンタに俺の気持ちがわかるか?」

「知らんな」マキノは溜息をつく。「幻に寄り添ってばかりでは現実の人間を失いかねんぞ」

 ここまで言うとマキノは戸を音を立てて閉め、セイスケが指で示した方向に駆けだした。体力はとっくに限界を迎えていたがそれどころではない。嫌な予感がする。次第に脈打つ音が大きくなり、耳に障る。鼓膜を叩くように響くのは心臓か、蹴り上げた地面の振動なのか区別もつかぬままただ黙って山道を駆け続けた。足を止めるわけにはいかない。

 やがて木々はまばらになり、山の麓に着くとより視界が開けた。確かにシンキチの影を見つけたが、二、三十本といったところだろうか、ムカシマイリを束ねて腕に抱えていた。マキノは深く深呼吸をし、静かに口を開いた。

「よう」

 シンキチははっとし俯いた。「……マキノさん、どうしてここに」

「心配したからだろ。僕を歩かせるのは薬代より高いぞ。ほら、帰ろう」

「俺は帰らねえ。もういいんだ、おとうは正気に戻ったけど死んだおかあのことしか見えてねえ。もう前みたいに優しくしてくれねえし、笑わねえ。マキノさんがいない間山に行くおとうを必死に止めるのに疲れたんだよ」

「あれから傍にいられなくて悪ぃな」

「いいんだ、マキノさんは。薬を作りに行ってたんだろ」

「だからといって子どもを一人にさせるべきではなかった、随分と苦労したんだな」マキノは表情を曇らせ、だが、と続けた。「だがな、それだけのムカシマイリを吸うのはまた話が別だ」

 マキノの呼吸は荒い。風が頬を裂き、耳の奥で鳴り止まぬ鼓動に苛立つ。対するシンキチは始終穏やかな表情で落ち着いていた。

「……よせよ」マキノの鋭い声が空に響く。

「俺はおかあにも、昔のおとうにも会いたい」

「よせ!」

 マキノの声は空振りに終わった。シンキチは一切の迷いもなく腕に抱えたムカシマイリに顔を寄せ、ふっと力を失い、まるで大地の温もりに抱かれるように膝を折り、倒れた。遠くの谷底から聞こえる川の音だけが静寂を彩り、山は静かに夜の帳を下ろした。

「今日、俺も薪取りに行くの手伝いたかったけど、山は雪が深くて……」

「いいんだよ、シンキチ。ゆっくりで。お前が元気に育ってくれればそれでええのさ。ほら、粥をもう一口おあがり」オサトは微笑みながら、か細い腕で粥をよそう。

 セイスケは一瞬西の山の方へ視線を配り、その後シンキチへ戻した。「今年の雪は多いけど山の木は丈夫だから大丈夫だろう。春になったら一緒に田んぼ直そうな」

「うん! だけど俺も大きくなったらおとうみてえに山仕事やりてえ」

 セイスケは微笑み、シンキチの頭にそっと大きな掌を乗せた。言葉にせずとも全てが伝わってくるような、温かい沈黙が続いた。

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行谷いさご

たまに講座を受けながら十年ぐらいエッセイを書き続けています。くどい言い回しが表れたり、感情を挟む以上に説明文が長かったり、その辺を何度も読み返して反省を繰り返しながら一作品、また一作品……と、丁寧に、少しずつ作り上げていきたいです。

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