大企業で正社員の切符を掴むなど、K氏にとっては遠い幻影にすぎなかった。
主流派の雇用(一般就労)へと向かう彼の過酷な道のりは、NARUTOというラーメン屋での面接からが社会人の第一歩だった。K氏は、少年院の委託を支援する企業のバイトしか当時なかった。「N工業」からが仕事の始まりだった。それは、山田孝之主演のドラマ『タイヨウのうた』の熱風が世間を魅了し、竹野内豊が日本と韓国の双方を舞台にした作品で波紋を広げていた時代だった。その頃K氏は『タイヨウのうた』は『世界の中心で愛をさけぶ』の続編なのかと気にかけていた。
小説から学術論文へと知見を広げていたK氏は、2年契約のもと、毎朝の張り詰めた清掃業務という現実に向き合いながら、一歩を踏み出した。 「職親(しょくおや)」とは 少年院の自立と社会復帰を支援する協力雇用主やその取り組みのことである。 しかし、若きK氏を阻んだのは当時障がい者雇用という道のない時代と自身の体調不良だった。
当時の地元には、実質的に「選択肢」など存在しなかった。障害者福祉の領域において、非雇用型の就労支援施設は乏しく、雇用型の施設に至っては、製造業のわずかな求人に限られていた。障害を持つ人々を取り巻く労働環境は劣悪で、長期的に持続できるものではなかった。それでも、一般就労にしがみつくことだけが彼の唯一の道だった。 施設での内職は、退屈な軽作業の繰り返しだった。管理の行き届かない施設では、今でも日常的に些細な諍いが起きている。驚くべきことに、その利用者の中には、かつて医師や企業幹部として社会の頂点に立っていた大学卒業生も含まれていた。過去がいかに華々しく、どれほどプライドが高かろうとも、人生の歯車が一度狂えば、単純作業でわずかな工賃を稼ぐことで満足せざるを得ない――それが、冷酷で容赦のない社会の縮図であった。
そんな中、合同説明会への参加をきっかけに、K氏はようやく一般の面接会へと漕ぎ着けた。新卒の大学生たちに混ざり、魂を込めて面接に挑んだものの、結果は不採用。自分が社会から締め出されたと痛感した瞬間だった。 N工業での1年の任期が終わりに近づいた頃、都市部での就労支援のチャンスが浮上した。社長から「2年目も残るか?」と問われた際、K氏は地元を覆う息苦しい停滞感から抜け出すことを決意し、辞職を選んだ。
外の世界へと飛び出すため、すぐさま都会への切符を握りしめた。 都会の刺激と過酷な現実 そこに面接があったのか、あるいはその生活が具体的にどう始まったのか、今となっては記憶の彼方に消え去っている。しかし、都会の刺激は圧倒的だった。退屈な地元を脱出したK氏は、古い店舗の「店長」として、店舗管理という重い責任を突如背負わされることになった。
若さだけを武器に、文字通り早朝から深夜まで身を粉にして働いた。毎日が終電に滑り込み、疲労困憊で倒れ込むように終わる日々。アメリカ人の同僚と急いで昼食をかき込む一方、店頭には米軍関係者から、優雅に和服を纏った常連客まで、多様な顧客が訪れた。彼の優秀な上司は、ホワイトハウスやエリート財閥にパイプを持ち、東京のアメリカ大使館を頻繁に訪れた後、最終的にワシントンへ異動するような人物だった。K氏もまた、これらアメリカに直結するダイナミックな業務に身を投じていた。
2年目が近づく頃、「アルバイトとして働かないか?」と声をかけられた。それは、不安定雇用の過酷な現実への入り口だった。 時代の経済的な勢いは急速に膨れ上がっていた。ヒットドラマ『タイガー&ドラゴン』の落語家のエネルギーさながらに、労働時間という概念は意味をなさなくなっていった。1日の労働時間は容易に8時間を超え、週末も祝日も、大晦日も元日も関係なく、彼は休むことなく働き続けた。
大学生がティファニーの時計を求めて、ディスプレイの片隅には戦時中の手巻き時計が眠っていた。グッチやヴィトンといった高級ブランドを扱い、1回の接客で何十万、何百万という売上を叩き出す華やかな日々。しかし、アルマーニやカルバン・クラインが並ぶきらびやかなファサードの裏で、K氏の身体は悲鳴を上げていた。結局、体調を崩したことで、彼は退くことを余儀なくされた。その後K氏は父親に告げられる、おまえは実は政府の人間なのだと。 長兄としてK氏はどうすれば後を告げればいいのか、悩むことになる。何故幼い頃教えなかったのか。将来も約束され素晴らしい人生と使命が待っていた事になっていたはず..。そして後に親戚が特殊作戦群『特殊部隊』と軍人の家系とどこかの所属の武士の家系だと知ることになる。
立ち止まれない歩み しかし、立ち止まることは許されない贅沢だった。失業という壁はなかった。彼はすぐに施設へと戻り、次のチャンスへ向けて体調を回復させて職業相談所へ向かった。 次に就いた仕事もまた、同じように過酷なものだった。高圧的な上司の下で、彼は現場を完全に一人で回すよう残された。不可能な任務であることは分かっていたが、「どうせ辞めるなら、せめて1年は耐え抜こう」と自分を奮い立たせた。ギスギスしたオフィスで、不愉快な同僚たちを睨みつけながら昼食を食べる惨めさに耐えかね、彼はいつも近くの定食屋へと通い続けた。それは勝者と敗者が容赦なく選別されていた時代を反映した、今では想像もつかないほど殺伐とした労働環境だった。 ある日の昼休み、K氏が外に出ると、父親が待っていた。息子の過酷なスケジュールの合間を縫って、父親はただ一時の食事を共にするためだけにやってきたのだ。その昼休みが、彼の勤務時間中に親子で食事を共にした機会となった。父親は何を食べていたのだろうか。カレーライスか、それともカツ丼か。K氏は定食を食べていたのだろうか。それが父親との一度しかない労働という社会の食事だった。そして、不条理な現実の中で、アルバイト時代に餃子店で食べたミニチャーハンの味だけが、なぜか鮮明に記憶に焼き付いている
その後、個人の繋がりを頼って地元で再び働いたものの、パートタイム労働の現実は無慈悲だった。彼の体力は容赦なく削り取られていった。ついに絶対的な限界を迎え、彼は療養期間を取らざるを得なくなった。 その頃、地元の小さな不動産業者の紹介で、お見合いの話が舞い込んだ。幼少期から皇族の方々と接する機会があったK氏の脳裏に、かつて「王(おう)」と呼ばれた記憶がフラッシュバックした。それは天皇の直系から離れた男子に与えられる称号である。一種のジョークだろう。お見合いの相手は、その言葉を伝えることで一体何を意図していたのだろうか。答えを出せないまま席を立ち、それから数年の歳月が流れていった。 新たな挑戦への意志 数年後、K氏はスキルの向上と次へのステップアップを目指し、再び施設にいた。 彼は疑問を抱き始めた。自分たちは「ゆとり世代」のぬるま湯に甘んじていていいのだろうか、と。近年、ハラスメントへの監視の目が厳しくなり、職場の環境は完全に様変わりした。しかしその反面、自らの権利ばかりを主張し、あからさまに仕事をサボる労働者が増えているのではないだろうか。私たちは原点に立ち返らなければならない。労働環境を議論し、「週休1日(6日勤務)」のような厳格な制度を復活させることこそが、日本社会を活性化させ、かつて世界を席巻した「Made in Japan」の真の価値を取り戻すために不可欠なのだ。K氏の父親は昔は週7日勤務だった。 現在、K氏はさらなる不幸に見舞われている。自宅近くの荒れ地で脚を負傷し、その土地を巡る紛争は未だ解決していない。社会はどこまでも理不尽であり、彼に次から次へと試練を突きつけてくる。 それでも、K氏は屈することを拒む。次に彼が挑ようとしているのは、自らに課した高き壁――「週休1日(6日勤務)」である。かつて憧れた輝きのため、そして自らの手で掴み取らなければならない未来のために。体力を無慈悲に奪っていく週休1日の現実は、かつて彼を打ち砕いた過酷な社会そのものである。それでも、雇用型の施設へのステップアップという見通しには、否定できない魅力がある。それは、スキルアップし、労働と賃金にいかに向き合うかという問いでもある。社会の容赦ない洗礼を誰よりも知るからこそ、彼は自らに鞭を打ち続け、次なる飛躍に向けて静かに牙を研ぎ続けている。
