異物
車の冷房はとうに壊れていた。生ぬるい風がダッシュボードの隙間から這い出し、狭い車内にこもった汗と、吸い殻の染みついたヤニの臭いをかき混ぜる。僕の細い太ももは、ビニールシートの座面にじっとりと張り付いて、剝がすたびに小さく皮膚が悲鳴を上げた。
「おい、ナビの地図が消えたぞ。電波が入ってないんじゃないか」
ハンドルを握る父親の声は、ひどく苛立っていた。一週間も髭を剃っていない顎の下には、赤黒い吹き出物がいくつも潰れた跡がある。東京を出てからもう五時間以上、父さんはまともな言葉を発していない。口を開けば、舌打ちか、あるいは隣の助手席に向けられた呪詛のような愚痴だけだった。
「そんなの私に言われたってわからないわよ。あなたが勝手にこんな僻地の物件を決めたんでしょ」
母親は窓の外を見つめたまま、低く冷え切った声で返した。その横顔は、生気を失った粘土細工のようだった。目の下にはどす黒い隈が沈み、かつて小綺麗に整えられていた爪は、今やささくれ立ち、マニキュアが不格好に剥げ落ちている。父さんが会社を馘首になり、夜逃げ同然で家を払ったあの日から、母さんは僕の目を一切見なくなった。
車は、舗装がひび割れた細い一本道をガタガタと揺れながら進んでいく。両脇には、手入れの行き届かない鬱蒼とした杉林が壁のようにそびえ立ち、濁った真夏の太陽を遮っていた。湿った土と、どこか生き物が腐ったような、じっとりとした草の匂いが開いた窓から容赦なく流れ込んでくる。
ようやく車が止まったのは、傾斜のきつい坂道の途中にぽつんと佇む、平屋の前だった。
築四十年というその家は、灰色の瓦が何枚もズレ、壁のモルタルは黒いカビのようなシミで覆われていた。まるで、地面から生えてきた巨大な毒キノコのようだと、僕は思った。庭だったはずの場所には、背丈ほどもある雑草が容赦なく生い茂り、錆びついたプロパンガスのボンベが二本、墓標のように突っ立っている。
「……チッ、ひでえな」
父さんが車を降り、ドアを叩きつけるように閉めた。その音が静かな山あいに不気味に響き渡る。遅れて僕と母さんも外に出たが、立ち眩みがするほどの熱気と湿気が、容赦なく体にまとわりついた。誰も荷物を運ぼうとはしなかった。トランクの中には、段ボール箱が数個と、着古した衣類が詰まったゴミ袋があるだけだ。僕たちのこれまでの生活のすべてが、その程度の質量に成り下がっていた。
引っ越しの片づけなど、まともに行われるはずもなかった。居間の畳は湿気でぶよぶよと沈み、歩くたびに妙な音がした。父さんは荷物を床に投げ出すと、すぐどこかへ歩いて行ってしまった。村に一軒だけあるという、寂れた商店に酒を買いに行ったのだ。
残された母さんは、埃の積もった台所にへたり込み、虚ろな目で蛇口を見つめていた。水道管が錆びついているのか、ひねっても「ゴポゴポ」と不格好な音がするだけで、濁った茶色の水が数滴滴るだけだった。
「ねえ、お母さん、お腹空いた」
僕が恐る恐る声をかけると、母さんは弾かれたように首をこちらに向けた。その目は、僕を見ているのではなく、僕の背後にある「何か忌まわしいもの」を睨みつけているようだった。
「うるさいわね!」
鋭い怒声が狭い台所に響く。僕は思わず肩を竦めた。
「あんたがそんな風に甘えるから、お父さんもイライラするのよ。私がどれだけ我慢しているか、あんたにはわからないの? 誰のせいでこんな場所に……!」
母さんは自分の頭を両手で激しく搔きむしり、そのまま床に突っ伏して、獣のような声を上げて泣き始めた。謝らなければいけない、と思った。けれど、僕が何か言えば言うほど、母さんのヒステリーは酷くなることを、僕は十年の短い人生の中で痛いほど学んでいた。僕は静かに台所を離れ、自分の部屋になるはずの、三畳間の押し入れの隅に身を潜めた。
夕方になり、外がねっとりとした紫色の闇に包まれる頃、父さんが帰ってきた。手には安物の焼酎の紙パックと、いくつかの缶詰が握られていた。当然、僕の分の食事などない。
やがて、予想通りに「それ」は始まった。
「おい、なんで飯ができてねえんだよ!」
「水も出ないようなクソ家に連れてきて、何を作れって言うのよ!いい加減にして!」
居間から激しい罵声と、ガタンと家具が倒れる音が響く。続いて、鈍い衝撃音。母さんの短い悲鳴。父さんの狂ったような笑い声と、さらに激しい怒号。壁が一枚隔てただけの僕の部屋まで、その振動は生々しく伝わってきた。
僕は押し入れの中で膝を抱え、耳を強く塞いだ。心臓が早鐘のように脈打ち、冷や汗が背中を伝う。これが僕の日常だった。都会にいたときも、そしてこの世界の果てのような村に来ても、何も変わりはしない。どこへ逃げても、地獄は僕の影のように張り付いてくるのだ。
翌朝、僕はろくに眠れないまま、支給されたばかりの新しい小学校の帽子の位置を確かめていた。今日から新しい学校への登校が始まる。泥のついた古いスニーカーを履き、重い足取りで玄関の戸を開けた。
外の空気は、朝だというのにやはり湿って重かった。坂道を下っていくと、すれ違う村人たちの視線が、一斉に僕に突き刺さるのが分かった。
畑仕事の手を止め、鍬を持ったままじっと僕を凝視する老人。縁側に座り、ひそひそと耳打ちを交わしながら、蔑むような目を向けてくる中年女性たち。彼らの目は、ただの警戒心ではなかった。それは、美しい庭に紛れ込んだ汚物を見るかのような、明確な「拒絶」の光を帯びていた。
「あそこかい、東京から逃げてきたっていうのは」
すれ違いざま、ぼそりとつぶやかれた声が、僕の耳に届いた。わざと聞こえるように言ったのだ。彼らの言葉には、外から来た「部外者」を、決してこの土地には馴染ませないという強い意志が籠められていた。
足元を見つめながら、僕はただひたすらに歩いた。家の中には狂った両親がいて、一歩外に出れば、冷酷な悪意が渦巻いている。
遠くの空で、まだ雨も降っていないというのに、ゴロゴロと、低く鈍い雷の音が鳴り響いていた。
学校に着いても、状況は変わらなかった。担任の教師は僕をただの面倒な厄介者として扱い、教室の子供たちは僕を透明人間のように無視するか、あるいは聞こえよがしの陰口を叩いた。僕はこの土地にとって、ただの「異物」なのだ。
夕方、逃げるようにして学校を飛び出し、あの暗い坂道を登った。 家が近づくにつれ、胸の動悸が激しくなる。今日はどんな怒号が響いているのだろう。そう身構えながら玄関の引き戸を開けたとき、家の中は奇妙なほど静まり返っていた。
「ただいま……」
返事はない。ただ、異様な臭いが鼻を突いた。車の中にこもっていたあのヤニと汗の臭いを、もっと濃密にして、そこに何かが焦げたような臭いが混ざっている。
居間に足を踏み入れた僕は、その場で凍りついた。
そこは、昼間だというのに薄暗く、ひっくり返ったちゃぶ台の脇に、父さんと母さんが並んで座っていた。いや、座っているのではなかった。二人は虚ろな目で、天井からぶら下がった太いロープを見つめていた。その足元には、昨日父さんが買ってきた焼酎の空パックと、いくつかの睡眠薬のシートが散乱している。
僕の気配に気づいたのか、母さんがゆっくりと首をこちらに向けた。その顔には、ここ数ヶ月見たこともないような、穏やかで、同時に完全に壊れてしまった笑みが浮かんでいた。
「あぁ、お帰り。遅かったじゃない」
母さんの声は優しかった。けれど、その手はしっかりと、太い縄の結び目を握りしめている。 父さんはすでに意識が朦朧としているのか、壁に背をもたれかけ、ただ濁った呼吸を繰り返すだけだった。
「もうね、疲れちゃったのよ。みんなで、綺麗になりましょう。そうすれば、誰にも文句は言われないわ」
母さんが立ち上がり、ふらつく足取りで僕に近づいてくる。その細い指先が、僕の首筋に触れた。ひんやりとして、まるで死人のように冷たい手だった。
その時、外でひときわ大きな雷鳴が轟いた。 地を揺らすような衝撃に、僕はハッと我に返った。
母さんの手を振り払い、僕は猛然と玄関へ走った。背後で「待って!」という母さんの鋭い悲鳴が聞こえたが、振り返らなかった。
外に出ると、ついに大粒の雨が降り始めていた。バチバチと肌を穿つ激しい雨の中、僕は泥だらけになりながら坂道を駆け下りた。
「助けて!」
僕は叫んだ。すれ違う民家の窓、畑の小屋、そこにはまだ村人たちの気配があった。僕は必死に、開いている縁側へ向かって手を伸ばした。
「助けてください! お父さんとお母さんが――!」
しかし、僕と目が合った瞬間の老人の顔を、僕は一生忘れない。老人は僕の悲鳴を聞いた瞬間、心底嫌そうな顔をして、ピシャリと激しい音を立てて雨戸を閉めた。 隣の家の中年女性も、窓越しに僕を一瞥すると、冷たくカーテンを引いた。
誰も、僕の声を聴こうとはしなかった。 彼らにとって、僕たち家族がどうなろうと知ったことではないのだ。それどころか、この雨が、忌まわしい都会の汚れをすべて洗い流してくれるのを待っているかのようだった。
雨はますます激しくなり、僕の視界を真っ白に染めていく。
坂道の途中で立ち尽くした僕の耳に、遠くの家から、かすかに、けれど確かな「何か」が崩れ落ちるような音が聞こえた気がした。
誰も助けてくれない。帰る場所もない。 僕の新しい帽子は激しい雨に打たれて泥にまみれ、足元のスニーカーは完全に水を吸って重くなっていた。
冷たい雨の中、僕はただ一人、自分がこの世界から完全に拒絶された「異物」であることを理解した。もう鳴り止まない雷の音だけが、僕のこれからの孤独な足元を、白く、冷たく照らし続けていた。
