昼休みの旧校舎裏は、だいたいろくでもないことに使われる。
告白、サボり、教師の愚痴、そしてたまに、やけに声を潜めた取引。
四月の終わり、春の陽気に浮かれた新入生たちが中庭で騒いでいるその裏で、僕は壁に背を預けながら、目の前の男を見ていた。
二年三組、黒崎蓮。
無駄に背が高く、無駄に目つきが悪く、無駄に噂の多い男だ。廊下ですれ違うだけで一年生が道を空けるし、購買のパン争奪戦では誰も彼には逆らわない。本人が何かしたわけではないらしいのだが、顔つきと沈黙が勝手に治安を悪くしている。
その黒崎が、制服の内ポケットに手を入れたまま、低い声で言った。
「……持ってきたか」
僕は周囲を見回してから、小さく頷いた。
「一応、でも、ここで出すのはまずい」
「だろうな」
「昨日も見回り来てたし」
「面倒だな」
端から見れば完全に終わっている会話だったと思う。
実際、その端にいたらしい。
「ちょっとあなたたち」
鋭い声が飛んできて、僕は肩を跳ねさせた。振り返ると、生徒会副会長の相馬先輩が立っていた。腕を組み、眼鏡の奥の目を細めている。校則違反を嗅ぎつける能力にかけては、もはや猟犬に近い。
「今の会話、どういう意味か説明してもらえる?」
僕は冷や汗をかいた。黒崎は表情一つ変えない。そういうところが誤解を加速させるんだよ。
「いや、これは」
「言い訳は結構。旧校舎裏で、周囲を警戒しながら、持ってきたか、ここで出すのはまずい、ですって?」
相馬先輩の声は低い。詰んだ。あまりにも詰んでいる。
「違うんです、あの」
「職員室に来なさい」
そのとき、黒崎が短く口を開いた。
「待ってください」
相馬先輩がぴたりと止まる。黒崎はゆっくり先輩を見た。
「これは、まだ表に出せない案件なんです」
僕は思わず黒崎の横顔を見た。
何を言ってるんだこいつ。
相馬先輩の眉間に皺が寄る。
「ますます怪しいわね」
「関係者以外を巻き込むわけにはいかない」
「巻き込んでるでしょう、すでに」
「……確かに」
認めるな。
僕が必死に口を挟もうとした瞬間、校舎の角からもう一人現れた。
「お、いたいた。取引中?」
新聞部部長の三枝だった。
この学校で最も空気を悪化させる才能を持つ女である。ショートカットに猫みたいな目、手には常にメモ帳。面白そうな匂いを嗅ぎつけると、どこからともなく湧いてくる。
「取引」という単語を聞いた相馬先輩が、さらに険しい顔になる。
「三枝さん、ちょうどいいわ。証人になって」
「え、なになに、本当にヤバいやつ?」
「まだわからないけど、かなり黒に近いわ」
「黒崎だけに?」
「今そういうのいいから」
よくわからないタイミングでちょっと笑いそうになった自分を殴りたい。
三枝は僕と黒崎を交互に見て、にやりと笑った。
「へえ。ついにやるんだ」
「やらないです」
「隠さなくていいって。私、口は軽いけど義理はあるから」
その時点で義理がゼロなんだよ。
黒崎はなぜか少し考えたあと、ぼそっと言った。
「……もう潮時か」
「何の」
と僕が聞く前に、黒崎はポケットから小さな包みを取り出した。
相馬先輩が息をのむ。三枝の目が輝く。僕は頭を抱えた。
透明な小袋。中には、白っぽい粉末。
終わった。
「やっぱりね」
相馬先輩の声が一段低くなる。
「学校に持ち込むなんて、正気?」
「いや、だから違うんですって!」
僕が叫ぶと、黒崎は袋を見下ろして一言。
「上物です」
「言い方!」
旧校舎裏に、僕の悲鳴がむなしく響いた。
事の発端は一週間前にさかのぼる。
僕、真壁悠人は料理研究部の幽霊部員である。幽霊部員というのは、名前だけ貸して実際にはほとんど活動していない部員のことだ。ではなぜそんな僕が黒崎と怪しい取引をしていたのか。
理由は単純。黒崎が、見た目に反して料理研究部のエースだからである。
しかも得意分野は製菓。
初めて知ったとき、僕は五秒くらい現実を受け入れられなかった。あの歩く威圧感みたいな男が、放課後にフリルのついたエプロンを着けてシフォンケーキを焼いているらしい。情報の落差で耳がキーンとした。
そして今週末、料理研究部は新入生歓迎会で焼き菓子を配る予定だった。ところが、部長がインフル、副部長が家庭の事情で不在、残った部員は僕を含めて三人。そのうち一人はオーブンの予熱を「なんかあったかくするやつ」と認識しているレベルだった。
つまり、頼れるのは黒崎しかいなかった。
黒崎は腕を組み、部室で低く言った。
「足りない」
「何が」
「粉砂糖」
「そんな緊迫感ある言い方で言うこと?」
「あとアーモンドプードルも切れてる」
「おしゃれな材料名で誤魔化すな」
「歓迎会は明後日だぞ」
「わかってるけど」
「調達できるか」
「一応、叔母が店やってるから少しなら」
そこで黒崎が真顔のまま言ったのだ。
「……持ってきたか、で確認する」
「やめろ。その言い方は絶対やめろ」
だが彼はやめなかった。結果が今である。
「説明します!」
僕は半泣きで叫び、小袋を相馬先輩から守るように手を伸ばした。
「これ粉砂糖です!製菓用の!クッキーの仕上げとかに使うやつ!」
「本当に?」
「本当です!」
三枝が横から身を乗り出した。
「舐めればわかるんじゃない?」
「お前は何を言ってるんだ」
黒崎が袋をつまみ、無駄に渋い顔で言った。
「純度は高い!」
「だから言い方!」
「先輩、こいつはこういうやつなんです!悪気はないんです!ただ語彙が終わってるだけで!」
相馬先輩はまだ半信半疑だったが、僕の必死さが多少は伝わったらしい。
「じゃあ、アーモンドプードルっていうのは?」
「アーモンドを粉にしたやつです」
「……本当に?」
「本当にそういう名前なんですってば」
三枝がメモ帳に何か書きながら、感心したように言う。
「へえ。粉の世界も奥が深いね」
「その言い方もやめてくれ」
だが疑念は完全には晴れなかった。
なぜならその直後、黒崎がさらに追い打ちをかけたからだ。
「バターも足りない」
相馬先輩が目を細める。
「それも隠語?」
「違います、ほんとのバターです!」
「無塩がいい」
「具体性が逆に怖いのよ」
「あと卵はL玉で」
「こだわりが強い!」
三枝はもう完全に面白がっていた。
「ねえ、それもう全部記事にしていい?『旧校舎裏の白い粉取引、その正体は黒崎先輩の繊細な製菓愛』」
「長いし嫌だ」
「『威圧系男子、実はお菓子作りガチ勢』でも可」
「もっと嫌だ」
黒崎は初めてわずかに顔をしかめた。
「それは困る」
「困るんだ」
「イメージがある」
「自覚あったのか」
そのとき、さらに最悪の人物が現れた。
「おい、何してんだお前ら」
生徒指導の鬼、松田先生である。
四十代半ば、坊主頭、声がでかい。廊下を歩くだけで校則違反者の心拍数を上げる男。僕たち四人が旧校舎裏に固まっている時点で、もう絵面が悪い。
先生は小袋を見て、全員を見て、即座に言った。
「職員室だ」
反論の余地がなかった。
職員室で事情聴取が始まった。
机の上には問題の小袋、アーモンドプードルの袋、無塩バターのレシート。並べると余計に妙な感じがする。先生は腕を組み、深刻な顔で僕らを見た。
「順番に話せ」
僕が全部説明した。歓迎会、新入生向けの焼き菓子、材料不足、叔母の店、そして黒崎の壊滅的な言い回し。
十分後。
松田先生は深く息を吐いた。
「つまりこれは」
「粉砂糖です」
「これは」
「アーモンドプードルです」
「取引は」
「焼き菓子の材料調達です」
先生は無言で天井を見た。たぶん、自分の教師人生のどこで道を間違えたのか考えていた。
相馬先輩は咳払いをして言った。
「一応、私の早とちりだった部分もあります」
「一応じゃないです、だいぶです」
「でもあなたたちの会話が八割悪い」
「それはそう」
三枝はすでに記事の下書きを書いていた。仕事が早すぎる。
「先生、これ、文化祭の広報にも使えると思うんですよね。『見た目で判断するな、黒崎はマドレーヌを焼く』っていう人権啓発寄りの話で」
「誰の人権だ」
黒崎が低く呟く。
「マドレーヌじゃない。今回はスノーボールだ」
「そこは譲れないんだ」
結局、厳重注意だけで済んだ。
ただし条件が付いた。
「歓迎会で、その焼き菓子を俺にも持ってこい」
松田先生がそう言ったとき、僕は耳を疑った。
「え」
「本当に作るなら証明になるだろう」
「食べたいだけでは」
「うるさい」
先生は咳払いをして書類を閉じた。
「あと黒崎」
「はい」
「『上物です』は二度と使うな」
職員室の空気が一瞬だけ揺れた。三枝が肩を震わせて笑いをこらえている。相馬先輩は眼鏡を押し上げながら顔を背けた。僕はもう限界だった。
歓迎会当日。
料理研究部の机には、白い粉をまとったスノーボールクッキーがきれいに並んだ。新入生たちは「かわいい」とはしゃぎ、女子たちは「これ誰が作ったんですか」と目を輝かせた。
僕は誇らしいような、疲れたような気持ちで答えた。
「主に黒崎です」
一秒の沈黙。
「えっ、あの黒崎先輩が?」
「はい」
「お菓子を?」
「はい」
「手作りを?」
「はい」
そこへ当の黒崎が、エプロン姿で現れた。周囲の空気がざわつく。似合わないのに似合ってしまっているのが腹立たしい。
新入生の一人が恐る恐る言った。
「あの……これ、すごくおいしいです」
黒崎は少しだけ目を伏せて答えた。
「そうか」
その一言だけで、なぜか三人くらいの新入生女子が顔を赤くした。
世の中は不平等だと思う。
その後、新聞部が出した校内新聞には、でかでかと見出しが載った。
『旧校舎裏の白い粉騒動、正体は歓迎会用スノーボールだった』
その下に、エプロン姿の黒崎の写真まで載っている。本人は「終わった」と低い声で呟いていたが、翌日からなぜか女子の視線が増えたので、たぶん終わってない。むしろ始まっている。
ちなみに相馬先輩は、歓迎会のあと僕のところに来て、少し気まずそうに言った。
「……おいしかったわ」
「ありがとうございます」
「粉砂糖、ちゃんと仕事してた」
「そこ評価するんですね」
「あと、誤解して悪かったとは思ってる」
「珍しく素直ですね」
「その代わり、今後はもっと健全な言い方をしなさい」
僕はうなずいた。
「本当にそうします」
すると、背後から黒崎の声がした。
「次はブツを増やす」
僕と相馬先輩が同時に天を仰いだ。
たぶんこの人は、一生こうなのだと思う。
