火は雪の下で燃える-第一話-

第一話 雪ノ下の火種

最初に死んだのは、兵士ではなかった。

テリル連合国北端、ルスカ自治州の外れ。国境監視塔から半里ほど離れた小村で、井戸の蓋に腰かけていた老人が、空を見上げたまま喉を裂かれた。矢ではない。銃弾でもない。喉元に細く、焼けたような穴が一つだけ空いていた。

村人たちは、しばらくそれが何なのかわからなかった。

ただ、白い息を吐きながら駆け寄った孫娘だけが、老人の背中に触れて、まだ温かいことに気づいた。温かいのに、もう返事をしない。血はほとんど出ていなかった。雪の上に広がったのは、赤ではなく、薄い灰色の液だった。魔導熱で焼かれた血は色が死ぬ。

その日の夕方には、村全体が封鎖された。

テリル連合国辺境警備隊は「帝国側からの越境狙撃の可能性」と発表し、同時に「住民の安全確保のため」として村人の移動を禁じた。翌朝にはハイネ帝国側も声明を出した。「連合側の捏造であり、帝国軍は一切関与していない」と。

雪は降り続いていた。

誰が撃ったのか、誰が最初に嘘をついたのか、その時点ではまだ誰にもわからなかった。

だが、その老人の死は、書類の上では存在しないことになった。

ハイネ帝国東方方面軍第三補給路。兵站馬車の車輪が凍った轍を軋ませながら進んでいく。

エーリヒ・ヴァルナー少尉は、外套の襟を立て、白く曇る息の向こうに灰色の空を見ていた。二十四歳。帝都士官学校を上位で卒業し、前線勤務を志願した若い将校だった。志願した理由を問われれば、帝国の安定のため、と答える。建前ではなく、本心でもあった。

帝国は秩序によって保たれている。外縁の不安定を放置すれば、やがて内側まで腐る。そう教えられてきたし、そう信じてきた。

だから、国境地帯への増派にも疑問はなかった。

ただ、今朝届いた命令書だけは少し妙だった。

「国境警戒の強化、補給拠点の前進、現地住民との接触制限……」

手袋のまま紙を押さえ、エーリヒは小さく読み上げた。

「戦争になるんですかね、少尉」

隣で馬を引いていた下士官、ブルーノ軍曹が言った。三十半ば、頬に古傷のある男で、帝国軍人らしい無駄のなさを身につけている。だが、目だけは、命令書より先のものを見ている目だった。

「正式布告はまだだ」

エーリヒは答えた。

「まだ、ですか」

「軍は可能性に備えるものだ」

そう言うと、ブルーノはそれ以上何も言わなかった。

沈黙の中で、車輪の軋みだけが続く。

エーリヒは命令書を畳みながら、紙の端に押された赤い印を見た。東方方面軍司令部直轄。珍しくもない。だが文面の硬さに比べて、判断が妙に早い。まるで、何かを待っていたみたいだった。

前方で兵のひとりが足を滑らせ、木箱を雪の上に落とした。蓋が少し割れ、中から金属光沢が覗く。弾薬箱ではない。封印布つきの魔導筒だった。

ブルーノがすぐに駆け寄り、兵を怒鳴る。

「手順を守れ、馬鹿者。中身が何か知っているのか」

「も、申し訳ありません」

兵士は顔を青くして木箱を抱えなおした。

エーリヒは視線を逸らした。見なかったことにするのは、軍で覚える最初の礼儀のひとつだ。自分の管轄外の物資、自分に説明されていない用途、自分が知る必要のない計画。知らないままのほうが、責任を負わずに済む。

それでも、胸の奥に小さな棘が残った。

この補給路は、あまりにも静かすぎた。


テリル連合国、ルスカ自治州臨時診療所。

リア・セヴェルは、洗面器の水が赤から黒へ変わっていくのを見ていた。十九歳。軍属衛生兵見習い。正式な軍人ではない。そう何度自分に言い聞かせても、血の匂いは肩書きを選ばない。

「次、こっち!」

奥から怒鳴り声が飛ぶ。

リアは返事もせず立ち上がり、仕切り布の向こうへ回った。担架の上には国境警備隊の兵がひとり。脚の肉が抉れていた。魔導熱傷ではない。破片傷だ。だが本人は「見張り塔が先に撃たれた」と繰り返している。

「帝国軍を見たんですか」

包帯を押さえながらリアが聞くと、兵は唇を震わせた。

「見てない……でも、あれは連中だ。あんなの、山賊にできるもんか」

「じっとして」

「村の爺さんもやられた。子どもが見てたって……」

「じっとしてって言ってるでしょう」

少し強く言うと、兵は口をつぐんだ。

リアは傷口の縁を洗いながら、眉を寄せた。証言は錯綜している。村人は「空が光った」と言い、警備兵は「塔の下から爆ぜた」と言う。誰も同じものを見ていない。見ていないのに、みんな断言する。帝国だ、と。

診療所の窓の外では、避難してきた住民たちが毛布にくるまり、無言で座り込んでいた。泣き声は少ない。寒さが強いと、人は泣く体力も惜しむ。

リアは衛生兵になってから、沈黙にはいくつか種類があると知った。

痛みを堪える沈黙。
怒りを飲み込む沈黙。
そして、自分が何を失ったのか、まだ理解しきれない沈黙。

「リア」

年上の軍医補佐、マルタが布の向こうから顔を出した。

「州議会の連中が来る。見た目をましにしておいて」

「患者をですか」

「部屋をよ」

マルタは疲れた顔で言った。

「血のついた布は隠して。あの人たち、現実を見ると機嫌が悪くなるから」

リアは一瞬、何も言えなかった。

「……こんな時に?」

「こんな時だからよ」

マルタはそれだけ言って去った。

リアは手についた血を見た。洗っても、冷えた指の皺に色が残る。ここで誰かが死ぬたび、国は怒りの言葉を増やし、現場は包帯を減らす。

戦争はまだ始まっていない、と今朝の広報は言っていた。

その言葉を信じられる者は、もうこの建物の中にはいなかった。


帝都グランヘル、中央広報院。

セシル・ノイマンは、磨かれた机の上に積まれた報告書を眺めていた。二十八歳。帝国中央広報院第二報道局所属。軍人ではないが、軍と同じ色の嘘を扱う仕事だった。

「国境地帯の住民死亡一名。連合側は帝国の越境攻撃と主張」

秘書官が読み上げる。

「東方方面軍は否定。現地指揮系統からは追加報告待ちです」

「写真は」

セシルが聞くと、秘書官は一拍置いた。

「あります。ただ、公開には不向きかと」

「見せて」

薄紙に包まれた写真を受け取り、セシルは目を落とした。雪の上に倒れた老人。喉元に小さな穴。血が少ない。魔導狙撃の痕だ。

彼は写真をしばらく見つめたあと、静かに机へ戻した。

「公開しない」

「よろしいのですか」

「よくないからしないの」

秘書官は黙った。

セシルは椅子にもたれた。窓の外には帝都の冬景色が広がっている。白い石造りの建物、整然とした街路、煙突から上がる薄い煙。ここにいると、国境で人が死んだという事実は、紙の厚み以上の重さを持たない。

だが彼は知っていた。こういう死に方は、偶発では終わらない。

誰かが利用する。
誰かが怒りを煽る。
誰かが引き返せる線を消す。

「声明文を作りますか」

「ええ」

セシルは答えた。

「帝国は一切の武力挑発を行っていない。連合国側は事実確認なき扇動を慎むべきである。国境の安定は双方の責任であり、帝国は対話による解決を望む」

秘書官が速記を始める。

セシルはその文面を口にしながら、自分の喉の奥が少し乾くのを感じていた。対話。安定。責任。どれも便利な言葉だ。便利すぎて、死体の匂いがしない。

「最後に一文」

彼は言った。

「帝国市民は虚偽情報に惑わされず、平静を保たれたい」

秘書官が頷く。

それで完成だった。美しく、整っていて、何ひとつ本当のことを言っていない文章。

セシルはふと、写真の老人の顔を思い出した。驚いたような、何かを言いかけたような顔だった。帝都で作られる文章は、そういう顔をすべて消していく。

彼は自分の指先を見た。震えてはいない。まだ慣れている。

そのことが、少しだけ嫌だった。


ルスカ自治州、小村イルガ。

少女の名はミナという。十四歳だった。

少女は村の集会所の隅で毛布にくるまり、膝を抱えていた。誰も彼女に近づかなかった。近づけなかったのかもしれない。祖父が死ぬ瞬間を見た子供に、何を言えばいいのか、大人たちは知らない。

ミナは祖父の最後を何度も思い返していた。

井戸のそばで、祖父が空を見た。
何か言いかけた。
次の瞬間には倒れていた。

空が光った気がした。いや、光っていないかもしれない。白い雪の照り返しだったかもしれない。遠くで金属音がした気もする。しなかった気もする。

わからない。

なのに、大人たちは皆、答えを欲しがった。

「帝国兵は見えた?」
「塔の方角だった?」
「発射音は?」
「何色の光だった?」

ミナは何度も「わからない」と言った。そうすると、大人たちは露骨に落胆した顔をした。わからないでは困るのだ。怒るためには、相手の顔が要る。復讐するには、物語が要る。

集会所の扉が開き、警備兵が二人入ってきた。

「証言を取る」

その言葉に、室内の空気が固くなる。

ミナの母が立ち上がり、娘の肩を抱こうとしたが、兵のひとりがそれを制した。

「本人だけでいい」

ミナは立ち上がった。足が冷えて、感覚が薄い。

兵は集会所の奥へ彼女を連れていき、粗末な机の前に座らせた。紙とペンが置かれている。もう一人の兵が尋ねた。

「帝国側から光を見たんだな?」

ミナは顔を上げた。

「……わからない」

「祖父は何か言っていたか」

「聞こえなかった」

「空を見たんだろう」

「うん」

「なら、塔の方向を見ていたはずだ」

ミナは黙った。

兵の声は責めているわけではなかった。むしろ、必死だった。決まった形の証言を欲しがっている声だった。

「君の証言で、村を守れる」

兵は言った。

「帝国の仕業だと証明できれば、連合は軍を動かせる」

その瞬間、ミナは奇妙なことを思った。

祖父はもう死んでいるのに、まだ何かに使われるのだ、と。

彼女は唇を噛んだ。泣きたくはなかった。泣けば、また大人たちはかわいそうな子を見る目をする。

「……わからない」

もう一度、そう言った。

兵はしばらく黙っていたが、やがて苛立ちを隠しきれずに紙を乱暴にめくった。

「もういい」

ミナは解放された。

集会所へ戻る途中、窓の外に国境監視塔が見えた。白い雪の向こうに、黒い影のように立っている。あの向こう側に帝国がある。教師はそう教えた。地図にもそう書いてある。

でも、ミナにはわからなかった。

向こうにいる誰かが祖父を殺したのか。
こっちにいる誰かが祖父を使おうとしているのか。
そのどちらが、より嫌なのか。


その夜、ハイネ帝国東方方面軍司令部では非公開の会議が開かれていた。

「連合側は既に増援を動かしています」

「予定より早いな」

「だが口実としては十分だ」

地図の上には、赤と青の駒が並んでいる。村ひとつ、塔ひとつ、川ひとつ。それらの上で、数万人の生死が指先ひとつで前後する。

「問題は、発端の処理です」

「残っている証拠は」

「現地工作班が回収中。ただし、住民証言にばらつきあり」

将官のひとりが鼻で笑った。

「証言など、後でいくらでも整えられる」

その場にいた誰も、老人の名前を知らなかった。

会議室の外では、伝令が凍えた指で書類を抱え、次の命令を待っている。補給路ではエーリヒたちが夜営の準備をし、ルスカの診療所ではリアがまた新しい包帯を裂き、帝都ではセシルが清書された声明文に署名をし、集会所ではミナが眠れないまま祖父の最後の顔を思い出していた。

まだ戦争は始まっていない。

少なくとも、書類の上では。

だが、火はもう雪の下で燃えていた。誰にも見えないところで、音もなく、確実に広がっている。

それが地上へ吹き出すまで、そう長くかからない。

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みき

気になったことを自分の意見も交えつつ記事にしていきます。 (内容は種類にこだわらずやっていきます)

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